自由とウミガメ

「君は、自由でいいね」

そんな彼女の言葉がここ何日か頭から離れない。
どうして古い友達である彼女と電話をすることになったのか、よく覚えていない。たぶん、ビールを飲みすぎたんだと思う。

久しぶりに聞く彼女の声はあの頃と何も変わっていなくて、そのことが僕をひどく懐かしい気持ちにさせた。

「君は今、東京にいるって、話に聞いたよ」

彼女は言う。僕は缶に三分の一くらい残ったビールを飲み干しながらそれを聞く。何本飲んだか、4本目から数えるのはやめてしまった。

「うん。東京に来てみたくなって。」

「大学が北海道だったから、そのままずっと北海道にいるか、地元に帰るのかと思ってた。」

なんで東京に行くことにしたの?と改めて聞かれて僕はそのことについて考えてみる。どれだけ考えてみても、僕が東京に「来なければならなかった」理由は一つも見当たらなかった。僕は東京に「来たかった」のだ。別に大学のあった北海道や地元が嫌いだったわけではない。むしろ土地も、そこに住む人たちのことも僕は好きだった。

「僕は、なんとなくだけど、自分の能力とか、そういうものがちゃんと世界で通用するのか試してみたくなったのかもしれない。どこにいたってそういうことはやり方によってはできるんだろうけど、東京に来るのが一番手っ取り早く思えたんだな。」

考えると同時に、口をついてそんな言葉が出る。自分で口にした言葉を聞いて「なるほど僕はそんな風に考えていたのか」と気が付く。

彼女はしばらくの間、何も言わなかった。開けっ放しの窓からは、どこか遠くの夜を駆ける救急車のサイレンが聞こえてきた。昼間あんなにうるさく鳴いていた蝉の声はいつの間にか止んでいた。

「君は自由でいいね。それはすごく恵まれたことなんだよ。」

彼女がどんな思いでその言葉を口にしたのかはわからない。僕は彼女の誕生日も知らない。どんな過去を生きてきて、その言葉を口にしたのかはわからない。きっと、これからも知ることはないだろう。

ただ、彼女がとても優しい女の子じゃなかったとしたら、きっとものすごく怒っていたであろうことが僕にはわかった。

彼女がそういうことを言ったのはそれきりで、そのあとはなんのことはない世間話をして電話は終わった。

僕はアルコールで酩酊した回らない頭で、彼女の言葉について考えてみる。僕は自由で、恵まれていて、そのことに気が付いていないのだろうか?

毎日決まった時間に起きて、決まった手段で決まった場所に行って、決まった仕事をする僕が自由だとは思えなかった。

火を点けたばかりの煙草の煙が、無駄に高い部屋の天井に向かって消えていくのを見ていた。敷金が戻ってくるといいな、とそんなことを考えた。

      ◇

大学生の休みが長すぎるのか、あるいは社会人の夏休みが短すぎるのか、それは分からないけれど、とにかく社会人の夏休みは短かった。土日を含めて5日間。しかも平日に被る分は有給で消化した。やれやれ、あと何十年もこんな調子なのだろうか?気が滅入る。

ただそれはそれとして、僕は夏休みが夏休みであるというそれだけの理由でそれを愛することができた。それはたぶん、恋心に似ている。好きな相手が変わってしまったからと言って簡単には嫌いになれないものだ。僕は5日間になってしまった夏休みのこともそれなりに好きだった。

特に予定もなかったから、海沿いの街に行って何日間か過ごした。夏休みに海に行かないでどこに行くというのだろう?毎日昼前から海岸に行ってビールを飲んだり、古本屋で見かけた分厚い小説を読んだりして過ごした。

波打ち際で寄せては返す波と戯れたりもした。夜は宿に帰って浴びるようにビールを飲んで、泥のように眠った。

その間僕はずっと「君は自由でいいね。それはすごく恵まれたことなんだよ。」という言葉について考えていた。あるいは、僕はその僕の持っている自由さを実感したくて海沿いの街で夏休みを過ごしたのかもしれなかった。

そんな風に何日かを過ごして、帰る日の夕方、砂浜で死んだウミガメを見つけた。あおむけにひっくり返って、くたびれたぬいぐるみのようになったウミガメの腹は、波で濡れて、西日を眩しく反射していた。

「どんなふうに生きて、ここにたどり着いて死んだのだろう。」

とウミガメの生について思う。

「こんなところで死んでかわいそうに。」

生きていた間、知りもしなかった癖に、僕はその死に悔やみを述べた。

「かわいそうじゃないよ。」

いつの間にか僕の後ろに二人組の中学生くらいの女の子が立っていて、僕にそう言う。

「かわいそうじゃないか。こんなところで野垂れ死んで。」

二人は小さく首を横に振る。その動きが二人ともぴったりそろっていて、僕はそのことに恐怖を覚える

「この子は、自分で生きるところを決めて、網にもかからず、ここで死んで海にかえるの。それは自由で幸せ。」

「僕にはわからないな。」

僕はやれやれと芝居がかった身振りを付けて首を振る。

「あなただって自由なのに。」

またそれかよ。と思わず舌打ちをしたくなる。なんだってみんな僕を自由だと思いたがるんだ。

気が付くと二人は消えていて、僕と死んだウミガメだけが砂浜に取り残されていた。

     ◇

宿に戻ると、テレビの映画チャンネルで北野武の「HANA-BI」を放送していた。僕はビールを飲みながらそれを見て、夕方の死んだウミガメのことを考えた。海で生きて海で死ぬことがウミガメの自由で、幸せなのだろうか。僕は生きる場所を自分で決めているのだろうか。

