ナイフ

僕が好きだった彼女は死んだ。僕がその白い首を締めて殺した。段々と細くなる呼気をひゅーひゅーと洩らしながら彼女は恍惚とした表情をしていた。

 

彼女は不死の呪いに掛かっている。へそ曲がりの神様が「ずっとこのまま居られますように」という彼女の祈りを歪んだ形で叶えてくれた。大きな代償と引き換えに。

 

その異変に気がついたのは古びた神社を詣でた三日後のことだった。原因は僕が調理中にちょっかいをかけたことだけれど、今となってはどうだっていい。

晩御飯を作っている最中に彼女は指を切った。赤い血が数滴薄い切傷のあるまな板に飛んだ。

水気に滲んで花の咲くまな板を横目に僕は彼女の指先から目が離せなかった。休日の午後、ピアノの鍵盤の上を踊る彼女の指先にできた切り傷からは赤黒い泡が吹き出て瞬きの間にふさがり、まるで何も無かったかのように綺麗につながった。

驚いて彼女を見ると彼女は青ざめた顔で泡立った指先を見つめていた。回る換気扇を通して夜が部屋の中に忍び込んで来ていた。

 

その夜、彼女は夢を見たという。顔のない全身が白い、つるりとした肌の男に首を絞められる夢だったらしい。夢の中で彼女は死んだけれど、体中が泡立つような感覚がして目覚めた、と。そしてそれは、今まで味わったことがないほど気持ちが良かった、と。

 

彼女は毎晩、その夢を見た。僕はある日、彼女がカッターナイフで腕に切り込みを入れて滴る血にまみれた腕を掲げて踊っているのを見た。雨上がりの日差しが窓から彼女に差し込んでいた。彼女はとても優しい笑顔で笑っていた。まるで宗教画に出てくる天使のようで、僕は彼女が踊るさまをずっと見ていた。

 

彼女の自己破壊欲求は段々と強くなった。行為中にも首を絞めることを求めたり、切り傷では飽き足らず身体に刺し傷を作るようになった。

ある日彼女はこういった。

「私のこと、壊してほしいの。こんな事あなたにしか頼めないから」

僕は躊躇った。彼女のことは好きだったけれど、彼女を壊したあと、もし直らなかったらどうしよう?

「大丈夫。一回壊してみたの。自分で」

その言葉を合図に僕は彼女の柔らかい首に指を埋める。潰れた蛙のような声を出して彼女の息が詰まる。口元から唾液を垂らしながら彼女は天使の微笑みで僕を見る。その表情を崩したくて僕は指先に力を込める。骨が軋むほどに。爪が肌に食い込むほどに。

 

生き返ったあとで彼女は「やっぱり好きな人にしてもらうのは自分でするのと全然違うね」と恥ずかしげに僕の腕の中で呟いた。

 

何度も縊り殺すうちに、彼女はそれでは満足できなくなったらしく、解体用のナイフをどこからか買ってきて僕の手に握らせた。ベッドが汚れないようにブルーシートを引いて、僕は彼女にまたがって柔らかな2つの乳房の間に何度も何度もそれを深く突き立てた。溢れる血は温かくてそれに手を浸していると世界と自分の輪郭が滲んで一つになっていくような高揚感を得ることができた。

 

彼女の心を取り出して眺める。生き返りつつあるそれはぴゅっぴゅっとまだ塞がっていない血管から血を吹き出しながら心は拍動をしていた。何かの漫画で見たように握りつぶそうとしたけれどそれは存外ぶにぶにと柔らかく所詮内臓の一つなのだと思った。

 

「私は毎日生き返るよ。それって普通の人が夜眠って朝目覚めることと同じような話じゃないかな」

と彼女は言う。何度も死んで生き返った彼女は元の彼女と同じなのだろうか?彼女の肚の中には呪われた赤黒い泡しか詰まっていないのではないだろうか?

