腕時計

 

 蝉が命を燃やす音が聞こえなければ、多分ずっと眠っていただろう。
 目覚まし時計が止まっていたせいで、その人のことを思い出した。

 彼女は僕が入社して一番初めに配属された部署の二つ年上の先輩で、とても軽やかにパソコンのキーボードを叩く人だった。僕は彼女ほど心地良い音でタイピングをする女性をまだ知らない。彼女の細い指先が奏でるリズミカルな打鍵音は、午後3時頃になると僕の眠気を誘った。
 それに気が付いたのは初夏のことだったと思う。彼女はいつも左腕に銀のベルトの緩い腕時計をつけていたが、時間を確認するときには必ず携帯電話を使っていた。
 「先輩って腕時計見ないですよね。」
 長い会議(長いだけで何も決まらない、本当に酷い会議だった)を終えて、二人で昼を買いに出掛けるため乗ったエレベーターの中で僕は何気なく聞いた。
 「実はこれ壊れてるの。」
 そういって、ワンフロア分ずつ減っていくデジタルの数字を眺めていた彼女は僕の方をちらと見て微笑んだ。眉をハの字にして少し困ったように笑うのが先輩の癖だった。
 その理由を尋ねようとしたとき、どことなく間抜けな音がしてエレベータの扉が開いた。一回のロビーは、冷房の効いた会議室やエレベーターの中とは違って蒸し暑かった。
 「わ、暑いね。」
 外に出ると、日差しが容赦なく僕らを突き刺した。先輩がそれを遮るために突き出した左手首で反射する銀の時計の輝きが太陽より眩しかった。



 腕時計の秘密を知ったのはその年の冬だった。
 職場の忘年会で、先輩は見事に酔いつぶれて2次会が終わるころにはほぼ半分以上眠っていた。上司や他の先輩は「ここから先は25にもなってない若者にはまだ早い」と言い残し、一番若い僕に彼女の世話を押し付けて夜の街に消えていった。
 僕は上司が残してくれた二次会の釣り銭とレシートを握りしめ、先輩を背負って駅に向かった。「コートに化粧がついちゃうかも、迷惑かけてごめんね」温かい塊が耳元でそう呟くのが聞こえた。迷惑ではなかったけれど、想像より2割増しで重い彼女のぬるい体温が僕を混乱させた。
 首から回された手首にいつかの腕時計が巻き付いているのを見て、それが止まっていることを思い出した。
 「なんで止まった腕時計着けてるんですっけ」
 背中にもたれる柔らかさから気をそらしたいのもあって、僕は彼女にそう尋ねてみる。
先輩は今にも溶けてしまいそうな、眠たげな声で話し始めた。
 「これね、学生時代に付き合ってた男の子に貰ったの。もうずいぶん前に別れたんだけど、なんだか捨てられなくてずっとつけてる。女々しいでしょう?」
 「別にいいんじゃないですか。『死んでしまったからと言って、それが好きでいることをやめる理由にはならない』って何かの小説に書いてありました。」
 「それってすごく有名な小説じゃない?……でもね、実際のところ私は彼のことがまだ好きとか、そういうわけじゃないんだ。多分私はずっと大人になりたくないだけなんだよ。何にも責任なんて取りたくないし、毎日昼まで寝てたいし、休みの日は散歩して野良猫を見かけたら構って生きていたいの。そういうことができてたあのころを忘れないように、青春の墓標として私はこれを外せないんだと思う。」
 「……そういうのわかりますよ」僕はしばらく間を置いてからそう答える。
 「ほんとうに?君って誰にでもそういうこと言うんでしょう?」と先輩は笑った。
 東京では雪が降らないから、僕は何も答えなかった。



 止まった目覚ましを八つ当たり気味に放り投げて、携帯電話で時間を確認するとどうしたってもう会社には間に合わなかった。僕は電話を一本入れて有給を取ることにする。
 先輩はあれから二年経った今年の春に会社を辞めた。僕はもう違う部署になっていて、話す機会もほとんどなかった。ただ噂に聞いた話では、結婚や転職といったそういう話ではないらしかった。 
 上司の嫌味を聞き流しながら、部屋の白い天井を見上げて先輩のことを思う。彼女はいつだったか地元が北海道だと教えてくれた。ここよりもずっと涼しくて広い街を歩く彼女があの腕時計を外せていたらいいな、と思った。