思えば、僕は「行きたいから」という理由で大学を選んで、自分の行ってみたい街でやってみたい仕事に就いた。そういう意味で僕は自由だ。ただ、それが彼女やあの二人組のいう「僕の自由さ」なのだろうか。僕にはわからなかった。誰も、僕に答えを教えてはくれない。


もしそうだとしたら、僕はそれを認めるのが怖くなった。すべて、今の現実ー毎日決まった時間に起きて、決まった手段で決まった場所に行って、決まった仕事をすことでさえ、僕の選択の結果で、それ以上でもそれ以下でもないことを認めることが怖い。

画面の中で乾いた銃声が二発響いた。

幸福のしっぽ/ハヌマーン

俺が初めてハヌマーンを聞いたのは友達のブログがきっかけだった。
そいつは高校の友達で、同じ大学に通ってはいたけれど、俺よりずっと頭が良くて「面白い」奴だった。
俺はたぶんそいつに嫉妬にも近い憧れを抱いていたのだと思う。
そいつが(確か)「ハヌマーンを聞け」とブログで書いていた。
憧れの相手好きなものは吸収したいし、知りたい。
それが憧れじゃなくて好意と置き換えてもいい。
恋人の好きなものとか、友達のお勧めしてるものはそれだけでいつか触れてみたいと思う。
みんながみんなそうだとは言わないけれど、少なくとも俺はそうだ。
愛は名前を知るところから始まるのだ。相手を知ることは愛なんじゃないか?友愛か博愛か恋愛かそれはケースバイケースだけれど。

 

そんなわけで、俺はハヌマーンを聞いて、そこからずっと好きなわけだけれど、いつの間にかあのブログも消えてしまった。本人とも疎遠になって、今はどこで何をしているのかわからない。
ただ、俺なんかよりいろんなことの本質をよく見ている男だったから、たぶん上手くやってるんじゃないかと思う。そうだといいな。
結局、ほとんどの人間関係は≪近づいていたつもりが、高速ですれ違っていただけ≫というだけの話なのだ。
それでもすれ違った彼らは俺の中に何かを残して行っていて、俺はそれをたまに引っ張り出して少し寂しい気持ちになる。

 

すっかり前書きが長くなってしまった。ハヌマーンの話をしよう。
ハヌマーンについて書きたいことはたくさんある。パチンコで負けた日に「Fever Believer Feedback」を聞いた話とか、「トラベルプランナー」を一時期目覚ましのアラームにしてた話とか。暗いニュースを見ると「リボルバー」を聞きたくなる話とか。


まぁ、でもどれか一曲について書くなら《幸福のしっぽ》かな、と思う。
これは、今まで一度で幸せに偶然手を触れてしまったことがある人、ハッピーエンドの向こう側に迷い込んでしまった人のための歌だと俺は思う。

「どんなバンドか」とか正確な歌詞とか書くのが面倒くさいのでその辺は検索してほしい。そういうのって実際のところ何も伝えないんじゃないか?と俺は思う。Wikipediaとあらすじを読んで内容を完璧理解できるような小説なら、読む必要が無いのと一緒だ。

 

「俺は世の中とやれてないな」と感じたことがある人は多いと思う。というか大体の人はそうなんじゃなかろうか。
《また転んだ。日々が行く。なんで僕だけと呟く。運命って言葉が浮かぶ。手も足も出せずに笑う》そんな歌いだしが響くのはきっと俺だけじゃないはずだ。
みんな「なんで僕だけ」と不幸を嘆き、生きる。それは社会的に成功しているかどうかとか、他人から見て上手くやれてるかとか、そういうんじゃなくて結局は「俺はどう感じるか」の話だ。人は他人の悲しみや不幸について完全に理解することはできない。俺には山田亮一が詩を書いた時に感じた想いを完璧に知ることはできない。その他のすべての哀しみについてそうであるように。

 

人間でいるためには《明日もまた同じ場所へ同じ手段で行く》必要があると言う。これは社会人になってしばらく経って身に染みた。もう、寝ぼけていても家から職場にたどり着けるようになってしまった。《彼らの理不尽さも品性の無さも受け入れてかなきゃ》とまぁひどい話だとは思うけれど、生活するためには仕方がない。かなり自覚的に上から目線の詩だと思う。そもそも、俺とて、理不尽なことを人に強いるし、品性だってお世辞にもあるとは言えない。この間、土曜の朝に収集の燃えるゴミを金曜の夜に出しました。この場を借りて謝っておきます。

 

《地下鉄の窓越しに、いつかのあの娘に似た人。愛していたような、不安のはけ口にしていたような》「あなたが他人のことを、自分の寂しさを埋める道具くらいにしか見ていないということは、案外見抜かれてしまうものなんですよ」とは「三日間の幸福/三秋縋」の引用だが、まぁ、きっとそういうもんなんだろうなと思う。何が愛かなんて永遠に俺たちにはわからないんじゃなかろうか。愛だと思っているものが寂しさや独占欲や性欲でないと誰が証明できるのだろう?結局すべての恋人も友人も家族も≪近づいていたつもりが、高速ですれ違っていただけ≫なのかもしれない。それでも心の中にまだ残る物に、意味や価値や物語を見出して俺たちはエンドロールの向こう側を生きていくしかないのかもしれない。

 

≪明日どれだけ面倒でも、部屋の掃除をきちんとするよ。たまった洗濯物も干して、あなたを思って言葉を書くよ≫≪暮らしがどれだけみすぼらしくて、維持するだけで目が回っても、ただ受け入れる洗濯機と回り続ける洗濯機のように。≫≪好きな歌など聞けなくても、会いたい人には会えなくても行きたい場所には行けなくても、黙って全てを受け入れるから≫≪そしたらまだ、人間でいられるんかなぁ。母さん≫と逆説的な歌詞で曲は終わる。好きな歌を聞いて会いたい人に会って、行きたい場所に行かなきゃ人間でいられないんじゃないかなぁ。と考えてしまう。俺はまだ、人間でいられるだろうか?

