恋人の日

 

「え?」

 

気になるクラスメイトの女の子の言葉を聞き逃すような男はロクな男じゃないんだけど、僕は彼女の口から出た「放課後私とデートしない?」という言葉が、僕のあまりに都合のいい聞き間違いに思えて思わず聞き返してしまった。

「見たい映画があるの。あそこの映画館、カップルで行くと今日半額になんだって。」

なるほど、個人的好意から誘われなかったのはいささか残念だったけれど、もちろん断る理由はなくて僕は二つ返事でオーケーをした。

 

外に出ると、朝から振り続ける雨は激しさを増していた。傘をさして二人並んで歩く。

 

「『雨の匂い』って言ったらわかる?」

彼女の水色の声の後ろからは紫陽花の大きな葉がぱたぱたと水滴を弾く音が聞こえてくる。

「わかるよ。雨が降る前と降ったあとの湿った空気のにおいだろ。」

「そう、私あの匂いが好きなんだ。でも、この街は私の地元ほど雨の匂いがしない気がして残念。」

彼女は僕らの大学があるこの街からは遠く遠く離れた街の出身だった。

「僕はこの街で生まれ育ったから他の街の雨の匂いについてはよくわからないけれど、いつか君の街に遊びに行くことがあったら、ぜひ雨が降ってほしいな。」

「そうだね、その時は私が好きだった雨の似合う喫茶店、連れて行ってあげる。」

 

 

ビルとビルの間にひっそりと佇む映画館はカップルデーとは行っても、いつものように閑散としていた。

僕が物心ついた頃からこの映画館はここにあったけれど、いつも大きな映画館では上映しないけれどセンスの良い映画を上映している。僕も時々、どうしても「映画館で見たい映画」がある時お世話になっている。

 

世の中には確かに「映画館で見るべき映画」が存在していると思う。それは大作アクションだったり、音響に拘った映画だったり、あるいはもっと言語化しにくい微妙な特徴を持った映画だ。そういう映画がある限り、いくらレンタルサービスが発展したって映画館という場所は消えたりはしないだろう。

その日彼女が見たいと言っていたのは、女の子がある朝目覚めたらペンギンへと変身してしまっていた。という映画だった。

ラブストーリーは別に僕は特段「映画館で見るべき映画」だとは思わなかった。この時までは。

 

受付でチケットを二枚買う。彼女の言うとおり、二枚でいつもと同じ値段だった。せっかくだから格好つけたくて、財布を開こうとする彼女を横目にさっさとお金を払ってしまう。

受付を離れたあとで、彼女はチケットを受け取りながら、自分が誘ったのだから、半分払うということを主張した。

僕はきっと舞い上がっていたのだろう。

「いいよ、僕は今日君の彼氏役だから。奢らせてよ。」といやに芝居がかった事を口にしてしまった。

「…格好つけちゃって。あとから請求されても払わないからね」そう言ったあと小さく「ありがとう」と言って彼女はそっぽを向いてしまった。

 

スクリーンはがら空きで僕らの他に二組カップルがいるだけだった。彼らは本当のカップルなのだろうか?僕から見たら本当のカップルも偽装カップルも見分けはつかなくて、それは誰かから見た僕らもそうなのだと思い当たって少し嬉しくなる。

 

真ん中から少し前の席に座ってしばらくするとあたりが暗くなって様々な映画の予告が流れ始める。僕はこの予告が好きだ。予告で面白そうだと感じて見た映画に何度騙されたって、このワクワク感を僕はどうしたって嫌いになれない。

 

          ◇

 

映画の内容は、よく覚えていない。つまらなくはなかったけれど、何となくよくある話のような気もした。それでも、僕は映画館で見るラブストーリーに対しての認識を改める必要があった。

