バレンタインデー

「ねぇ、チョコレート欲しい?」そう声をかけられて顔を上げると、想像していたよりもずっと近くに千鶴の顔があって、改めて近くで見るとこいつホントに鼻筋が通ってて肌白いしまつげも長いなーとかなんとか考えて、小っ恥ずかしくなって、気がつけば「いらないよ、腐れ縁からのチョコレートなんか」と笑い飛ばしていた。

 

これは男子高校生にしかわからない話だけれど、バレンタインチョコは母親からしか貰えなきゃそれはそれで切ないし、女の子から貰ったら嬉しいけどなんか気恥ずかしくて少しぶっきらぼうな対応になる。それが昔はなんとも思ってなかったのに、高校に入ってからやたらと女の子らしくなった隣に住んでる幼馴染からの義理チョコだったら尚更だ。

 

「……ふーん、そういうこと言うんだ……せっかく作ったのに。じゃあ、本当にあげないから。」そう言うと千鶴は不機嫌そうに踵を返して女子の輪の中に戻っていってしまった。鼻で笑われると思っていたのに、それが予想ずっと冷たい対応で少し、悪いことをした気もしたけれど、気になる女の子から義理チョコを貰うのは何も貰わないよりむしろ惨めかもしれない。そんなふうに自分を納得させた。それにどうせ手作りと言っても、去年のように部活の友人に配るついでに作ったものだろう。

 

アイツはいつもそうだ。僕の気持ちも知らないで昔のままの距離感で近づいてきて、その度に僕は「男として見られていない自分」と向き合うハメになる。かといって、今の無条件に側にいられる関係を自分から変えられるほど、僕は勇敢じゃなくて、そのことも苛立たしい。

だから、義理チョコなんて、受け取らなくて正解だと思った。

 

          ◇

結局、高校二年生のバレンタインに貰えたのは所属している陸上部のマネージャーからと男子全員に10円チョコをくれたクラスメートからの支給品だけだった。放課後体育館の横を通ると呼び出された男子と呼び出した女子がいい雰囲気になっていたりして、石の一つでも投げてやろうかと思った。

 

「おぅ今終わり?一緒帰ろうぜ」

ちょうど体育館から出てきたバレー部の悪友が言う。

「バレンタイン、何個もらえた?」

そう尋ねると「8個かな…半分は義理だけど」等とのたまうのでコイツとは縁を切ろうかなと半ば本気でそんなことを考える。

「そうそう義理チョコと言えばさ」

「ん?」

「千鶴ちゃん、今年部員にくれたチョコ買いチョコだったんだよな…去年までは手作りだったのに」

 

僕はその話に小さな疑問を覚える。確かに朝、千鶴は義理チョコを"作った"と言っていた。

 

「でさ、今年は手作りじゃないのか〜って言ったらさ『今年は手作りは本命だけなの、ゴメンね』って。しかも渡しに行くからって部活が終わったらすぐ帰っちゃってさ。お前仲いいだろ?千鶴ちゃんの好きな人、誰だか知らない?」

 

モテる悪友に適当に別れを告げて走り出す。

 

追いついた時にはちょうど千鶴は家の鍵を開けたところで、その背中になんて声をかければいいかわからなくなって、一瞬躊躇って大きな声で名前を呼んだ。

「何だ、君かい。チョコなら無いよ。結局誰にももらえなくて、私みたいな腐れ縁に縋りに来たんだろうけど、そんな奴にあげる義理チョコなんて、ほんとに一つも…!」

 

今にも泣きそうになっている瞳を見て、僕は自分の独りよがりを知る。よく見れば目元を拭う人差し指には絆創膏が巻いてある。

 

「……僕は、好きな女の子から義理チョコ貰うなんて惨めになるだけだから、千鶴からの義理チョコは受け取りたくなかったんだ」

 

「そんな嘘までついて、そこまでしてチョコが欲しいの?君なんてだいっきらいだ。」

 

「嘘じゃない。気持ちを口に出して、関係が壊れるのが怖くて、今まで言えなかったけれど、僕は千鶴が好きだ。」

 