 

山田亮一はとてもやさしいので≪駄作は全部置いてくから、死にたくなったら歌えよ≫と言ってくれる。少なくとも俺は好きな歌を聞くことができる。
ハヌマーンがサブスクを解禁してくれたので。まだ人間でいられるかなぁ。

 

社会人が二か月くらい過ぎて、仕事が嫌になってきたので書いたら、長くなった。やっぱり書くのはなんとなくストレス発散になる気がする。読んでくれた人がいたとしたらありがとう。ハヌマーン、一緒に聞こうな。

蛍・東京

 東京では一体いつどこで蛍が見られるのだろう。僕はそういうことについて全然知らない。
 まだ5月の中旬のくせにやけに暑い。寝転がっていると、うっすら汗ばんだ背中に服もシーツも張り付いてきて気持ちが悪い。冷房を付けようかと思ったけれど、起き上がって電気を付けてリモコンを探す手間を考えると、このまま暑さに耐える方がマシな気もした。
 「わたし蛍が見たいって言ったの覚えてる?」
 さっき電話で彼女は僕にそう尋ねた。そういえば連休中にそんなことを言っていた気がする。
僕がそれになんと答えたのか、よく思い出せない。正直な話をするなら、僕は暑い中、わざわざ光る虫を見に出かけたくはない。
 もちろん、そんな風には答えていないはずだ。正直さは美徳の一つに数えられていることが多いけれど、僕から言わせればそんなものクソ食らえだ。
 さて、「蛍が見たい」と言われて僕はなんて返したんだっけ。それはとても重要なことだと、本能が告げている。彼女が意味もなく僕にそれを覚えているかどうか確認するとは思えなかった。
小さな忘却が、知らない間に作っていた擦り傷のように煩わしく痛む。

            □

 「仕事が忙しくて、あんまり連絡できなくてごめんね。」
 そう言って電話を終えた彼女からそれでも「おはよう」と「おやすみ」だけは毎日律義にメールが来る。几帳面な彼女らしい。新社会人ってのは大変なんだろうな、とぼんやり考える。院生の僕にはうまく想像できない。二年後、あるいはもう少し経ってから僕も社会人になるのだろうけれど、その実感は全く湧かない。この間まで一緒に大学に通っていた彼女や友達が社会人をやっているのだって狐に化かされているような気分になる。
 彼女は連休中でも夜は日が変わる前に眠って、朝6時には起きていた。春休みまでは僕と同じ夜型だったはずなのに、すっかり健康的な生活習慣になっていて驚いた。
早く起きるのは構わないけれど、僕のことまで起こすのは勘弁してほしい。夜型に6時起きは苦行だ。
「だって休みの間しか一緒に居られないのに眠ってたら損じゃない?」
 そんな、わかったようなわからないような理屈に説得されて、僕も連休中は6時に起きていた。もちろん、連休明けにすぐ夜型に戻った。ちなみに今は午前1時15分だ。
 連休中は結局どこにも遠出はしなかった。人込みの多い場所は二人ともあまり好きではなかったし、どちらかの実家に二人で帰省するほどの関係ではない。近くの喫茶店カラオケボックスには行ったけれど、大体の時間学生時代みたいにワンルームの僕の部屋でだらだらと過ごしていた。
いつもそうだけれど、大体彼女が遊びに来た初日は部屋の片づけで午前中が終わる。僕は部屋が散らかっていても気にならないのだけれど、(腐るものは放置しないというたった一つのルールさえ守っておけばそんなに悲劇的なことにはならないのだ。)彼女に言わせれば「度が過ぎている」らしい。おかげでキッチンや布団の周りがきれいになるので、僕としても文句はない。
 「明日から仕事やだなあ。行かなきゃダメかな。」
そんな風に過ごした連休最後の日、彼女はそう言った。昼というのには遅すぎて、夕方というのにはまだ日が高かった。僕はパンツだけ履いていて、彼女は何も身に着けていなかった。部屋の中が蒸していて窓を開けたかったけれど、きっと彼女が服を着るまでは絶対に開けさせてくれないだろうなと思った。
彼女の「仕事に行きたくない」というぼやきを聞きながら、二人で使うと布団は狭いな。ベッドにはダブルサイズがあるけど布団にもあるのかな、あってもこの部屋じゃ置けないな。みたいなことを考えていた。
「晩御飯、食べに行く?奢るよ。」
「学生に奢ってもらうのは背徳感があっていいかも。……でも、明日もはやいし、今日は家で食べよっかな。一人で過ごす勘を取り戻さないとね」
 彼女はそう言って笑った。
「次会えるのはいつかなぁ。」
「いつだろ。僕はいつでも暇だけど。」
「いいなぁ、ずるい。」
「……ごめん。」
彼女だって忙しくしたくてしているわけじゃない。僕は自分の軽率な言葉を恥じる。
西日が部屋に差し込む。彼女は僕に背を向けていて、どんな顔をしているのかわからない。
「……わたし、蛍が見たいな。」
沈黙を破るように彼女が小さくそうつぶやく。
「蛍?」
「うん、蛍。それなら夏休みより前だし。見るために遊びに来る。」
「……わかった。どこで見られるのか調べておくよ」。
「本当?楽しみにしてるね。」
僕は彼女の笑顔と約束をやっと思い出す。

            □

僕らが誰かと未来の約束をするのは、それが「愛してる」なんて言葉よりもずっと雄弁に誰かへの愛を伝えるからだ。
僕は自分のやらかしたことの大きさを悟って、慌てて携帯電話で東京の蛍について調べる。
まだ、間に合うだろうか?