おそらく、ラブストーリーの正しい楽しみ方の一つは、好きな女の子と一緒に見ることなのだ。映画のヒロインがいくら可愛らしくたって、どれほど感動的なストーリーであったって、一時間とそこら、すぐ隣に自分の好きな女の子が座っていることと比べたら些細なことなのだ。

 

たぶん僕が映画の内容を覚えていないことの八割くらいはそれが原因だと思う。

 

外に出るとすっかり暗くなっていて、雨は激しさを増していた。

「うわ、寒いね」と彼女が自分の肩を抱く。

僕が差し出した学生服の上着も「格好つけ」と笑いながらだが、本当に寒かったのだろう、素直に受け取って羽織っていた。

 

傘をさして帰ろうとすると、彼女は自分の傘を広げずに僕の傘に潜り込んできた。

驚いて彼女を見ると

「私は今日あなたの彼女なんでしょう?」

と悪戯に笑っていた。

 

雨にぼやける街灯りを駅に向かって歩く。このまま駅に付かなければいいと思うけれど、映画館から駅まではせいぜい15分くらいだ。

一つになった二人の影が車のライトを浴びて伸びていく。湿った空気の中を泳ぐ彼女は、さっきの映画のヒロインなんかよりずっと可愛らしく見えた。

 

駅のホームにつくと彼女は傘からするりと抜け出して行った。

僕はさっきまでそこにあった暖かさを永遠にしたいと思う。彼女と過ごす全ての日々が『恋人の日』になればいい。

 

そのために、僕はほんの少し勇敢にならなきゃいけないだろう。僕が大好きな映画の主人公達のように。

水色の街

この世界は夏が来る前のまま、立ち止まっている。

静かな銀の湖面を臨む街で雨の降らない水彩絵の具で描いたような空がいつまでも続いていることに気がついているのはたぶん、僕一人だ。

 

毎朝同じ時間に目を覚まして、同じ服に着替える。着替え終わる頃には母が朝食を食べるよう呼ぶ声が階下から聞こえてくる。

無言で新聞を捲りながらコーヒーをすする父を横目に、これ以上ないくらい上手い具合に半熟の目玉焼きと狐色に焦げたトーストを囓る。

きっと僕は昨日も「これ」を食べたのだろう。覚えていないけれど、きっとそうだ。

 

朝食を終えて自室で寝転がっていた僕は気が付かないうちに微睡んでしまう。開けておいた窓から爽やかな風が吹き込む。父は今日も仕事に出かけていったし、母は昨日と同じスーパーに昨日と同じ買い物をしに出かけた。

 

僕は昨日と同じ時間に出かけるかどうか一瞬、迷ったけれど深く考えるのをやめて起き上がってお気に入りのスニーカーに手を伸ばして玄関を出た。

 

パステルカラーのポストの上で眠る猫があくびをして挨拶をしてくれる。僕はその頭をなでて彼の首元で小さくチリンチリンとなる鈴の音に耳を澄ませる。彼はきっと世界が前に進んでも、毎日あそこで眠っているのだろう。そんな気がした。

 

丘の麓にある、半分木々に埋もれたような市立図書館の扉を開ける。

 

「こんにちは」とカウンターの中に向かって声をかける。

「図書館ではお静かに」そんなルールはあるけれど、この図書館に来て誰かにあったことなんて昨日も今日も、きっと明日も無い。

 

「あら、いらっしゃい。今日も来たの?」

焦げ茶色の少しだけ大人な瞳が僕を見つめる。彼女こそがこの世界を立ち止まらせる原因、夏の一歩手前の季節の女神だ。

「他に行くところも無いからね」そう答えると、「友達、いないの?」と哀れまれた。

余計なお世話だと思ったけれど、彼女を見ると嬉しそうに微笑んでいたのであえて言わなかった。

 

どうして彼女がこの世界に引きこもってしまったのか、僕にはわからない。なぜ、僕にだけ世界の真実が見えるようにしたのかも、僕にはわからない。

おそらくは彼女自身、その理由は忘れてしまっているのだろう。もうどれくらい前か覚えていないがある時彼女を問い詰めたけれど、ぽかんとした顔で「何かのゲームの設定?面白そうだね」とはにかむばかりだった。