腕時計

 

 蝉が命を燃やす音が聞こえなければ、多分ずっと眠っていただろう。
 目覚まし時計が止まっていたせいで、その人のことを思い出した。

 彼女は僕が入社して一番初めに配属された部署の二つ年上の先輩で、とても軽やかにパソコンのキーボードを叩く人だった。僕は彼女ほど心地良い音でタイピングをする女性をまだ知らない。彼女の細い指先が奏でるリズミカルな打鍵音は、午後3時頃になると僕の眠気を誘った。
 それに気が付いたのは初夏のことだったと思う。彼女はいつも左腕に銀のベルトの緩い腕時計をつけていたが、時間を確認するときには必ず携帯電話を使っていた。
 「先輩って腕時計見ないですよね。」
 長い会議(長いだけで何も決まらない、本当に酷い会議だった)を終えて、二人で昼を買いに出掛けるため乗ったエレベーターの中で僕は何気なく聞いた。
 「実はこれ壊れてるの。」
 そういって、ワンフロア分ずつ減っていくデジタルの数字を眺めていた彼女は僕の方をちらと見て微笑んだ。眉をハの字にして少し困ったように笑うのが先輩の癖だった。
 その理由を尋ねようとしたとき、どことなく間抜けな音がしてエレベータの扉が開いた。一回のロビーは、冷房の効いた会議室やエレベーターの中とは違って蒸し暑かった。
 「わ、暑いね。」
 外に出ると、日差しが容赦なく僕らを突き刺した。先輩がそれを遮るために突き出した左手首で反射する銀の時計の輝きが太陽より眩しかった。



 腕時計の秘密を知ったのはその年の冬だった。
 職場の忘年会で、先輩は見事に酔いつぶれて2次会が終わるころにはほぼ半分以上眠っていた。上司や他の先輩は「ここから先は25にもなってない若者にはまだ早い」と言い残し、一番若い僕に彼女の世話を押し付けて夜の街に消えていった。
 僕は上司が残してくれた二次会の釣り銭とレシートを握りしめ、先輩を背負って駅に向かった。「コートに化粧がついちゃうかも、迷惑かけてごめんね」温かい塊が耳元でそう呟くのが聞こえた。迷惑ではなかったけれど、想像より2割増しで重い彼女のぬるい体温が僕にも移ったみたいで、体が熱かった。
 首から回された手首にいつかの腕時計が巻き付いているのを見て、それが止まっていることを思い出す。
 「なんで止まった腕時計着けてるんですっけ」
 背中にもたれる柔らかさから気をそらしたいのもあって、僕は彼女にそう尋ねてみる。
先輩は今にも溶けてしまいそうな、眠たげな声で話し始めた。
 「これね、学生時代に付き合ってた男の子に貰ったの。もうずいぶん前に別れたんだけど、なんだか捨てられなくてずっとつけてる。女々しいでしょう?」
 「別にいいんじゃないですか。『死んでしまったからと言って、それが好きでいることをやめる理由にはならない』って何かの小説に書いてありました。」
 「それってすごく有名な小説じゃない?……でもね、実際のところ私は彼のことがまだ好きとか、そういうわけじゃないんだ。多分私はずっと大人になりたくないだけなんだよ。何にも責任なんて取りたくないし、毎日昼まで寝てたいし、休みの日は散歩して野良猫を見かけたら構って生きていたいの。そういうことができてたあのころを忘れないように、青春の墓標として私はこれを外せないんだと思う。」
 「……そういうのわかりますよ」僕はしばらく間を置いてからそう答える。
 「ほんとうに?君って誰にでもそういうこと言うんでしょう?」と先輩は笑った。
 東京では雪が降らないから、僕は何も答えなかった。



 止まった目覚ましを八つ当たり気味に放り投げて、携帯電話で時間を確認するとどうしたってもう会社には間に合わなかった。僕は電話を一本入れて有給を取ることにする。
 先輩はあれから二年経った今年の春に会社を辞めた。僕はもう違う部署になっていて、話す機会もほとんどなかった。ただ噂に聞いた話では、結婚や転職といったそういう話ではないらしかった。 
 上司の嫌味を聞き流しながら、部屋の白い天井を見上げて先輩のことを思う。彼女はいつだったか地元が北海道だと教えてくれた。ここよりもずっと涼しくて広い街を歩く彼女があの腕時計を外せていたらいいな、と思った。