僕達の間に、冷たい2月の風が吹く。空は鮮やかなオレンジから紺色に移り変わってきていて俯く彼女の顔は近くにいるのによく見えない。

「……倍で…して」

何かを千鶴が呟くけれど、声が小さくてよく聞こえない。

「3倍で返して、ホワイトデー。約束するなら、あげる」

「…わかった。量も想いも、三倍にして返すよ。」

「私が、どれだけ君を好きか、知らないでしょう。三倍返しなんて無理なんだから。だから、これは前払い分ね」

僕がその言葉を噛み締め終わる前に、唇に柔らかなものが押し付けられる。それが千鶴の小さく形のいい唇だと気がつくのに数秒かかって、これが前払いならホワイトデーには破産しそうだな、なんて考える。

あたりが暗くなっていて助かった。真っ赤になった顔を、誰にも見られずに、済むから。

 

 

 

ポケットの中の恋愛


僕と彼女がつながったのは、二ヶ月前のことだ。十月のある晴れた朝、ポケットの中に君の手が潜り込んできた。

何も入れていなかったはずのポケットの中に、突然柔らかく冷たいものが入っていて酷く驚いた。驚いて手を引き抜いて、恐る恐るもう一度手を差し入れる。すると、そこに入っていたはずのそれがなくなっていて、何だやっぱり勘違いか、なんて思っていると指先に先程の柔らかさが触れて、戸惑いがちに僕の手の上を這い回り始めた。それが人の手だと気がついたのは少しした後で、一体何が僕のポケットに起きたのか、全くわからなかった。

駅前の人通りの多い朝の歩道で自分のポケットを覗いて見るわけにもいかず、どうしたものかと手を撫でられるこそばゆさに耐えていると、不意に相手の手が引き抜かれた。

やれやれ、後でこのポケットは縫いとめて使えないようにしてしまおうか?

引き抜かれた手が再度ポケットに入ってきた感覚があって、少し遅れてカサカサと音のしそうな、小さな紙片が僕の手の中に押し込まれた。取り出して広げてみる。小さな花の模様があしらわれた可愛らしいメモ用紙が2つに折り畳まれて入っていた。

この花は何という名前なのだろう?小さな白色の優しそうな花の模様だった。

メモには「あなたは誰ですか?なぜ私のポケットの中にいるのでしょう」と几帳面そうな少し小さい文字で書かれていた。

そんなこと、こっちが聞きたい。なぜ、僕のポケットは十月のある晴れた朝にどこかにつながってしまったのだろうか。

とりあえず学ランの胸ポケットからペンを取り出して花柄のメモの裏に「僕は高校生で、どうしてこうなってしまったのかはわかりません。このポケットをどうすればいいのでしょう?」と書いてつながったポケットに押し込んだ。幸いにも向こう側の彼女はポケットに手を入れていなかったらしく、手が触れて気まずい思いはしなくて済んだ。

 

          ◇

 

一時間目の体育を終えて教室に戻って汗臭い運動着から制服に着替えなおして、慎重にズボンのポケットを弄ると、小さな文字で書かれた返事が来ていた。

「学生さんなんですね、私は社会人一年目です。勉強頑張ってください、私のポケットはスーツのものなのですが、スーツを一着しか持っていないのでしばらくポケットはこのままにさせていただいてもよろしいでしょうか…?ご迷惑はおかけしません。」

当然僕も学ランは一着しか持っていないし、それで問題はなかった。右のポケットに携帯や財布を入れないように気をつければそれで事は済む。

「ありがとうございます。お仕事頑張ってください。僕も学生服はこれしかないのでそうしてもらえるとありがたいです。よろしくお願いします。」

こうして僕らの奇妙な繋がりが始まった。

 

         ◇

初めてつながってから2日後、少し肌寒い雨の日に右ポケットに違和感を感じて中身を取り出してみると金の包み紙のチョコレートとあのメモが入っていた。

「職場でもらったんですけど、実はチョコレート苦手なのでおすそ分けです。チョコレートは集中力アップ効果があるとか…!勉強頑張ってくださいね」

ありがたく金の包み紙を剥がしてチョコレートを口に含むと、ミルクチョコレートの甘い味が口に広がる。結構高級なやつなんじゃないだろうか。

「ありがとうございます、美味しかったです。雨も降っていて寒いですが風邪に気をつけてください」

それをきっかけとしてなんとなく会話が途切れることもなくて、ささやかな文通が始まった。

好きな映画のこと、仕事で怒られたこと、時には苦手な英語も教えてもらったりした。お互いに何となく、名前は聞かなかった。それでも、(はっきりと口には出さなかったが)天気の話題が合うことや、話題に登る街の風景が重なることから、おそらく同じ街にいるのだろうということはわかった。