 

カウンターを離れて書棚の間をぶらぶら歩く。図書館の中は外とは違ってひんやりとしていた。きっと本を守るために最適な温度や湿度というものがあって、それを保つように作られているのだろう。僕はここに来るたびに、図書館はなんだか知識のための大きな棺のようだと思う。

 

昨日、僕が読んだ本が何だったのか僕は知らない。もしかしたら僕は毎日同じ本を読んでいるのかもしれない。「バベルの図書館」と言うタイトルに目を引かれてホルヘ・ルイスの作品集を手元にカウンターの向かいのテーブルへと戻る。彼女が仕事を終える午後二時半まで僕は毎日ここで何かを読んでいる。

 

 

すべてが収められた図書館の中で生まれ、その中で死ぬ司書の物語を読んでいる途中で僕は眠ってしまっていたらしい。いたずらに笑う彼女に起こされたときには午後三時前で、頬には机の模様が刻まれていた。

 

「寝顔が可愛くて、思わず見てたら三時になっちゃった」という彼女のからかいにも慣れたもので、初めて出会った十五際の頃ならまだしも、それくらいで僕が照れることはもうない。二人で図書館を出ると今までの過ごしやすい気温と湿度はどこかへ吹き飛んで、少し傾いたものの、まだまだ暑い日差しが僕らを照らした。

 

「ねえ、今年の夏はどこへ行こうか」ぼんやりと蜃気楼を眺めていると彼女がそう問いかける。「そうだな、とりあえず海には行きたいかな」「痩せなきゃなぁ…私」そんなやり取りをしながらも僕だけは知っている。この世界に永遠に夏など訪れないことを。僕らが昨日も一昨日もその前も、何十回も何百回も海に行く約束をしたことを。

 

それでも、「痩せるから海に行こうね、絶対だよ」と約束をしてくる彼女はどうしようもなく可愛らしくて。進まない街でたった一人の生きた舞台装置の僕はいつだって幸せな気持ちになる。

それが巻き戻しすぎて擦り切れたフィルムでも、僕はその映像を愛している。

 

ーいつか、いつの日かほんの少しだけ台本が狂って僕らが海に行けたらとても嬉しい。

 

ナイフ

僕が好きだった彼女は死んだ。僕がその白い首を締めて殺した。段々と細くなる呼気をひゅーひゅーと洩らしながら彼女は恍惚とした表情をしていた。

 

彼女は不死の呪いに掛かっている。へそ曲がりの神様が「ずっとこのまま居られますように」という彼女の祈りを歪んだ形で叶えてくれた。大きな代償と引き換えに。

 

その異変に気がついたのは古びた神社を詣でた三日後のことだった。原因は僕が調理中にちょっかいをかけたことだけれど、今となってはどうだっていい。

晩御飯を作っている最中に彼女は指を切った。赤い血が数滴薄い切傷のあるまな板に飛んだ。

水気に滲んで花の咲くまな板を横目に僕は彼女の指先から目が離せなかった。休日の午後、ピアノの鍵盤の上を踊る彼女の指先にできた切り傷からは赤黒い泡が吹き出て瞬きの間にふさがり、まるで何も無かったかのように綺麗につながった。

驚いて彼女を見ると彼女は青ざめた顔で泡立った指先を見つめていた。回る換気扇を通して夜が部屋の中に忍び込んで来ていた。

 

その夜、彼女は夢を見たという。顔のない全身が白い、つるりとした肌の男に首を絞められる夢だったらしい。夢の中で彼女は死んだけれど、体中が泡立つような感覚がして目覚めた、と。そしてそれは、今まで味わったことがないほど気持ちが良かった、と。

 