世界の終わりに。

 目が覚めて携帯電話を開く。土曜日、午前8時24分。失敗した。と僕は思う。また燃えるごみを出し損ねた。これで三週間連続だ。

 燃えるごみは水曜日と土曜日。休日の8時までにごみを捨てるため早起きをする人間なんて存在するんだろうか? 

 存在するのだとしたら、ぜひ僕の分のゴミ出しも頼みたい。

 別に金曜日の深夜のうちに捨てておいたっていいんだけれど、それをしないのは僕が正義感や道徳心に満ち溢れた人間だからじゃなくて、そんなことを思い出すころにはとっくに酔っ払っていて外に出るのが面倒くさいからだ。

 携帯を枕元に適当に投げる。誰からも連絡は来ていなかった。いつものことだ。最後に僕に連絡をよこしたのは誰だろう。クレジットカード会社だったような気もする。

 何のやる気も起こらないし、昼くらいまで寝てやろうと僕は思って目を閉じる。どうせ誰も文句は言わない。ごみだって水曜日に出せばいい。

 目を閉じていると、音や匂いが良く感じ取れるようになる気がする。たぶん、探せばそういう研究結果もあるだろう。面倒くさいので探す気はないけれど、きっとあるはずだ。

 結局それは意識のリソースをどれだけ割くことができるのか、という問題に過ぎないのっかもしれない。僕に提示されている情報はあまりに膨大で、そのほとんどをただ通過させることしかできないのだ。

 どこか遠くで子どものはしゃぐ声が聞こえる。

 僕にもあんな風にはしゃいでた頃はあったろうか?そんなことを考えながら、一度目覚めた意識を睡魔にもういちど引き渡そうとした。

 8時半を告げる目覚まし時計のアラームがけたたましく鳴く。

 習慣とは恐ろしい。酔っ払った僕がいつも通りセットした目覚ましは、今日が何曜日かなんて知ったことは無いと言いたげに鳴り続けている。

 僕は舌打ちをしながらそれを止め布団から出る。弁解をしておくけれどこれは昨日の自分に対する舌打ちだ。深緑色のこの目覚まし時計は悪くない。こいつに機嫌を損ねられたら、たぶん僕は仕事に遅刻する。

 早起きしたって、何にもやることはないんだけどなあ、と僕は思う。まぁいい。僕は休日を無意味に過ごすことにかけては結構才能があると思う。


                        □

 

 午前中のうちに洗濯機を回して、掃除機もかけた。悲しいことに誰も褒めてはくれなかった。僕は決してきれい好きなタイプではない。きれい好きは寝過ごしてごみを出し損ねたりしない。たぶん。

 1万円で買った2009年製の洗濯機(脱水を掛けると変な音がするポンコツだ)をセットしてから安い掃除機でほどほどに床を掃除する。僕は次はコードレスかコード巻取り式の掃除機を買おうと決意する。

長いコードが絡まって取り出すのも片づけるのも面倒くさい。

 お気に入りの音楽をイヤホンで聞きながら掃除機をかけると少し楽しい。実家の母親が家事をしながら鼻歌をよく歌っていたことをふと思い出した。

 「世界の終わりに君ならどんな音楽を聴く?」

 とっくの昔に解散したバンドが僕の耳元でそんな風に歌う。

 僕は解散したバンドが好きだ。完結した漫画が好きだ。死んだ小説家が好きだ。リメイクされない映画が好きだ。それはきっとこれから先もずっとそのままでいてくれるだろうという安心感がある。僕が変わり果てても、世界が終わってもそれは今の形のまま、決して変わらない。そんな気がしてきて安心する。 

 「世界の終わり」それについて僕は真剣に考えるべきなのだろうか?高校生くらいの僕は、嬉々としてそれについて考えていたような気もする。


                       □


 本というのは不思議なもので、買ったのに読まないで置いておくと増える。買ってすぐに読んでもなぜか増える。そんなわけで僕は今日も三冊本を買った。たぶん彼ら/彼女達も放っておくと繁殖するはずだ。コーヒーを淹れている間にも一冊増えた。お盛んなことだ。

 止まっていた洗濯機から湿った洋服を取り出して物干しざおにかけた。早く干して畳むところまで全自動でやってくれる洗濯機が出来るといいのになぁ、と僕は思う。もし仮にそんなものができたとして、洗濯機を一万円で買おうとする僕のような人間がそれを手に入れるのは一体いつになるのかわかったものではないが。

 ラジオも適当にかけてコーヒーを飲みながら買ってきた小説を読む。

 僕はテレビはあんまり好きじゃないけれどラジオはけっこう好きだ。ラジオはテレビほど押し付けがましくないし、それに何となく誰かと会話をしているような気分になれる。それはたぶんリスナーのお便りが読まれたりすることに関係しているのだろう。いつか僕もハガキかメールでも出してみようかしらと思う。

 ちょうどよく日が指してきて僕の背中をあたためて、僕はその心地よさに耐えきれず目を閉じる

 

                       □


 夢を見た。

 僕は見たことも無いけれど、訪れたことのある平原に立っていた。膝丈くらいまで細い茶色の葉が茂っていて、僕の脚を優しく撫でていて少しくすぐったかった。深い青色の空。ボロボロになった水色のミニバス。ところどころに咲いている濃い紫色の花。僕は、あるいは僕だった誰かにとってここがある一つの旅の終着点だったのだろうと、僕には本能的にわかった。そこで僕は旅をやめにして、一緒に旅をしてきた誰かを弔ったか、先に進むことを見送ったのだ。それは少年だった、どうしてか顔は思い出せないけど、僕は彼をよく知っていた。なんせ、僕らは長いことずっと一緒にいたのだ。