 

ある帰り道、あまりに寒くてポケットに手を突っ込んで歩いていると、彼女の冷たい手が滑り込んできて、遠慮がちに僕の手を握った。手紙ではちょっとした厚みになるくらいやり取りしたけれど、こうして手に触れるのはポケットがつながったあの日以来だった。

改めて触ってみると彼女の手は冷たくて、強く握っていたら折れてしまいそうに細かった。女の人の手なんて握るのは初めてだったから、手汗に気が付かれないか、強く握りすぎていないか、そんなことばかり気になった。そして僕らは、誰にも気が付かれないまま手を繋いで帰った。

この日から、僕は帰り道にはポケットに手を入れて歩くようになった。おそらく彼女もそうしているのだろうということは、手をつないで変える頻度が教えてくれた。

 

         ◇

 

今夜はクリスマスイブだけれど、受験生にはあまり関係ない。けれど、彼女にはなけなしの貯金を叩いてプレゼントを買った。苦手だった英語の成績が伸びたお礼という大義名分に頼って。

課外を終えた帰り道にプレゼントを仕込んでおこうと思ったら、ポケットの中に先客がいた。左手だけの手袋と小さなメモ。

「メリークリスマス!私からのプレゼントです。右手もあげちゃうと君の温度が感じられなくなるので左手だけだけど許してください」

マフラーで口元を隠して、にやついていることを悟られないように歩く。僕からのプレゼントをポケットに入れて帰り道で君が訪れるのを待つことにしよう。

 

         ◇

 

「ポケットから手出して歩きなさい、転んだとき危ないわよ」

なんて、さっき廊下で彼に言ったけれど、私に彼を怒る資格は無い。彼がポケットの中で待っているのは私の左手なのだから。それがなんだかたまらなくうれしくて、少しおかしくて、にこにこしてしまう。私が彼の正体に気がついたのは、英語の課題について聞かれたときだった。それが自分が授業で出した課題だとわかって、そこから突き止めることができた。早く気がついてくれないかなー、と思う半面、卒業の前には私からばらして告白しちゃおうかな、なんても、思う。彼が私の指にはまっている指輪に気がつくのはいつだろう。彼がプレゼントしてくれた指輪に。

完璧な日曜日

目が覚めた時、完璧な日曜日のお膳立てが整っていることに気がついた。

洗濯は一昨日したばかりだし、掃除機は昨日かけた。何より布団に包まっていた僕を優しく起こした午前10時の緑の風と黄色の日差しが僕にそれを告げていた。

大きく伸びをして布団を這い出る。顔を洗って寝癖を治す。パジャマを脱ぎ捨てて白のロングTシャツと黒のジーンズに着替える。誰に会うわけでもないけれど、しっかりと目を覚まさないで過ごすのは、完璧な日曜日に似つかわしくないように思えた。

 

          ◇

 

朝食を食べるにはあまりに遅かったのでブランチを食べることにした。「ブランチ」なんて休日的な響きの言葉だろうか?

いつか買ってそのままにしていたホットケーキミックスを引っ張り出してボウルに卵と牛乳を入れかき混ぜる。そこにホットケーキミックスを加えると菜の花色の海に白い島が浮かんだ。ダマがなくなるでかき混ぜた生地をお玉を使ってフライパンに落とす。プツプツと気泡が弾けるに従って甘い匂いが鼻腔をくすぐる。

世の中には幸せを内包した食べ物があって、ホットケーキは間違いなくその一つだ。他にはふわふわオムライスやタコの形に切られたウインナーや柔らかな桃も幸せの味がすると僕は思う。