雑記 8/15

 雨の日に、引きこもることを良しとしてくれる人のことが好きだ。

 盆だけど、まぁ実家に帰れるご時世でもないので、この土日はずっと部屋にいた。ホットコーヒーを買いに近所のセブンイレブンに行ったくらいだろうか。ところで、コンビニコーヒーの中ではセブンがダントツで美味しいと俺は思う。牛丼なら吉野家。だけど、デートしてる女の子が「わたしはすき家派かな」って言ったら、次の日の昼食はすき家に行ってみるかもしれない。松屋なら行かない。

 部屋で何をしていたのか?コールマンのインフィニティチェアで居眠りをしながら本を読んだり映画を見たりしていた。この椅子は、この一年で最高の買い物の一つだ。読書好きはみんな買いなさい。アフィリエイトではないので、自分でAmazon楽天で探せ。

 そういえば、高校生の頃は「~の中で最高のものの一つ」という言い回しがたまらなく嫌いだった。最高のものくらい一つに絞れよ、と憤っていた。まぁ10代というのは何にでも憤りたくなるから仕方ない。今は逃げる余地が多分にある言い回しでとても気に入っている。「君は今まで俺が出会った中で最高の女の子だよ」と誰にでも言っていたら刺されるかもしれないけれど「君は今まで俺が出会った中で最高の女の子の一人だよ」というのは、たぶん呆れられるだけで済む。誰も傷つけないことはそれだけで素晴らしい。

 最近使っていなかったBluetoothのスピーカーを持ち出して、配信されていた日食なつこの新譜も聞いた。頑なに電子書籍に移行しないで、紙の本を集め続けている癖にCDは全然買わない自己矛盾を思って一人で笑った。CDを買わなくなったことで、俺たちはかつての世代よりも音楽に対する情熱を持っていないのだろうか?そんなことはないと思うけど「じゃあなんで電子書籍にしないの?」と聞かれたときの明確な答えを今の俺は持ち合わせていない。たぶん紙の重さとかそういうのが大事なんだと思う。なんだか考えるのが面倒くさいので、誰かわかりやすくて言い訳があったら教えてください。ちなみに新譜では真夏のダイナソーが好きでした。アルバムを聴いて、シングルカットされてる曲を挙げるのもどうかと思うけど、好きなんだからしょうがないじゃん。

 俺もこの土日何度か感じたけれど、ある作品に触れたとき「あ、これはあの人が好きそうだな」「あの人に勧めてみたいな」と思うことは結構あるんじゃないかと思う。これは恋心のバロメータにもなっているというのが俺の持論だ。それは、風邪をひく直前の喉の違和感のようなもので、勧めたい「あの人」に特定の異性が浮かぶ機会が増えたら、それはもう八割くらい恋に落ちている。風邪はひき始めが肝心なように、恋も致命傷になる前に自覚して踏み留まるのが肝心だと思う。ただ、死神は身構えているときには来ないものだから、そういう心構えも無意味かもしれない。

 

 

直前に読んだ作家のエッセイを俺なりに自分の中に取り込んで見ました。酷い出来だけど、書きたいという衝動は大事だと思うので。

ドライブ

「俺はあの子に、俺以外と幸せになって欲しくないんだよ」
運転席の友人がそう呟く。やれやれ、全く身勝手な話だと僕は思う。別れた恋人の幸せを願うのが、元彼氏が唯一示せる愛情じゃないか?
さっきから渋滞は少しも進まない。日はすっかり沈んで、空の縁はオレンジから紫色に変わり始めている。


「そんなこと言ったって、お前は早々に別の女の子と付き合ったじゃん」
僕は、前の車の赤く光るブレーキランプを見つめながら言う。ナンバーは「8191」どう足し引きしても10になりそうもない。外れだ。


「今付き合ってる女の子がいないのに、好意に応えないのは不誠実じゃないか?」
友人が僕の目を見て言う。渋滞とはいえ、運転中にこちらを向くのは危ないから止めてほしい。そもそもこいつはこんなに人の目を見る人間じゃなかった。就活のせいだろうか。恐ろしい話だ。


「……まぁ、そういうこともあるのかもしれないな」
人には色々な誠実さの発揮の仕方があるのだと僕は思う。たぶん、世界に存在する犬の種類くらい。マンチカンは犬の種類だったか、猫の種類だったか。少しも思い出せそうにないので、考えるのを止めて4桁の数字を四則演算でなんとか10にできないか挑戦しなおす。