 草原には別れの気配に満ちていた。僕はそこにいるだけで立っていられないくらいの喪失感に襲われた。

 悲しい夢だ。

 そう思ったけれど、同時にもう少しここに居たいな、とも思った。

 あちこち穴のあいたバスに近づいて中を覗き込む。バスの中は雑然としていて、そこに脈絡のないものが置き去りにされていた。止まった腕時計。書きかけのノート。大きなぬいぐるみ。煙草とオイルライター。レンズの割れたカメラ。

 中に入ろうかとも思ったけれど、やめておいた。なんとなく、そのままにしておこうと思った。もしいつか、彼が帰ってくるときのために。


                         □


 本を読みながら、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。ソファで目を覚ますといつの間にかすっかり夕方になっていた。早起きをしたせいだな、と変な寝方をしたせいで凝った背中を伸ばしながら思った。

 窓から見える街はオレンジに染まって燃えてるようにも見えた。

 ひとり用の冷蔵庫からビールを取り出してプルタブを引っ張る。小気味よい音がして蓋が開く。世間ではこれは発泡酒であってビールではないらしい。知ったことか、僕はこれをビールと呼んでいるし、ビールだと思って飲むことにしている。その方が幸せだと思う。

 ビールも三本目が開くころになると、外はすっかり暗くなっていて、それ相応に僕も酔っ払っている。

 僕は昼間からなんとなく世界の終わりについて考えていて、そしてなんとなく悲しい気持ちになる。高校生のころと違って、僕は結構この世界が好きなんだな。と思う。いままで訪れた場所が、出会った人が、過ごした時間が僕は好きだ。世界の終わりに少しもワクワクしないといったらそれは嘘になるれど、それよりも俺は好きだった場所に行けなくなることとか好きな音楽が聴けなくなることとか、好きな本が読めなくなることとか、好きな人たちに会えなくなることが悲しい。

 世界の終わりに僕が好きな人たちが悲しむのを見たくない。傷つかないでいてほしい。そんな風に思う。

 僕の膝の上にいつの間にか幼い日の僕にそっくりな少年が座っていることに僕は気が付く。

 「もし世界の終わりが来たってお前には何にもできないよ。」

 彼はそんな風に言う。その通りだ。僕には彼が泣いているのがわかる。

 「そうだね、だけど生きていくよ。そういうことに決めたんだ。」

 僕はそう彼に告げる。いつの間にか部屋の中には僕一人になっていて、それでも膝の上がまだ温かかった。

バンパイアの恋人

 
 僕の恋人はバンパイアだ。と言っても人間とのクォーターだという彼女は、永遠の命も持っていないし、日光に当たっても灰になったりはしない。たまに吸血鬼の片鱗をのぞかせることはあるけれど、概ねにおいて彼女は「普通の」可愛い女の子だった。僕だって言われるまで彼女にバンパイアの血が流れていると気が付かなかった。

 「気持ちは嬉しいんだけど……でも、きっとわたし、君に迷惑かけちゃうわ。わたし君が思ってるよりずっと面倒くさい女の子だよ。」

 恋人になってほしいと彼女に伝えたとき、彼女は僕にそう言った。その時はその意味がよくわかっていなかった。それは言葉通り、重かったり、わがままだったり、気分屋だったり、そういう面倒くささのことを言っているのだと思った。

 「いいよ、君がどんな面倒くさい女の子だったとしても、僕はそれも含めて君のこと好きになれると思うし、好きになりたいと思う。だから、ダメかな。」

 そんな風に僕は彼女をうまく言いくるめた。色白の頬を赤く染めて「……それじゃあ、不束者ですが、 お願いします」 そう言って小さく頭を下げた彼女のことがたまらなく愛おしかったことを覚えている。

 

           ◇

 

 実際、付き合っていく上で彼女がバンパイアであることはあんまり問題ではなかった。

 長い時間日光を浴びていると皮膚が赤く焼けてしまうから、デートは大体天気の悪い日か、夕方からだった。僕は基本的にインドア派で、どこかに出かていくよりはむしろ部屋で二人で映画を見たり、 音楽を聴いたりしている方が好きだったから、 天気のいい日曜日に出かけられなくても全然かまわなかった。

 彼女は朝がめっぽう弱くて、大学の一限目に出るのにも毎回苦労していた。朝から授業のある前の日にはいつも僕の部屋に泊まりに来ていた。寝起きで機嫌の悪い彼女を布団から引っ張りだすのは、なかなか根性のいる作業だった。

 「まだ八時じゃん。あと十分は眠れたのに。」

 「あのさ、僕は今日は授業昼からなんだよ。『 起こしてくれてありがとう』じゃないのか?」

 「……ありがとう。」

 毎度のようにそんなやり取りをして渋々布団から出ると、彼女は着替えを始める。日光が差し込まないように分厚いカーテンを取り付けた薄暗い部屋の中で、彼女が下着姿になる。薄く光を放っているのではないかと思うほど白い肌に、お気に入りだと言っていた真っ赤なブラジャーとパンツが映える。まるでイチゴの乗ったショートケーキだな。そんなことを僕は眠い頭でぼんやりと考えた。

 「やっぱりさぼってもう一眠りしちゃおっかな。」

 ばっちり化粧まで終えて、そんな気はさらさらない癖に彼女はそう言う。

 「はいはい行ってらっしゃい。俺の授業が終わったら連絡するよ。 」

 つれないなぁと口を尖らせる仕草がかわいらしい。 けれど以前一度、この表情に負けてキスをしたら結局そのまま一日僕まで学校をサボるハメになったので、それ以来朝のキスには気を付けている。隙あらば絡みつこうとする彼女の長い舌を何とか唇で塞いで玄関か ら送り出した。