こんがりと狐色に焼きあがったホットケーキを口に運ぶ。一枚目はバターで。二枚目はメープルシロップをかけて。

 

食べ終わった皿を片付けて、手挽きのコーヒーミルを棚から下ろす。自分でコーヒーを挽くのは少し手間だけれど、僕はその手間を愛する。それは音楽をわざわざレコードやカセットテープで聞くことやナイフで鉛筆を削ることと同じような楽しみであり、贅沢だ。

 

コーヒーを飲みながら窓際のベットに座って買ったままになっていた古い小説を読む。夏休みに田舎町を訪れた少年が小さな冒険を越えて少し大人になる話だった。プロットに目新しいところは無かったけれど、ただ夏の描写が美しかった。夕立に煙る町も、人ではない何かが紛れ込んでいそうな夏祭りも、セミが喚くうだるような暑さも、そこにあった。

この街にまだ夏は来ない。けれど、もしかしたら、僕がその足音を聴き逃しているだけなのかもしれない。そんな気がした。

 

本を読み終わると午後3時を半分以上回っていた。完璧な日曜日の夕方に、何が必要だろう?ぼんやりと考えていると、ふと近くに銭湯があったことに思い当たった。駅に行くときに何度か見かけていたけれど、まだ一度も入ったことはなかった。

大きな風呂、帰り道の夕焼け、ついでにビールなんかも買って帰ろう。

 

         ◇

思っていたよりもずっと大きな浴場は貸し切り状態だった。はじめて入った銭湯は僕が思い描いていたとおり壁に大きな富士の絵が書いてあった。何かで読んだことがあるけれど、銭湯の富士の絵を描く職人は日本に三人しかいないらしい。いつまで、この景色は日本人の「原風景」の一つで有り続けられるだろうか。もし、天国があるのなら人々から忘れられたいつかの原風景のための天国があったらいい、僕はそう思う。 

風呂に入っていると何かに許されているような気分になる。僕の輪郭が溶けて、お湯と混ざっていくのを感じた。

 

          ◇

風呂を上がって今時絶滅危惧種になった瓶の牛乳を飲み終わって外に出ると、すっかり街は夕焼けに染まっていた。槇原敬之の「The Average man keeps walking」を口ずさみながら帰る。いつだったかラジオで聞いて以来、なんとなく忘れられなくて、ずっと好きな曲だ。僕はこの曲より日曜日の夕暮れにふさわしい曲をあれから何年もたった今もまだ、見つけられずにいる。

          ◇

スーパーに寄って缶ビール二本と焼き鳥とカツ丼を買った。

家に帰って、七時からのバラエティ番組を見ながらカツ丼を食べて、焼き鳥を肴にビールを飲んだ。初めて飲んだときは苦くて二度と飲まなくていいと思ったビールも、いつの間にか自分で買って飲むようになった。きっと僕はこうして少しずつ大人になっていくのだろう。もうすでに、高校生の僕が何を感じて生きていたのか、今の僕にはわからない。

 

テレビを消して、ベッドに寝転がってラジオを付ける。有名な洋楽がリクエストされて、それが流れる。あぁなんて言ったっけなこの曲、完璧な日曜日の終わりにはふさわしいアコースティックギターの弾き語りだった。

 

微睡みながら、心に広がる充足感を味わう。

 

「完璧な日曜日」は確かに世界に存在するのだ。僕はそれだけで満足だった。それがわかっていれば明日から再開する日常がどれほど酷いものでも、僕は世界を嫌わずに生きていける気がした。

 

ラジオから流れる弾き語りが終わるその前に、眠りに落ちた僕の完璧な日曜日は終わった。

それは確かに愛だった

「眠れないの。いつもの、弾いて」

君は今晩も僕にそう頼む。僕は君にこのお願いをされるたびに胸に小さく感じる痛みが決して顔に出ないように精一杯のにこやかな笑顔でそれに応える。そう、これは業務の一環で、それ以上の意味は何もない。

僕と君の間に雇用者と従業員以上の関係がないように。

ゆっくりと冷たい鍵盤に指を下ろす。静かなピアノの音が月夜に響く。君に触れられぬこの手の代わりに、この音が君の髪を撫でるように。君に口付けられぬ唇の代わりにこの旋律が君を濡らすように。君の白く細い身体が夜の重さに壊されぬように。そう祈って僕は音を紡ぐ。それは、確かに愛だった。

