僕は短編集が好きだ。

僕は短編集が好きだ。昔は「なんだか物足りない」と思って読んでいたけれど、いつの間にか僕は短編の正しい楽しみ方を身につけていたらしい。短編集は音楽で言うところのベストアルバムみたいなものなんじゃないかと僕は思う。

 

長編を読むほどの体力はないけど、その作者の言葉に触れたいときとか、(長い小説はとても面白いし、作者の魂や哲学に触れられるのもそちらだと思う。けれど長編を読むのはなかなか疲れるのだ)なんとなく良いものが読みたいとき、短編はその力を発揮してくれる。(まるでヒットソングを並べて作られたベストアルバムみたいに。)

 

無駄な飾りがなくて、必要なものを必要なだけ放り込んで作られた短編はよくできた武器や道具のような機能的な美しさがある。もちろん、それが映画であっても小説であっても漫画であっても。

 

余談だけど僕が大好きな村上春樹も初めて読むなら1Q84とかノルウェイの森のじゃなくて短編集かエッセイが馴染みやすいんじゃないかと個人的には思う。ちなみに一推しは「回転木馬のデッドヒート」だ。なんたって前書きが痺れる。

あの曲を聴くと

大学受験が迫った高校三年の冬、授業もほとんど課外に切り替わって、学校に来るも来ないも任意の期間。僕はストーブで温められた図書室で勉強をしていた。

 

これは何も僕に限った話じゃないと思うけど、勉強をしながらよく音楽を聴いていた。(もちろん音楽を聴きながらだと集中できないって人もいるんだろうけど、僕は沈黙とか無音の方が耐え難い。これは今でもそうで、一人暮らしの部屋では大体いつもウォークマンが歌っている。)

とはいえ流石に日本語の歌詞が入っている曲を聴きながら英語や数学を解けるほど僕の頭は優秀にはできていないので、洋楽やピアノの曲をよく聴いていた。

「記憶の想起力」が最も高い感覚は嗅覚だと何かで読んだ気がするけれど、僕は聴覚もだいぶ高い記憶の想起力を持っていると思う。

今でもあの頃好きで聴いていたクラプトンのBlue Eyes BlueとかディランのThe Times They Are A-Changing'なんかを聴くとなんだか、勉強しなきゃいけない気がする。

 

もちろん、気がするだけだ。僕はあの頃からずっと休日の夜に勉強なんてしたくないのだから。

世界の終わりとなんとやら

  セカイが終わるところに立ち会いたい、と思う。それはもちろん僕らが生きるような広い「世界」の話であり、当然それよりもむしろ、誰かの恋心で終わる小さな「セカイ」の話だ。

 

 90年代から2000年ごろまでかけてサブカルチャー作品群を席巻した、「君と僕」の関係性が直接世界の終わりや世界の危機に直結する、いわゆるセカイ系と呼ばれる物語が僕は好きだ。

おそらく誰にも1度くらい経験はあると思うけれど、例えば中学生の頃、とびきりキュートな女の子と手を繋ぐことができたらそれだけで世界は特別な新しい色を手に入れたように見えたし、もしその子と喧嘩をすれば世界はどこか彩度の低い色褪せたものに見えた。

 これは僕が気分屋で単純な人間であることにも原因があるのかもしれないけれど、そんなキュートな女の子という小さなセカイの登場人物によって色を変える世界を見ていると、セカイ系の物語はある種の真実をフィクションの舞台に上手く誘い出しているように思えた。だから僕は一つのセカイの終わりと新しい世界の始まりはニアリーイコールで構わないんじゃないかと、そう考えている。

 

  人が生きてるうちに出会えるセカイの終わりは星の数ほどは多くない、と思う。それはたぶん恋の始まりであり、恋の終わりであり、素敵な本との出会いであり、正しい形での誰かとの別れだ。

 人に物語る力がなかったらきっと僕らはもっと浅い場所でしか息ができない。

誰かが語ってくれる、見せてくれるセカイの終わりとそれによって新しく生まれた世界の話を聞くことによって、僕らは那由多の人生を体験できると僕は信じている。

それにこれは僕の個人的な祈りだけれど、正しくセカイが終わった後で人は少しだけ優しくなれる。

 

 だから僕は、何度でも誰かのセカイの終わりに立ち会いたいのだ。

Take Me Home Country Roads

僕が今住んでいるかの街は都会だ、なんていうと東京や世界の大都市で暮らしている人たちから怒られるかもしれないけれど、少なくとも僕は、何本も地下鉄が通っていて市の人口が僕の生まれた県の全人口にほぼ等しいこの街を都会だと思って生活している。