 

         ◇

 

 基本的に彼女は人間と変わらなかった。そう、たまに吸血をしたがることを除けば。

 「嫌だったら全然断ってくれていいんだけど」

 はじめて僕が血を吸われた夜、ひどく申し訳なさそうに彼女は切り出した。

 「……血を吸わせてくれない?」

 そのころには彼女がバンパイアの血を引いていることは聞いていたのでそんなに驚きはしなかった。

 「いいけど、やっぱり吸いたくなるもんなの?」

 「うん、いつでもだれでもってわけじゃないんだけどね。」

 あとから聞いた話だと、吸血欲求に一番近いのは性欲らしい。君の血が吸いたくなるのは君のことが好きだからなんだよ? と僕の血で染まった唇を拭いながら彼女はそう言っていた。その微笑みがあんまりに艶やかで、 僕は彼女にもっと血を吸ってほしいと思った。

 はじめての吸血は少しだけ痛かった。 僕の鎖骨の少し上あたりに彼女が恐る恐るといった様子で柔らかな 唇をあてがう。私も直で人間から血を吸うのは初めてだから、 痛かったら言ってね。留め置きして、 尖った歯が僕の皮膚に当てられた。

 僕はといえば、間近で嗅いだ彼女の髪の毛のにおいにくらくらしていた。さっきまでしていたセックスでかいた汗のにおいと、女の子の匂いとシャンプーの匂いと他にもいろんな匂いが混ざって いて、それは僕を安心させると同時に興奮させた。さっき二回もしたのに。

 ぶちゅっと鈍い音がして、一瞬遅れて重い鈍器で激しく叩かれたような痛みが首筋に走る。思わず情けない声をあげそうになって、僕は慌てて自分の唇を強く噛む。自分の体内から血液が流れ出ていくのを感じた。一番近い感覚としては献血だろうか。しばらくすると、首筋の痛みが消えていて、得も言われぬ幸福感が胸に満ちてくる。それがバンパイアの持つ人を魅了する魔術的な魅力のせいなのか、それとも「捕食」されているという事実から目を逸らして、幸福な最期を迎えようとする被食者の脳の働きなのか、僕にはわからなかった。

 しばらく血を吸われて、だいぶくらくらし始めたころ、やっと彼女の口が離れた。傷口の血は止まっていて赤黒い所有印のようなキスマークだけが僕 の身体に残された。薄く血の混ざった唾液の糸を引きながら彼女の頭が僕から離れる。

 顔をあげた彼女は恍惚とした顔をして、強く噛みしめたせいで血が出ていた僕の唇にキスをした。むさぼられるような口づけの中で、僕の血はおいしかったかどうかが気になった。

 それから僕は度々彼女に血を吸われることになった。どうやら僕の血はバンパイアのお眼鏡にかなったらしかった。

 

 

         ◇

 

 彼女にはもう二週間も会っていなかった。最初は些細な口論だったように思う。だんだんとエスカレートして言わなくてもいいことまで言ってしまったせいでなんだか顔を合わせづらかった。いつの間にか首筋のキスマークも消えてしまった。彼女は朝の授業に出られているだろうか?僕以外の誰かの血を吸っているだろうか?僕から謝れば済むことなのかもしれないけれど、それはなぜだか負けた気がして連絡できなかった。

 飲み会帰りに、ほろ酔いのまま友人とラーメン屋に立ち寄る。

 「俺、ニンニクラーメン、チャーシュー抜きで。」

 酔っ払ってほんのり赤い顔の友人はいつも注文を決めるのがはやい 。

 「同じのにしようかな。」

 「あれ、お前の彼女ってニンニクの匂い駄目じゃなかった?」

 彼には付き合っているときの愚痴やら惚気やらをよく聞いてもらっていた。彼女にもあったことがある。人の恋人の苦手な食べ物まで覚えているなんて僕には無理だ。こいつの周りに人が絶えないのはこういう風に気が使えるのが理由なんだろうな、と思う。

 「いや、ちょっと喧嘩しちゃってさ。なんかしばらく会えそうもないから、別にいいかと思って。」

 僕がそう言うと、彼は珍しく眉を寄せて渋い顔をした。

 「そういうのって、俺はあんまりよくないと思うな。……なんていうかうまく言えないけどさ。 お前がここでニンニクを食べちゃったとしたら、それって相手を裏切ったような、そんな気がしないか?……いや変なこと言って悪い。忘れてくれ。」

 そういうものなのかもしれない。僕らが誰かと生きていくためにはほんの少しの思いやりとそれを忘れない努力が必要なのだろう。

 それはたぶん、本当に小さな思いやりで構わないのだ。バンパイアの恋人である僕が持つべき思いやりは、生活を彼女に合わせて夜型に変えるようなそれではなくて、彼女のためにニンニクを食べないみたいなほんの小さな思いやりなのだと思う。

 「……いや、なんとなく言いたいことはわかった。味噌ラーメンにするよ。 もちろんニンニクは抜きで。」

 ありがとう、と友人に告げてオーダーを取りに来てもらう。

 帰ったら、彼女に電話をしてみよう。夜更かしな彼女なら、 きっとまだ起きているはずだ。

僕はいつも彼女が噛み付く部分をそっと撫でてみる。 跡は無いのに、ほんの少しそこが疼いた。
 

或る11月

 僕は机に向かって手紙を書いている。下書きは必要なかった。何百回、何千回と書いた文章だ。一字一句まで完璧に記憶していた。11月30日、時計の短針が、午後十時を少し過ぎた場所を指している。窓の外からは風の音一つ聞こえてこない。今夜は新月だ。月の輝く音もしない。あと2時間もすれば、いつも通り、11 月1日がやってくる。12月1日は、永遠に訪れない。