ーこの世のすべての苦しみから逃れるには、やはり死ぬことしかないのだろうかー

ウイスキーの水割りに溶けたチョコレートの絡んだおそらくは鮮やかな橙の蜜柑を皮ごと口に含みながら、走馬灯と共にそんなことを考える。口の中に小さな蜜柑に凝集された紀伊の国の暖かな日差しが広がったあと、ガーナのココア畑で不当に働かされた少年たちが殴り込んできた。

 

真っ白になりかけた頭で必死に思い出す。なぜ、こんなことになったのだろう。

 

           ◇

「闇鍋をしよう」

それを言い始めたのが誰だったのか明らかでないのはいつもの事で、何を目的にするわけでもなく集まってその日の思いつきで活動する「総合文化サークル」を標榜して酒を飲むだけの我らのサークルのボンクラの誰かであることは間違いないのだが、問題は我らのサークルのサークル員はもれなく皆ボンクラであるというところにある。

「鍋に入れるものは食べられるものであること」「箸を付けた食材に責任を持つこと」それだけをルールに我らの闇鍋は幕を開けた。

 

           ◇

無駄に広い部屋に住むサークル長の家に押しかけ、カーテンを引き、鍋に水を入れ火をかけ電気を消すとそこにはまさに闇が立ち現れてきた。「深淵を覗くときまた〜」という有名なニーチェの言葉があるがたしかにテーブルの上には深淵がいて、我々を覗き込んでいた。

「じゃあ…始めるぞ…」サークル長が闇のゲームの開始を告げ、最初の食材を投じる。とぷん、と何かが水に沈む音が部屋に響いた。

それから順に時計回りに食材を投じていく。ドボン、トポポポポ、ピチャッ、バチャッバチャッ、不穏な音を立てて「何か」が作り上げられていく。我々は本当に鍋を作っているのだろうか?実は得体の知れない魔物を作ってしまっているのではないか?そんな思いが胸をよぎる。おそらく誰も皆その心を抱えている。やはり、闇鍋を覗くとき、深淵もまた我々を覗くのだ。あぁニーチェよあなたは正しかった。そして我々の後悔と不安と共に鍋も煮詰まっていく。コトコトと呑気な音を立てて。

 

           ◇

「……そろそろか…?」誰かがそう言う。暗闇の中で各々が首肯したのが空気のよどめきでわかる。

鍋の蓋が開けられる。ふわりとアルコールの匂いが漂う。アルコール?

「おい誰だ酒入れたの!」「俺じゃねぇ」「知らん」「さぁな…風に聞いてくれ…」「まぁまぁ、いつか聞いたが日本酒で鍋を煮込む『美酒鍋』という料理もあるらしいし、大した問題じゃァないよ…」

なるほど…問題は使われている酒が日本酒ではない可能性が非常に高いということではあるが、黙っておこう。

「食べる…か…」それぞれが悲しみに満ちた手付きで鍋を取り分ける。食べ物で遊ぶからには責任を持って食べなければならない。私も明らかにじゃがいもではないじゃがいも大の何かをとりわけ箸を手に取った。

古い文献によれば、「食材」という言葉は「贖罪」に通ずるという。我々の罪もこの闇鍋で消えるだろう。

そんな苦し紛れの嘘で自分を騙し、じゃがいも大の何かにかじりついた。

 

           ◇

そして、場面は冒頭に戻る。

この世のすべての苦しみから逃れるには、やはり死ぬことしかないのだろう。きっとそうだ。何も見えぬ暗闇の中で悶絶する戦友たちが私には確かに視えた。

         

           ◇

 

電気をつけたら、みかんやらウイスキーの空き瓶やらマグロの切り身やら溶けかけのチョコレートやら鈴カステラが浮かんだ混沌が姿を表した。大きな鍋に移して、カレールーを入れたら案外イケた。カレーはやっぱりすごい。二度と、闇鍋はやらない。