「そもそもとっくに別れてるわけだし。お前が本気でその子を好きなら僕から言うことは何もないよ。元恋人に『俺以外と幸せにならないで欲しい』ってのは最高にエゴイスティックだと思うけど」と僕は言う。
実際のところ、友人が誰と付き合っても知ったことではない。19歳を好きになってもサボテンに恋をしても、55歳と結婚しても友人であることは変わらない。
友人はしばらく黙ったあと、遠く夕焼けに染まる小さな入道雲もどきを見ながら言う。もうすぐ雨の季節が訪れて、それが終われば夏が来る。


「好き……だけど、それは前の彼女の好きとは違うんだよ。俺の人生を賭けたいと思えるかどうかってところで。寂しがり屋の女好きって言われたらそれまでだけど、それでも俺は、あの子に俺の人生を賭けたかったんだよ」
僕は、それを聞きながら、何度かあったことのある友人の元恋人のことを思う。綺麗な女の子だけど悪い男とか駄目な男に弱そうだった。どうやら見た目通りだったらしい。


「お前は違うのかよ?クールぶってるけど、そういうふうに少しも思わないって言えるのか?」
こいつは、とっくにエンドロールまで終わってホールの電気までついた映画の結末に、いつまで不服申立てをするつもりなのだろう?


いつの間にかあたりは暗くなっていて、友人の顔は見えなくなっている。
「本当に俺以外と幸せになってほしくないな」と呟く友人の声が、自分のそれになんだか似ているように思えて嫌気がした。その後に続くのはたぶん、「俺と幸せになってほしかった」だ。聞かなくてもわかる。

 

渋滞は、まだ少しも前に進まなかった。僕は、永遠に10にできないナンバープレートを見つめる。 

ひどい話

「ねえ、煙草吸うのやめなよ」

 待ち受け画面に表示されていた着信メッセージの意味が一瞬分からなくて、元々ほとんど機能していなかった寝起きの頭が完全に止まる。

 青白い携帯電話が示す時刻は23時45分。僕がシンデレラだったとしたら、卒倒するところだ。

 昨日、仕事を片付けるために徹夜をしたせいだろう。帰ってきてスーツも脱がないままで眠ってしまっていたらしい。ネクタイがまるで死んだ蛇みたいに首に纏わりついていた。

「タバコ・スウノ・ヤメナヨ」

僕は頭の中でその言葉を反芻してみる。親以外の人間にそんな風に言われるのは久し振りだった。

 「煙草を吸うのがカッコいい」そんな時代は、僕が生まれてくるよりも遥か昔(鎌倉時代くらい遠い昔だ)に終わっている。未だにそれを吸ってるやつは、都会の蛍を気取っている馬鹿かニコチン中毒のどちらかだ。

 けれど、僕らが馬鹿で中毒者なことをさておいて、これまで僕の取ってきたスタンスは「あなたに迷惑はかけないので、放っておいてください」というものだった。だってそうだろう?僕らは基本的に友人の人生に(あるいは恋人の人生にだって)責任を取る必要なんて少しもないのだ。お互いに言いたいことを無責任に言いあって、無責任に受け止めあう。それが友情の良いところだ。あなたが僕に「煙草を吸うのをやめろ」という自由があるように、僕には「はいはいそうですね」と聞き流す自由がある。そして僕は今までそういう自由を僕なりに正しく行使してきたと思う。

 メッセージの送り主はそれなりに長い付き合いのある友人だった。「余計なお世話かもしれないけど、さっきニュースを見てて、なんとなく思って」とそんな話が書かれていた。「この前会った時に煙草臭くて、嫌な思いをさせたかな」。そんなことがふと脳裏を過ぎる。それを遠回しに伝えているということも、大いにあり得ることだった。何しろ、彼女はよく気を遣うタイプなのだ。

 正直に言うなら、煙草をやめるように言われて、僕は大いに戸惑っていた。成人男性が全くの他人から心配を受けることはほとんどない(と思う)。飲みすぎて目の前で暴れているときか毎日カップラーメンを食べている画像をSNSに投稿しているときくらいじゃないだろうか。