 この街は、ずっと11月を繰り返し続けている。どれくらい長いこと繰り返しているのかはわからない。ただ僕らは決められたままに何回も何回も、同じ11月を過ごしている。例えば、明日は朝から小雨が降って、夕方ごろに止む。僕の母は美容院に行く。父はスーパーの屋上で子猫を轢きそうになる。朝食は卵かけご飯で、夕食はハンバーグ。5時32分ごろに宅急便が来る。すべてはひと月前の明日と同じだ。

 11月に捕らわれていることはみんな分かっている。けれど、特段それをどうこうするつもりは(僕も含めて)誰にも無い。そもそも、どうすれば12月が訪れるのかわからないし、街の外には出られないのだ。今迄と違うことをしてみようとしても、ごく小さな変化は起こせるが、最終的にはいつも通りの11月に収束してしまう。例えば僕は明日の朝、卵かけご飯を食べないこともできるが、11 月の中で僕は絶対に9回卵かけご飯を食べることになる。8回しか食べないことはできないし、10回以上食べることもできない。この街はそういう風にできている。

 

            ◇

 

 「そんなのってなんだか気に食わなくない?」 

 この街から抜け出すことを諦めていない、たった一人の例外は、そう言った。そのセリフを聞くのも、もう何百回目かだったのだとおもう。

 「でも、どうしようもないだろ。明日は11月13日で僕は電車を一本乗り過ごして帰りが遅くなる。君は夜に僕にメールをしてくる。そういう風になる。いつも通りだ。」

 僕のこのセリフもおそらく何百回目かだ。いつもだったら、君は「まぁ、そうなんだけどさ」と言って引き下がる。けれどあの日はそうじゃなかった。

 「……私は、もう嫌。あなたがそうやって『いつも通り決まったセリフで返せばいいや』と思って私の話を聞いているのも嫌。クリスマスがいつまでたっても来ないのも嫌。……ねえ、二人でここから逃げ出しちゃおうよ。二人でクリスマスを過ごしてみたいの。」

 僕が君のことをもっと真剣に考えていたら、僕らは二人で11月から抜け出せたのだろうか?今となってはわからない。確かなことは、次の日、僕は予定通り電車を乗り過ごし、君からメールは来なかったということだけだ。そうしてそのまま君はいなくなった。君はうまいことやったのだろう。君がいなくなったことに街は気が付かなかった。次の月初めから、「君が居たこと」だけが失われた11月が始まった。

 僕も何度か君のあとを追いかけて11月を抜け出そうとした。けれど、できなかった。君はどうやって抜け出したのかを僕に教えないうちにいなくなってしまった。卵かけご飯を月に9回食べるだけの生活が僕に残された。


            ◇

 

 君がいなくなってから何回かした後、僕は手紙を書き始めた。出す当てもない、引き出しの奥にしまい込まれるだけの手紙だ。それはこんな風に始まる。

『前略

 君は12月にたどり着けただろうか?君の事だから、なんだかんだ上手くやって今頃クリスマスや正月や、もしかすると夏くらいまで満喫しているころかもしれない。僕は今日も夏をモチーフにした音楽を聴いた。自分が実際に夏を過ごしたのが一体いつだったのか、そもそも、僕は本当に夏を過ごしたことがあるのかどうかすらも怪しいけれど(僕の記憶はもしかしたら作られたもので、僕は22歳の11月しか過ごしたことがないのかもしれない)僕はやっぱり夏が好きだ。青い海、白い雲、肌を焼く太陽の光。どれもこれも懐かしい。

 君がいなくなってからもここは11月のままだ。何度も何度も同じような日々を過ごしている。8日には僕はちょっとした怪我をしたし、22日ごろには雪が降る。積もらないとわかってはいるけれど、まあ、結構煩わしい。今日は月末で、この手紙も明日にはなかったことになってしまう。ひどい話だ。

 君が最後に言っていたことを何度も思い出している。僕がもう少し君の話をちゃんと聞いて、二人でここから逃げ出せていたとしたら、どうなっていたのだろうと考える。二人でクリスマスを過ごすことができただろうか?案外、僕はプレゼントを選ぶセンスが壊滅的だから、それが原因で君を怒らせてしまっていたかもしれない。ただ、君のことだから、ケーキを食べたら機嫌が直るとは思う。 

 君がいなくなってからずいぶん経つというのに、僕は君がいたころの11月がどうにも忘れられない。来ないはずの連絡を待ってみたり、君と毎度通っていた喫茶店をのぞいてみたり、もらった腕時計の文字盤を意味もなく眺めてみたり。そうそう、腕時計のベルトは毎回、月末になるとちぎれそうになっている。これじゃあよくあるラブソングの情けない男みたいだな、と一人で笑ってしまう。

 今更になってわかったことだけれど、僕がこのどこにも行けないクソみたいな世界を、かろうじて好きでいられたのは君が居たからだったらしい。ひとりでぼんやりと生きていくのには、この街は少し寒すぎるみたいだ。(君からしてみれば、いなくなってから気が付くくらいなら、もっと私を大切にしておけばよかったのに。なんて都合のいい男!と思うかもしれないが)