そんな考えが頭をよぎるが僕は彼女にナイフを突き立てる手を止められない。刺して壊して犯して奪う。それが今の僕らの愛の形だ。

 

 

赤い糸

ある晴れた木曜日の午後、気まぐれな神様のいたずらのせいで僕らの小指には赤い糸が結ばれた。うまく夫婦や恋人同士が繋がっていた人は良かったけれど、そうじゃ無かった人たちも結構多くて、世の中は最初結構混乱したらしい。

それでも、不確かな「恋心」ではなく明確な神の意図(皮肉なことにそれは糸だった)で自分が付き合うべき相手が決まっているというのは案外楽だった。例えば喧嘩をしたとしても、「まぁ運命の相手だから…」と思えば許すことができたし、叶わぬ恋に焦がれて眠れぬ夜を過ごすこともなかった。

 

僕が生まれた頃には当初の混乱もだいぶ収まってみんな赤い糸に従って将来の伴侶を早いうちから決めることにあまり抵抗を持たなくなっていた。実際僕の両親も赤い糸に海を跨いで結ばれて、それを道しるべに出会い、結婚したと聞いた。二人共それぞれ当時付き合っていた相手がいたらしいけど、あいにく、赤い糸では結ばれていなかったらしい。

 

〈木曜日のいたずら〉のあとに生まれた世代では自分と運命の相手が共に18になると、小指同士が結ばれる。18になる夜、一人真っ暗な天井に左手をかざしていたら、赤い糸が人馴れしたふわふわの猫のようにどこからか忍び寄ってきて僕の小指に結ばれた。

どうやら、僕の運命の相手はもう18になっていたらしい。僕は少しホッとする。聞いた話では20歳差で結ばれる二人もいるらしい。1年や2年ならまだしも20年も小指が空いていたのでは落ち着かない。もしかしたら僕の運命の相手が20歳年上ということもあり得るけれど、とりあえず僕が待ちぼうけを食らうことは無いみたいだった。

 

僕の運命の相手は、クラスで一番かわいい女の子だった。次の日の朝教室に入ってすぐ、糸が緩んだような感覚がして糸の先を辿ってみてわかった。自由恋愛の時代は身近な人と結ばれることが多かったらしいけど、それは単純に機会が与えられないからであって、几帳面な神の采配で七十億分の一(日本人に限っても一億何千万分の一だ)を選んだとき、知り合い同士が結ばれる確率は限りなくゼロに近い。だから、クラスメイト同士、というか同じ学校内ですらで結ばれることはものすごく珍しくて一日学校中から注目された。

 

そんな状況じゃ彼女とまともに話すことも難しくて、「これからよろしく」の一言も言えないまま、僕は家へと帰った。

きれいな女の子と結ばれて嬉しくないといえば嘘になるし、実際彼女は友だちとしても一緒にいてとても素敵な女の子だった。明日は、話ができるといいな、と思いながら目を閉じる。何も、夢は見なかった。

 

 

それからしばらく経つと噂が他の学校にまで広まって、なかなか彼女と二人で話す時間は取れなかった。そんな矢先だった。

日曜の夕方、風呂に入っている時、赤い糸が不意に切れてしまった。糸は物理的なものじゃなかったから、今まで切れたなんて話はほとんど聞いたことがなかった。

次の日学校に行くと、下駄箱には小さなメモ帳が入っていた。極めて全時代的な呼び出しには彼女の名前があって、部活が終わったあとに音楽室に来るよう書かれていた。

彼女は授業には出ていなかった。小指の糸がなくなったことに気づいた友人がいて、結構な騒ぎになったけれど、僕はほとんど他人事のようにその喧騒を聞き流していた。

 

        

放課後夕日の差し込む音楽室に行くと彼女は真っ黒なピアノの前に座って待っていた。

「待った?」そう聞くと彼女は小さく「ううん、今来たところ。来てくれてありがと」と言った。

「君との赤い糸、切れちゃったんだけど君の方はどうなってる?」どこかに連れて行かれそうなほど美しい夕焼けが窓の外には広がっている。そこで僕ははじめて彼女が左手に 白い手袋をしていることに気がついた。

「ごめんね、私が小指を切り落としたから、赤い糸、解けたの」彼女がそう言って白い手袋を外し床に落とす。たしかに彼女の小指があるべき場所には何も無くて、そこから彼女の宝石のような目が見える。