 僕は、いつも通り「はいはいそうですね。でもあなたには関係ないんだから放っておいてください」と返すか、「心配してくれてありがとう」と返すべきかたっぷり三十秒迷った後で、「善処します」という短い返信を返した。自分自身に誠実で、嘘を吐くのが下手なところが、僕の持っている数少ない美徳だと思う。

 返信して、しばらくしたら目が覚めてきた。煙草を吸おうと思って、ベランダに出るためにサンダルを履いた。ライターで火を点けたところで、やっぱり止めにしてそれを灰皿代わりの空き缶に落とした。「彼女の、喫煙を吸う身内に何か不幸があったのでなければいいな」と真っ白な丸い月を見上げてそんなことを考えた。

 やれやれ、こんなのって本当にひどい話だ。彼女にもなにか僕から呪いを掛けられたらいいのに、と思った。

自由とウミガメ

「君は、自由でいいね」

そんな彼女の言葉がここ何日か頭から離れない。
どうして古い友達である彼女と電話をすることになったのか、よく覚えていない。たぶん、ビールを飲みすぎたんだと思う。

久しぶりに聞く彼女の声はあの頃と何も変わっていなくて、そのことが僕をひどく懐かしい気持ちにさせた。

「君は今、東京にいるって、話に聞いたよ」

彼女は言う。僕は缶に三分の一くらい残ったビールを飲み干しながらそれを聞く。何本飲んだか、4本目から数えるのはやめてしまった。

「うん。東京に来てみたくなって。」

「大学が北海道だったから、そのままずっと北海道にいるか、地元に帰るのかと思ってた。」

なんで東京に行くことにしたの?と改めて聞かれて僕はそのことについて考えてみる。どれだけ考えてみても、僕が東京に「来なければならなかった」理由は一つも見当たらなかった。僕は東京に「来たかった」のだ。別に大学のあった北海道や地元が嫌いだったわけではない。むしろ土地も、そこに住む人たちのことも僕は好きだった。

「僕は、なんとなくだけど、自分の能力とか、そういうものがちゃんと世界で通用するのか試してみたくなったのかもしれない。どこにいたってそういうことはやり方によってはできるんだろうけど、東京に来るのが一番手っ取り早く思えたんだな。」

考えると同時に、口をついてそんな言葉が出る。自分で口にした言葉を聞いて「なるほど僕はそんな風に考えていたのか」と気が付く。

彼女はしばらくの間、何も言わなかった。開けっ放しの窓からは、どこか遠くの夜を駆ける救急車のサイレンが聞こえてきた。昼間あんなにうるさく鳴いていた蝉の声はいつの間にか止んでいた。

「君は自由でいいね。それはすごく恵まれたことなんだよ。」

彼女がどんな思いでその言葉を口にしたのかはわからない。僕は彼女の誕生日も知らない。どんな過去を生きてきて、その言葉を口にしたのかはわからない。きっと、これからも知ることはないだろう。

ただ、彼女がとても優しい女の子じゃなかったとしたら、きっとものすごく怒っていたであろうことが僕にはわかった。

彼女がそういうことを言ったのはそれきりで、そのあとはなんのことはない世間話をして電話は終わった。

僕はアルコールで酩酊した回らない頭で、彼女の言葉について考えてみる。僕は自由で、恵まれていて、そのことに気が付いていないのだろうか?

毎日決まった時間に起きて、決まった手段で決まった場所に行って、決まった仕事をする僕が自由だとは思えなかった。

火を点けたばかりの煙草の煙が、無駄に高い部屋の天井に向かって消えていくのを見ていた。敷金が戻ってくるといいな、とそんなことを考えた。

      ◇

大学生の休みが長すぎるのか、あるいは社会人の夏休みが短すぎるのか、それは分からないけれど、とにかく社会人の夏休みは短かった。土日を含めて5日間。しかも平日に被る分は有給で消化した。やれやれ、あと何十年もこんな調子なのだろうか?気が滅入る。

ただそれはそれとして、僕は夏休みが夏休みであるというそれだけの理由でそれを愛することができた。それはたぶん、恋心に似ている。好きな相手が変わってしまったからと言って簡単には嫌いになれないものだ。僕は5日間になってしまった夏休みのこともそれなりに好きだった。

特に予定もなかったから、海沿いの街に行って何日間か過ごした。夏休みに海に行かないでどこに行くというのだろう?毎日昼前から海岸に行ってビールを飲んだり、古本屋で見かけた分厚い小説を読んだりして過ごした。