彼女は毎晩、その夢を見た。僕はある日、彼女がカッターナイフで腕に切り込みを入れて滴る血にまみれた腕を掲げて踊っているのを見た。雨上がりの日差しが窓から彼女に差し込んでいた。彼女はとても優しい笑顔で笑っていた。まるで宗教画に出てくる天使のようで、僕は彼女が踊るさまをずっと見ていた。

 

彼女の自己破壊欲求は段々と強くなった。行為中にも首を絞めることを求めたり、切り傷では飽き足らず身体に刺し傷を作るようになった。

ある日彼女はこういった。

「私のこと、壊してほしいの。こんな事あなたにしか頼めないから」

僕は躊躇った。彼女のことは好きだったけれど、彼女を壊したあと、もし直らなかったらどうしよう?

「大丈夫。一回壊してみたの。自分で」

その言葉を合図に僕は彼女の柔らかい首に指を埋める。潰れた蛙のような声を出して彼女の息が詰まる。口元から唾液を垂らしながら彼女は天使の微笑みで僕を見る。その表情を崩したくて僕は指先に力を込める。骨が軋むほどに。爪が肌に食い込むほどに。

 

生き返ったあとで彼女は「やっぱり好きな人にしてもらうのは自分でするのと全然違うね」と恥ずかしげに僕の腕の中で呟いた。

 

何度も縊り殺すうちに、彼女はそれでは満足できなくなったらしく、解体用のナイフをどこからか買ってきて僕の手に握らせた。ベッドが汚れないようにブルーシートを引いて、僕は彼女にまたがって柔らかな2つの乳房の間に何度も何度もそれを深く突き立てた。溢れる血は温かくてそれに手を浸していると世界と自分の輪郭が滲んで一つになっていくような高揚感を得ることができた。

 

彼女の心を取り出して眺める。生き返りつつあるそれはぴゅっぴゅっとまだ塞がっていない血管から血を吹き出しながら心は拍動をしていた。何かの漫画で見たように握りつぶそうとしたけれどそれは存外ぶにぶにと柔らかく所詮内臓の一つなのだと思った。

 

「私は毎日生き返るよ。それって普通の人が夜眠って朝目覚めることと同じような話じゃないかな」

と彼女は言う。何度も死んで生き返った彼女は元の彼女と同じなのだろうか?彼女の肚の中には呪われた赤黒い泡しか詰まっていないのではないだろうか?

そんな考えが頭をよぎるが僕は彼女にナイフを突き立てる手を止められない。刺して壊して犯して奪う。それが今の僕らの愛の形だ。

 

 

赤い糸

ある晴れた木曜日の午後、気まぐれな神様のいたずらのせいで僕らの小指には赤い糸が結ばれた。うまく夫婦や恋人同士が繋がっていた人は良かったけれど、そうじゃ無かった人たちも結構多くて、世の中は最初結構混乱したらしい。

それでも、不確かな「恋心」ではなく明確な神の意図(皮肉なことにそれは糸だった)で自分が付き合うべき相手が決まっているというのは案外楽だった。例えば喧嘩をしたとしても、「まぁ運命の相手だから…」と思えば許すことができたし、叶わぬ恋に焦がれて眠れぬ夜を過ごすこともなかった。

 

僕が生まれた頃には当初の混乱もだいぶ収まってみんな赤い糸に従って将来の伴侶を早いうちから決めることにあまり抵抗を持たなくなっていた。実際僕の両親も赤い糸に海を跨いで結ばれて、それを道しるべに出会い、結婚したと聞いた。二人共それぞれ当時付き合っていた相手がいたらしいけど、あいにく、赤い糸では結ばれていなかったらしい。

 

〈木曜日のいたずら〉のあとに生まれた世代では自分と運命の相手が共に18になると、小指同士が結ばれる。18になる夜、一人真っ暗な天井に左手をかざしていたら、赤い糸が人馴れしたふわふわの猫のようにどこからか忍び寄ってきて僕の小指に結ばれた。