 結局、僕らは、手に入れた幸福について、いつも注意していないとそのありがたさを簡単に忘れてしまう生き物なのだと思う。僕は本当にどうしようもなく愚かで、こんな風にいなくなった君のことをいまでも本当に好きなのだと確認しながら手紙を書いている。いちども手紙なんて書いたことが無かったくせに。徹底的に手遅れで、君に届かないと知っているくせに。本当に女々しい話だ。 

 11月17日には「ライ麦畑でつかまえて」を読むのが、君がいなくなったあとで僕の行動に付け加えられた。基本的にどのページもすごく良くて、何度読んでも面白い。中でも僕が好きなセリフはこんなのだ。

 

 『ーそれでもまだ僕はあいつのことが好きなんだ。それがいけないかい?誰かが死んじまったからって、それだけでそいつのことが好きであることをやめなくちゃいけないのかいー』

 

 ライ麦畑の端っこにある崖から落っこちそうになっていたあの日の僕を捕まえてくれたのは君だった。君がいないライ麦畑はきっと鮮やかな黄色の抜け落ちたすごくつまらない景色なんじゃないかと思う。たぶん、何を言っているのか伝わらないと思うけど。僕にとって君は本当に「キャッチャー・イン・ザ・ライ」そのものだったんだ。実際のところ本当にそうだったんだ。

 もしいつか、僕がうまくこのくそったれた街の11月から抜け出せたら、君に謝らなきゃいけないことがたくさんある。そばにいてくれることを当たり前だと思っていてごめん。その優しさに甘えて冷たい態度をとったりしてごめん。もっと君の話をちゃんと聞けばよかった。あの日、「抜け出そうよ」って誘われた手に気が付けなくてごめん。謝ることは僕の自己満足にしか過ぎないかもしれない。それでも、本当に悪いことをしたと思っている。

 君の12月が、1月が、春が夏が秋が冬が、そしていつか訪れる11月が幸せなものであったらいいと、僕は心から思う。それじゃあ、また会えること祈って。』


           ◇

 

 そこまで書いて、僕はペンを置く。机の上の時計は11時55分を指している。あと五分もすれば、また11月が始まる。君のいない、287回目の11月だ。僕は届くことのない、どうしようもなく手遅れになってしまった手紙を机にしまい込む。

 

その夜、夢を見た。僕が大好きだった、君の声が聞こえた気がした。

箱庭

夢を見ていた。

 

そこは高い壁に四方を囲まれていて、空だけが外と唯一繋がっていた。地面の半分くらいは少し茶色の混ざり始めた芝生に覆われていて、もう半分は石畳で作られた細い道と小さな広場がひっそりと自分の領地を主張していた。

 

広場には一本の楓の木が生えていた。葉が赤く染まっていた。桜の樹の下には死体が埋まっているという。確かめてみたことはないけれど、きっと楓もそうだ。

 

紅葉のおかげでいまは秋なのだと僕は気がつく。なるほど、この心地よい風は確かに秋のものだ。僕は自己主張の少ない、控えめな秋という季節が好きだ。夏ほど苛烈でもないし、冬ほど静かでもない。そして春ほど蠢かない。死にゆく老人のように穏やかな秋が、僕は好きだった。

 

楓の木に近づいた僕は、木に寄りかかって眠っている男がいることに気がつく。僕は小さく寝息をたてる男の顔をどこかで見たことがあるような気がした。いったいどこでだったろうか?僕がそれを思い出す前に男がゆっくりと目を覚ます。彼は寝ぼけ眼で僕に話しかける。

 

「やぁ……いつぶりだろう」

「起こすつもりはなかったんです。あの、ここがどこで、どうやって来たのかもわからなくて。ここはどこなんですか?」

「ここかい?……まぁそんなことは大きな問題じゃないよ。時間が来たら、君は帰れる。そんなことより、話をしないか?こうして君に会うのは本当に久しぶりなんだ。」

「……ごめんなさい、僕もどこかであったような気はするんですけど思い出せなくて。」

「いいんだ、君が忘れていても。僕は覚えている。」

 

男はそう言うと目を細めて僕に向かって微笑んだ。優しい微笑みだ。やっぱり僕はこの人に会ったことがある。この微笑みを僕は知っている。


彼と僕はいろいろなことを話した。ここから出られないということを僕は少しも心配していなかった。彼が「大きな問題じゃない」と言ったのだ。それはおそらく本当に大きな問題ではないのだろう。彼の声には人を安心させるところがあった。

大赤字を出したことで有名な映画のこと、今まで読んで一番悲しい気持ちになった本のこと、美味しいビールの飲み方、気持ちよく音楽を聞くためにするべきストレッチ。彼と話しているのは心地よかった。彼は世界に存在するものすべてを肯定しているように僕には思えた。くだらないこと、下世話なこと、醜いもの、美しいもの、大切なこと。どれも「ただそこにある」ということだけで彼にとっては等しく大切なものらしかった。その穏やかさは秋のようだった。

 

いつの間にか日が暮れて、冷たい風と共に夜がやってきていた。段々と空が橙色から紫を経て黒へと染まっていく。

「さぁ、そろそろ時間だ。楽しかったよ」

もうほとんど暗闇の中で輪郭しか見えなくなった彼がそう言う。

「僕も楽しかったです。また会いましょう」と言いかけて、僕はそれを飲み込んだ。きっとこの人とは二度と会えない。と僕にはわかった。彼と会えるのは今この時が最期だったのだ。だから、彼の方からわざわざこうして僕のための箱庭を作ってくれたのだ。

僕は彼を知っていた。それはこの日の彼ではないけれどそれでも確かに。

 

             ◇

 

研究室で眠ってしまっていた僕は電話のコールで目が醒める。電話を取る前からそれが悲しい知らせであることを僕は知っている。窓から見える楓の葉はほとんど落ちてしまった。秋が終わる。冬が来る。