 

都会の暮らしはすごく便利だ。街に出れば大体のものは揃うし、夜中だって街は眠らない。なにより、電車を乗り過ごしてもすぐに次の電車がやってくる。

 

とても便利だけれど、TSUTAYAと大学と家をローテーションしながら生活していることを考えると、実は都会に住んでる意味は無いのかもしれないと最近思う。

 

都会を使いこなせないのは、もしかしたら僕が小さな街で生まれ育ったことに起因しているのかもしれない。

周りを山に囲まれた盆地で、最寄りの駅まで歩いて30分かかる生活は(なにが最寄りなのかさっぱりわからない)不便でせせこましく感じたけど、やっぱり僕の魂の一部みたいなものはあの街に置き去りで、今もあの坂道を自転車で下り続けているなだろう。

 

ジョン・デンバーの歌うTake  Me Home Country Roadsを聞くとノスタルジックになって微妙にホームシックになるのはきっと僕だけじゃないと信じている。

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ブックオフに売ってないもの

TOEFLの参考書がブックオフに売ってねえ!」って叫びを見た。

僕の個人的な感想として、どのブックオフを探してもなかなか見当たらないものNO.1はハヤカワSF文庫の特別面白いやつだ。他のものは大概売ってる。たぶん、愛や勇気や希望とかだって探せば置いてあるんじゃないかと思う。

 

僕の通った高校があった街の駅前には小さなブックオフがあった。よく帰り道に立ち寄って100円コーナーで本を漁ったことを覚えている。ブックオフに限らず古本には独特の匂いがあると思う。僕はそれを勝手に知識の匂いと呼んでいる。

 

古本には、新刊にはない「長い年月読まれることに耐えた風格」みたいなものが宿っているように僕には思える。いつか買った「グレート・ギャッツビー」にものすごい達筆で英訳された序盤が手書きされていたとき、そう感じた。

 

先述の僕が通っていたブックオフは帰省したときに覗いてみたら閉店していて大層ファックな気持ちになった。たぶんこうして僕が青春を過ごした街は少しずつ失われていくのだと思う。たぶん、思い出はブックオフには売ってない類のものなんだろう。

そんなことはどうでもよくて、僕は焼き鳥が食べたい

夕暮れ時、東北の田園風景をディランの「風に吹かれて」を聴きながら電車で走り抜ける。村上春樹は確か「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」の中でディランの歌声を「雨降りの日に小さな男の子が窓の外を見つめるような声」と評していた。

僕にとってボブディランの声はいつだって夕暮れを思い起こさせる。それも明るくもの哀しい夕暮れを。

これは僕の持論だけど、一人ぼっちの夕方にボブディランを好んで聴くような奴は心のどこかで孤独に憧れを抱いている。

 

ところで全然関係ないけど、GunsN'Rosesがアレンジしてるディランの「Knocking on heaven's door」はぶっ倒れちまうくらいカッコいい。

 

電車はまだ、目的地に着かない。

 

夜明けと駄文

気がつけば6月で、もう今月で今年も折り返しだと思うと感慨深い。そもそも年始に新年の目標なんて大層なものを建てた覚えもないので当然達成の目処も立っていない。そうして今年も夏の足音はまるで日曜日の夕方に忍び込む憂鬱のように確かに今日に近づいてきている。

 

この時期になるとn-bunaの「夜明けと蛍」【初音ミク】 夜明けと蛍 【オリジナル】 - YouTubeを夜中に聴きたくなる。日々大量の作品が生み出され消費される時代にあっては、多くの音楽や小説がそうであるように10年後この曲を聴く人はもしかしたらいないのかもしれない。

それでも、(少なくとも今年も)僕はどうしようもなく、この季節に聞く夜明けと蛍が好きだ。

 

たぶんそれはこの曲が僕にとって「しっくりくる」ものだからではないかと思う。僕だって、「朝が来ないままで」息ができたらどれだけいいかと、時々深夜に考える。

 

夜はいい。それは昼ほど攻撃的じゃないし、誰も静かな夜に好きでもない相手と話がしたいとは思わない。もし朝が来ないまま夜明けのまどろみの中を生きていけたなら、僕らはもっと優しくなれるんじゃないだろうか?

 

疲れ果てた夜中に書く文章なんてロクなものじゃないけど、それでも書きたいと思った時に好きなことを好き勝手に書き殴るってのは案外楽しいものだ。