どうやら、僕の運命の相手はもう18になっていたらしい。僕は少しホッとする。聞いた話では20歳差で結ばれる二人もいるらしい。1年や2年ならまだしも20年も小指が空いていたのでは落ち着かない。もしかしたら僕の運命の相手が20歳年上ということもあり得るけれど、とりあえず僕が待ちぼうけを食らうことは無いみたいだった。

 

僕の運命の相手は、クラスで一番かわいい女の子だった。次の日の朝教室に入ってすぐ、糸が緩んだような感覚がして糸の先を辿ってみてわかった。自由恋愛の時代は身近な人と結ばれることが多かったらしいけど、それは単純に機会が与えられないからであって、几帳面な神の采配で七十億分の一(日本人に限っても一億何千万分の一だ)を選んだとき、知り合い同士が結ばれる確率は限りなくゼロに近い。だから、クラスメイト同士、というか同じ学校内ですらで結ばれることはものすごく珍しくて一日学校中から注目された。

 

そんな状況じゃ彼女とまともに話すことも難しくて、「これからよろしく」の一言も言えないまま、僕は家へと帰った。

きれいな女の子と結ばれて嬉しくないといえば嘘になるし、実際彼女は友だちとしても一緒にいてとても素敵な女の子だった。明日は、話ができるといいな、と思いながら目を閉じる。何も、夢は見なかった。

 

 

それからしばらく経つと噂が他の学校にまで広まって、なかなか彼女と二人で話す時間は取れなかった。そんな矢先だった。

日曜の夕方、風呂に入っている時、赤い糸が不意に切れてしまった。糸は物理的なものじゃなかったから、今まで切れたなんて話はほとんど聞いたことがなかった。

次の日学校に行くと、下駄箱には小さなメモ帳が入っていた。極めて全時代的な呼び出しには彼女の名前があって、部活が終わったあとに音楽室に来るよう書かれていた。

彼女は授業には出ていなかった。小指の糸がなくなったことに気づいた友人がいて、結構な騒ぎになったけれど、僕はほとんど他人事のようにその喧騒を聞き流していた。

 

        

放課後夕日の差し込む音楽室に行くと彼女は真っ黒なピアノの前に座って待っていた。

「待った?」そう聞くと彼女は小さく「ううん、今来たところ。来てくれてありがと」と言った。

「君との赤い糸、切れちゃったんだけど君の方はどうなってる?」どこかに連れて行かれそうなほど美しい夕焼けが窓の外には広がっている。そこで僕ははじめて彼女が左手に 白い手袋をしていることに気がついた。

「ごめんね、私が小指を切り落としたから、赤い糸、解けたの」彼女がそう言って白い手袋を外し床に落とす。たしかに彼女の小指があるべき場所には何も無くて、そこから彼女の宝石のような目が見える。

なるほど、確かに僕が女に生まれて、僕と赤い糸で結ばれたら小指を切り落とすかもしれない。僕と結ばれるくらいなら一人で生きるほうがいいのかもしれない。

「それでね」彼女が話し出す。「話があるの」今更、なんの話があるというのだろう?いろんな思いがこみ上げてきて、なんだか泣きそうになって、それでもなんとか堪えて彼女を遮ってこう言った。

「……確かに僕も僕と赤い糸で結ばれたら小指を切り落とすかもしれない、けど、迷惑かもしれないけれど、僕は君のこと好きだよ。この気持ちが神様の采配の残り香なのか、僕自身の気持ちなのかわからないけど、赤い糸が無くても僕は君が確かに好きだよ。」