銃を買った。

もちろんそれはモデルガンで人を殺す力なんて少しもない。それでも黒光りする金属製のズッシリとしたリボルバーは確かに暴力を内包しているように、僕には思えた。

装填できる弾は六発。誰に向かって打つかは、まだ決めていない。

 

これは、僕のお守りだ。この世界を包む気怠い重圧に押しつぶされないための。

 

         ◇

鞄の底に銃を突っ込んで学校へ行く。なんだかそれだけで自分が特別な人間になったような気がして、いつものように人で人を洗うような朝の満員列車も、あまり気にならなかった。

 

限られた六発で誰を撃つか考える。ぼんやりしていたせいで、授業中に指名されたことに気が付かなかった。僕を指名した数学の教師がそのことについて何かくだらないジョークを言って何人かが笑う。決めた。最初に撃ち殺すのは彼にしよう。

 

         ◇

 

授業を終え、教室を出る彼を追いかける。アイロンがけされたシャツ、片手に持った教科書、まだ黒々とした髪を後ろから見つめる。渡り廊下には他に人はいない。先生も、僕に気が付いていない。足音を殺し、息を潜め、出来る限り近くまで近づく。心臓が煩いくらいに高鳴る。ズボンのベルトに差し込んだ銃を引き抜き、後ろ手に撃鉄を上げ、両手で銃を構える。少し銃口が震えているのを見て、僕は自分の手が震えていることに気がつく。

 

首元に狙いを定めて、引き金を引く。

さよなら、先生。その瞬間、僕には確かに首から鮮血を撒き散らす先生が見えた。

 

カシャン

 

という音がしてリボルバーが回る。その音が意外に大きくて僕は死んだ先生が振り向きやしないかと肝を冷やす。でも、それは振り向くことなくそのまま渡り廊下を超えて、階段の向こうへと消えていった。

 

僕の手の中には5発になった銃とやってやったのだという高揚感と興奮が残されていた。

 

         ◇

 

一回目を終えてしまえば二回目や三回目は何ということはなかった。僕はその日、学校を出るまでに先生の他に三人を殺した。

一人は気に入らない先輩を。一人は勉強のできるクラスメイトを。一人はいつまでも僕に振り向かない君を。

先輩は喉元を撃ち抜いた。これで少しは静かになるだろう。

クラスメイトは頭を撃ち抜いた。黄色や赤の液体と、彼が必死に詰め込んだ知識が流れてリノリウムの廊下に広がっていくのが見えた。

君は胸元を撃ち抜いた。きっと服の上からでもわかる形のいい色白の君の乳房には穴が空いて、僕が欲しかった真紅の心臓にも手が届くだろう。

 

そして帰り道、暗くて寒かったから前を歩く大きな買い物袋を持った女を撃ち殺した。

緑のセーターの腹に空いた穴から血が流れ出して、白のジーンズに染みていくのが見えた。暖かな血が流れても、それでもまだ寒かった。

 

カシャンカシャンカシャンカシャン。四回音がした。

 

         ◇

 

家に帰り、柔らかな太陽の匂いのするベッドに寝転がる。

五発を撃ち終えた僕は、朝出かけたときよりもこの世界を素晴らしく感じていた。力を持つことは素晴らしい。それが、指先のほんの小さな力で行使できる、大きな力ならば、なおさら。

 

最後の弾は誰に打ち込むか、最初から決めていた。

僕は銃口を加え軟口蓋に強く押し当てる。先生を消し、先輩を黙らせ、優等生の知識を吸い、君の心臓をえぐり、女の腹に穴を空けた力の象徴を咥えているという事実は僕をひどく興奮させた。

 

撃鉄を起こし、引き金を引く。カシャン、リボルバーが嘘くさい音を立てて回った。

 

スノウ・ホワイト

 

僕は彼女のことを「白雪」と呼んだ。

 

それは本当の名前ではなかったけれど、彼女はその名前で呼ばれることを好んだ。

 

本当の名前はわからない。

 

                                    ◇

彼女は精神科の待合室で出会った。

 

僕は少し前に巻き込まれたある事故のカウンセリングを受けに精神科に通っていた。

 