波打ち際で寄せては返す波と戯れたりもした。夜は宿に帰って浴びるようにビールを飲んで、泥のように眠った。

その間僕はずっと「君は自由でいいね。それはすごく恵まれたことなんだよ。」という言葉について考えていた。あるいは、僕はその僕の持っている自由さを実感したくて海沿いの街で夏休みを過ごしたのかもしれなかった。

そんな風に何日かを過ごして、帰る日の夕方、砂浜で死んだウミガメを見つけた。あおむけにひっくり返って、くたびれたぬいぐるみのようになったウミガメの腹は、波で濡れて、西日を眩しく反射していた。

「どんなふうに生きて、ここにたどり着いて死んだのだろう。」

とウミガメの生について思う。

「こんなところで死んでかわいそうに。」

生きていた間、知りもしなかった癖に、僕はその死に悔やみを述べた。

「かわいそうじゃないよ。」

いつの間にか僕の後ろに二人組の中学生くらいの女の子が立っていて、僕にそう言う。

「かわいそうじゃないか。こんなところで野垂れ死んで。」

二人は小さく首を横に振る。その動きが二人ともぴったりそろっていて、僕はそのことに恐怖を覚える

「この子は、自分で生きるところを決めて、網にもかからず、ここで死んで海にかえるの。それは自由で幸せ。」

「僕にはわからないな。」

僕はやれやれと芝居がかった身振りを付けて首を振る。

「あなただって自由なのに。」

またそれかよ。と思わず舌打ちをしたくなる。なんだってみんな僕を自由だと思いたがるんだ。

気が付くと二人は消えていて、僕と死んだウミガメだけが砂浜に取り残されていた。

     ◇

宿に戻ると、テレビの映画チャンネルで北野武の「HANA-BI」を放送していた。僕はビールを飲みながらそれを見て、夕方の死んだウミガメのことを考えた。海で生きて海で死ぬことがウミガメの自由で、幸せなのだろうか。僕は生きる場所を自分で決めているのだろうか。

思えば、僕は「行きたいから」という理由で大学を選んで、自分の行ってみたい街でやってみたい仕事に就いた。そういう意味で僕は自由だ。ただ、それが彼女やあの二人組のいう「僕の自由さ」なのだろうか。僕にはわからなかった。誰も、僕に答えを教えてはくれない。


もしそうだとしたら、僕はそれを認めるのが怖くなった。すべて、今の現実ー毎日決まった時間に起きて、決まった手段で決まった場所に行って、決まった仕事をすことでさえ、僕の選択の結果で、それ以上でもそれ以下でもないことを認めることが怖い。

画面の中で乾いた銃声が二発響いた。

幸福のしっぽ/ハヌマーン

俺が初めてハヌマーンを聞いたのは友達のブログがきっかけだった。
そいつは高校の友達で、同じ大学に通ってはいたけれど、俺よりずっと頭が良くて「面白い」奴だった。
俺はたぶんそいつに嫉妬にも近い憧れを抱いていたのだと思う。
そいつが(確か)「ハヌマーンを聞け」とブログで書いていた。
憧れの相手好きなものは吸収したいし、知りたい。
それが憧れじゃなくて好意と置き換えてもいい。
恋人の好きなものとか、友達のお勧めしてるものはそれだけでいつか触れてみたいと思う。
みんながみんなそうだとは言わないけれど、少なくとも俺はそうだ。
愛は名前を知るところから始まるのだ。相手を知ることは愛なんじゃないか?友愛か博愛か恋愛かそれはケースバイケースだけれど。

 

そんなわけで、俺はハヌマーンを聞いて、そこからずっと好きなわけだけれど、いつの間にかあのブログも消えてしまった。本人とも疎遠になって、今はどこで何をしているのかわからない。
ただ、俺なんかよりいろんなことの本質をよく見ている男だったから、たぶん上手くやってるんじゃないかと思う。そうだといいな。
結局、ほとんどの人間関係は≪近づいていたつもりが、高速ですれ違っていただけ≫というだけの話なのだ。
それでもすれ違った彼らは俺の中に何かを残して行っていて、俺はそれをたまに引っ張り出して少し寂しい気持ちになる。

 