それじゃあ、また明日教室で。そう言って踵を返し憂鬱な音楽室を出ようとしたとき彼女が話し出した。

「誤解させちゃってごめんなさい……あのね、私、嫌だったの。結ばれるずっと前からあなたを好きだった気持ちが赤い糸によってもともと決められたものだったなんて。だって私は神様に決められたから、あなたを好きになったわけじゃないもの。真面目なところも優しいところも、笑うと八重歯が覗くところも、少しハスキーな声も、勉強しているいる姿も 、私が見つけて、私が好きになったんだもの」

「だから、証明したかったの。私は赤い糸なんて無くても、あなたを好きでいられるって。赤い糸を切ってそれでも本当にあなたを好きって知って、それから想いを伝えたかったの…先に言われちゃったけど。」

「ねえ、私、あなたが好き。赤い糸なんて無くたって、あなたが運命の人じゃなくたって好きよ」

僕だってそうだ。彼女の側に行き小指のない左手を右手でそっと握る。これから、側にいても離れても僕らは繋がっていけるだろう。赤い糸が繋ぐよりも、ずっと強く。ずっと長く。

春の夜

春生まれだけれど、一年のうちで春の夜が一番苦手だ。

決して嫌いというのではなくて、ただただ苦手だ。

夏の夜は蚊取り線香の匂いを嗅ぎながら空気にうっすらと残る熱と昼間の苛烈さによって強調される静けさを愉しめばいい。

秋の夜はゆっくりと本を読んで、夜によく似合う音楽(静かで読書の邪魔にならないようなやつだ)を聞いていればいつの間にか眠れる。

冬の夜はこたつに入りながら、よく暖房の効いた部屋で外で深々と降る雪に思いを馳せていれば過ぎていく。

 

だけど、春の夜は違う。春の夜は艶めかしく蠢いていて決して静かではないし、なんだかそわそわしてしまって本を読んでいても落ち着かない。暖かくて昼間に眠くなるのに夜になると気が昂ぶる。

夜桜が近くに咲いている時なんて、よくもまあみんな正気を失わないな、と思う。

見つめていたらどこか遠く、旧い場所に連れて行かれそうな恐ろしさが美しい夜桜にはある。

 

独りぼっちの春の夜で迷子になったら、僕はどうやって戻ってくればいいのだろう?そんな不安のつきまとう春の夜が、僕は苦手だ。

Be strong now

じいちゃんが教えてくれたBe strong now を口ずさむ。有名な曲だし、たぶん、君も一度はどこかで聞いたことがあるんじゃないかと思う。

 

空梅雨で雨が少ないから、大きな橋の下を流れる川の水量もこころなしか少ないように思える。春と言うにはだいぶ遅く、夏と呼ぶには少し早い。そんな季節のことだ。

 

大学進学に合わせてこの街に引っ越してきてもう三年以上経つ。それでも休日に(もっとも大学生なんて一年の半分以上休日のようなものだけれど)散歩をしていると、まだまだ知らない道があることを思い知らされる。

 

じいちゃん曰く、Be strong now はそばにいられない恋人に歌った歌らしい。

東京で君は元気にやっているだろうか?

君が知らないこの街の景色をたくさん君に送ろう。僕と君が住んでいたこの街の景色を。

そして君が少しだけ東京に就職したことを後悔して、僕に会いたくなればいい。寂しいと、電話をかけてくればいい。

 

僕らは強くならなくたっていい。一人では歩けないくらい弱いなら二人で歩けばいい。

 

遠くの焼却場の煙が空に消えていく。

あの煙が入道雲になった頃、君に会いに行こう。

ピアス

 

「ねぇ私、ピアスを開けようと思うの」

 

ある晴れた3月の朝に彼女はそういった。

「へぇ、いいんじゃない、大学デビュー?」

高校三年生の春休み、お互い大して勉強をしなくても余裕で入れる地元の大学の合格も決まって、小学校から続く僕らの腐れ縁がこれからも同じように続く、そう信じていた頃のことだ。