彼女がなぜ、通院していたのか、後になって何度か聞いたけれど、結局教えては貰えなかった。ただ、毎週水曜日、僕が通院するたびに彼女はいつも待合室にいた。

 

最初は会釈をする程度の関係だったけれど、白い雪のちらつくある日に「よくお会いしますね」と彼女に声をかけられた。

彼女は12月の深夜に降る雪のように白い肌をしている綺麗な女の子だったし、それにカウンセリングを待つ間、暇を持て余していたからそのまま彼女と話をした。

彼女に名前を尋ねると「わけがあって名前は教えられないの。あなたが好きなように呼んでくれていいわ。あんまり酷いのは困るけれど」と言われた。

「なら、白雪っていうのはどうかな、ちょうど雪も降っているし」12月の深夜の雪のような白い肌に目を引かれたからだ、とは言えず、そういった。

「白雪、ね。気に入ったわ、そう呼んで。これからは林檎を食べるときは、毒が入っていないか確かめなきゃ。」

「魔法の鏡と女王にも気をつけたほうがいい。」

それから毎週水曜日は少し早めに病院に出かけて、白雪と待合室で話をするようになった。

 

聞いてみると、白雪は僕の通う大学のすぐ近くにある絵の専門学校に通っているということだった。白雪の書いた絵を幾つか見せてもらったけれど、何か不安と不穏を孕んだ、そんな印象を受ける絵だった。「ある種の絵っていうのはね」白雪は言った「作者じゃなく、鑑賞者の心の中を映し出すものなのよ」

 

         ◇

ある雪の降る夜に、白雪を夕食に誘った。

「林檎が出ないなら行く」と言って、彼女はにやりと笑った。

背伸びをして予約した高級なレストランに、白雪は自然に溶け込んだ。もともと白い肌に深夜二時のように黒い髪をしている美人だっだけれど、フォーマルな黒のドレスを着た白雪は料理の味がわからなくなるくらい綺麗だった。

「すごく素敵なレストランね、初めて来たわ。こんなお店。」と白ワインのグラスを傾けながら白雪が言う。

「それは良かった。背伸びをした甲斐があったよ」

「それで、このあとはどうするのかしら」

「あ…この後のことは全然考えてなかったな」

「ふぅん…じゃあこうしましょう。外に出て、まだ雪が降っていたらあなたの家に行く。雪が止んでいたら、そのまま帰る」

僕は窓の外を見る。雪は夕方から勢いを増すばかりで止みそうにはない。

「それは、つまり、そういうことなのかな」

と尋ねる。

「さぁ、どうかしら。さぁそろそろ行きましょ、雪が止む前に。」

 

          ◇

ベッドの中で、つるりとした裸足で太ももを撫でられたので、冷たいと文句を言うと私冷え性なのよ。と返された。

白雪の躰は細く、冷たかった。触ったら僕の熱で溶けてしまいそうだ、と伝える。早くあなたの熱で溶かして。と耳元で甘い声が囁く。そっと触れると12月の雪が僕の指を少し湿らせた。

 

          ◇

そういえば、と事を終えたあとで思い出したように白雪が言う。どうしてあなたは毎週水曜日に陰気な精神科なんかに通っていたの?

僕は僕の巻き込まれた事故と、目の前で仲のいい女友達が死んだことを話す。

「それでね、」白雪の深みのある黒い髪を指で梳かす。

「僕が一番ショックだったのは、冷たくなっていく彼女を見て、可哀想でも、悲しいでもなく、『綺麗だ』と感じたことだったんだ。だって彼女は、本当に僕の友達だったんだよ。」カウセリングでも話さなかったことを口にする。

 

「ねぇ、私の躰と彼女の躰とどっちが冷たかった」

 

そう白雪が聞く。

何も答えずにいると、白雪の細く冷たい指が彼女の裸の喉に僕の暖かな両手を導く。

あの時と同じだ。

白雪はきっといつか毒林檎を食べて死んでしまうだろう。もしかするとその前に、僕がさっき与えた熱で溶けてしまうかもしれない。

どうせいつか壊れるなら、僕が。

 

「絞めて」

 

と言う誰かの声が遠くで響く。

窓の外ではまだ雪が降り続いている。おそらく、明け方まで止まないだろう。