すっかり前書きが長くなってしまった。ハヌマーンの話をしよう。
ハヌマーンについて書きたいことはたくさんある。パチンコで負けた日に「Fever Believer Feedback」を聞いた話とか、「トラベルプランナー」を一時期目覚ましのアラームにしてた話とか。暗いニュースを見ると「リボルバー」を聞きたくなる話とか。


まぁ、でもどれか一曲について書くなら《幸福のしっぽ》かな、と思う。
これは、今まで一度で幸せに偶然手を触れてしまったことがある人、ハッピーエンドの向こう側に迷い込んでしまった人のための歌だと俺は思う。

「どんなバンドか」とか正確な歌詞とか書くのが面倒くさいのでその辺は検索してほしい。そういうのって実際のところ何も伝えないんじゃないか?と俺は思う。Wikipediaとあらすじを読んで内容を完璧理解できるような小説なら、読む必要が無いのと一緒だ。

 

「俺は世の中とやれてないな」と感じたことがある人は多いと思う。というか大体の人はそうなんじゃなかろうか。
《また転んだ。日々が行く。なんで僕だけと呟く。運命って言葉が浮かぶ。手も足も出せずに笑う》そんな歌いだしが響くのはきっと俺だけじゃないはずだ。
みんな「なんで僕だけ」と不幸を嘆き、生きる。それは社会的に成功しているかどうかとか、他人から見て上手くやれてるかとか、そういうんじゃなくて結局は「俺はどう感じるか」の話だ。人は他人の悲しみや不幸について完全に理解することはできない。俺には山田亮一が詩を書いた時に感じた想いを完璧に知ることはできない。その他のすべての哀しみについてそうであるように。

 

人間でいるためには《明日もまた同じ場所へ同じ手段で行く》必要があると言う。これは社会人になってしばらく経って身に染みた。もう、寝ぼけていても家から職場にたどり着けるようになってしまった。《彼らの理不尽さも品性の無さも受け入れてかなきゃ》とまぁひどい話だとは思うけれど、生活するためには仕方がない。かなり自覚的に上から目線の詩だと思う。そもそも、俺とて、理不尽なことを人に強いるし、品性だってお世辞にもあるとは言えない。この間、土曜の朝に収集の燃えるゴミを金曜の夜に出しました。この場を借りて謝っておきます。

 

《地下鉄の窓越しに、いつかのあの娘に似た人。愛していたような、不安のはけ口にしていたような》「あなたが他人のことを、自分の寂しさを埋める道具くらいにしか見ていないということは、案外見抜かれてしまうものなんですよ」とは「三日間の幸福/三秋縋」の引用だが、まぁ、きっとそういうもんなんだろうなと思う。何が愛かなんて永遠に俺たちにはわからないんじゃなかろうか。愛だと思っているものが寂しさや独占欲や性欲でないと誰が証明できるのだろう?結局すべての恋人も友人も家族も≪近づいていたつもりが、高速ですれ違っていただけ≫なのかもしれない。それでも心の中にまだ残る物に、意味や価値や物語を見出して俺たちはエンドロールの向こう側を生きていくしかないのかもしれない。

 

≪明日どれだけ面倒でも、部屋の掃除をきちんとするよ。たまった洗濯物も干して、あなたを思って言葉を書くよ≫≪暮らしがどれだけみすぼらしくて、維持するだけで目が回っても、ただ受け入れる洗濯機と回り続ける洗濯機のように。≫≪好きな歌など聞けなくても、会いたい人には会えなくても行きたい場所には行けなくても、黙って全てを受け入れるから≫≪そしたらまだ、人間でいられるんかなぁ。母さん≫と逆説的な歌詞で曲は終わる。好きな歌を聞いて会いたい人に会って、行きたい場所に行かなきゃ人間でいられないんじゃないかなぁ。と考えてしまう。俺はまだ、人間でいられるだろうか?

 

山田亮一はとてもやさしいので≪駄作は全部置いてくから、死にたくなったら歌えよ≫と言ってくれる。少なくとも俺は好きな歌を聞くことができる。
ハヌマーンがサブスクを解禁してくれたので。まだ人間でいられるかなぁ。

 

社会人が二か月くらい過ぎて、仕事が嫌になってきたので書いたら、長くなった。やっぱり書くのはなんとなくストレス発散になる気がする。読んでくれた人がいたとしたらありがとう。ハヌマーン、一緒に聞こうな。