「そんなところ、今からピアッサー買いに行くから付き合ってよ。10分後に私の家の前でいい?」

当然僕は暇だったけれど、少し気になって尋ねてみる。

「暇だけど…ピアスのことなんて全然わかんないよ。一緒に行くの僕でいいの?」

「高校はピアス禁止だったでしょ。誰と行っても同じよ」

一理ある。僕は急いで服を着替えて家を出た。

 

          ◇

彼女の家の前まで行くともうすでに彼女は外に出ていた。見たことのない白い長袖のシャツに春の空を落とし込んだような淡い水色のスカートを着ていて、きっとこれも大学デビューの準備なのだろうな。と思った。

「遅刻じゃない?」と彼女は言ったけれどまださっきの連絡から8分しか経っていない。「遅刻じゃないよ、ギリギリセーフ。それじゃ行こうか」

桜はまだ咲いていなかったけれど、オオイヌノフグリのちいさな青い花や菜の花の鮮やかな黄色が所々で眩しかった。どこまで買いに行くのかと聞くと駅の近くの大きなスーパーで取り扱っているのを見たという。僕もよく行くけれど、今までそんなものを売っていることには気が付かなかった。きっと僕の周りにはこんなふうにしてあるけれど気がつけていないものが溢れているのだろう。ふと、そんなことを考えた。

 

         ◇

 

片道15分の春を楽しみながらスーパーへたどり着く。ピアッサーというのは片耳ずつ使い切りのもので、そこにセットされているピアスをしばらくの間はつけていなければならないらしい。

「どの色が私に似合う?」と彼女が聞いてくる。「この紫色とかどうかな、大人っぽいと思うんだけど」「ふーん、紫か…どう?似合う?」そう言って耳元に紫の石を彼女が寄せる。「うん、似合うよ」「かわいい?」「可愛いっていうよりは綺麗かな」そう答えると彼女は満足したようで、紫の石のついたピアッサーを2つ手に取りレジへと向かっていった。

 

         ◇

大学はどんなところか、サークルは何に入るつもりか、今年はあの先生が離任するらしい、そんな話をしながら彼女の家の前まで戻ってくる。帰るのは少し名残惜しい気がしたけれど、用が終わったのに引き止めるのも不自然かな、と思い、じゃあ僕はここで、と彼女に告げる。

すると彼女は長い付き合いの僕も見たことのない恥ずかしそうな顔をして途切れ途切れにこう言った。

「そ…の、ピアス開けるの怖いから、よかったら開けてほしいんだけど。…うち今誰もいないし、ダメかな…?」

その表情がやけに可愛らしく見えて僕は不覚にもドキドキしてしまってよく考えないままに頷いてしまう。

 

          ◇

彼女の部屋に入るのは小学生のころ彼女の家に遊びに来たとき以来だろうか?

女の子の部屋でどう過ごしたらいいのかよくわからず座って待っていると、消毒用のウェットティッシュを取りに行った彼女が戻ってきた。

「それじゃあ、お願い」

彼女が僕の前に座り髪を掻き上げる。形のいい耳が顕になる。耳をウェットティッシュで拭き、ピアッサーをあてがう。耳に触れるたびに彼女の体が小さく跳ねる。おかげでこっちまでなんだか変な気分になってくる。

「いくよ」と小さな声でいうと、彼女は目だけでうなずいた。

 

ぱちん、と小さな音がして、僕は彼女の躰にささやかだけれど確かな跡を残した。

 

         ◇

 

 

「もう、耳はくすぐったいってば」頭を撫でながら耳に触れると彼女は猫のようにふるふると頭を振る。それでも懲りずに耳に手を伸ばして優しく撫でる。そこには僕が三年前に開けたほんの少し斜めに空いてしまったピアスの穴があって、彼女の躰に僕の印がついているような気がして嬉しくなる。

それをしたら、くすぐったがって怒ることはわかっていたけれど、僕はほかにどうすればこの気持ちをうまく伝えられるのかわからなくて、その小さな耳にそっと口づけをした。