なるほど、確かに僕が女に生まれて、僕と赤い糸で結ばれたら小指を切り落とすかもしれない。僕と結ばれるくらいなら一人で生きるほうがいいのかもしれない。

「それでね」彼女が話し出す。「話があるの」今更、なんの話があるというのだろう?いろんな思いがこみ上げてきて、なんだか泣きそうになって、それでもなんとか堪えて彼女を遮ってこう言った。

「……確かに僕も僕と赤い糸で結ばれたら小指を切り落とすかもしれない、けど、迷惑かもしれないけれど、僕は君のこと好きだよ。この気持ちが神様の采配の残り香なのか、僕自身の気持ちなのかわからないけど、赤い糸が無くても僕は君が確かに好きだよ。」

それじゃあ、また明日教室で。そう言って踵を返し憂鬱な音楽室を出ようとしたとき彼女が話し出した。

「誤解させちゃってごめんなさい……あのね、私、嫌だったの。結ばれるずっと前からあなたを好きだった気持ちが赤い糸によってもともと決められたものだったなんて。だって私は神様に決められたから、あなたを好きになったわけじゃないもの。真面目なところも優しいところも、笑うと八重歯が覗くところも、少しハスキーな声も、勉強しているいる姿も 、私が見つけて、私が好きになったんだもの」

「だから、証明したかったの。私は赤い糸なんて無くても、あなたを好きでいられるって。赤い糸を切ってそれでも本当にあなたを好きって知って、それから想いを伝えたかったの…先に言われちゃったけど。」

「ねえ、私、あなたが好き。赤い糸なんて無くたって、あなたが運命の人じゃなくたって好きよ」

僕だってそうだ。彼女の側に行き小指のない左手を右手でそっと握る。これから、側にいても離れても僕らは繋がっていけるだろう。赤い糸が繋ぐよりも、ずっと強く。ずっと長く。

春の夜

春生まれだけれど、一年のうちで春の夜が一番苦手だ。

決して嫌いというのではなくて、ただただ苦手だ。

夏の夜は蚊取り線香の匂いを嗅ぎながら空気にうっすらと残る熱と昼間の苛烈さによって強調される静けさを愉しめばいい。

秋の夜はゆっくりと本を読んで、夜によく似合う音楽(静かで読書の邪魔にならないようなやつだ)を聞いていればいつの間にか眠れる。

冬の夜はこたつに入りながら、よく暖房の効いた部屋で外で深々と降る雪に思いを馳せていれば過ぎていく。

 

だけど、春の夜は違う。春の夜は艶めかしく蠢いていて決して静かではないし、なんだかそわそわしてしまって本を読んでいても落ち着かない。暖かくて昼間に眠くなるのに夜になると気が昂ぶる。

夜桜が近くに咲いている時なんて、よくもまあみんな正気を失わないな、と思う。

見つめていたらどこか遠く、旧い場所に連れて行かれそうな恐ろしさが美しい夜桜にはある。

 

独りぼっちの春の夜で迷子になったら、僕はどうやって戻ってくればいいのだろう?そんな不安のつきまとう春の夜が、僕は苦手だ。

Be strong now

じいちゃんが教えてくれたBe strong now を口ずさむ。有名な曲だし、たぶん、君も一度はどこかで聞いたことがあるんじゃないかと思う。

 

空梅雨で雨が少ないから、大きな橋の下を流れる川の水量もこころなしか少ないように思える。春と言うにはだいぶ遅く、夏と呼ぶには少し早い。そんな季節のことだ。

 

大学進学に合わせてこの街に引っ越してきてもう三年以上経つ。それでも休日に(もっとも大学生なんて一年の半分以上休日のようなものだけれど)散歩をしていると、まだまだ知らない道があることを思い知らされる。

 

じいちゃん曰く、Be strong now はそばにいられない恋人に歌った歌らしい。

東京で君は元気にやっているだろうか?

君が知らないこの街の景色をたくさん君に送ろう。僕と君が住んでいたこの街の景色を。

そして君が少しだけ東京に就職したことを後悔して、僕に会いたくなればいい。寂しいと、電話をかけてくればいい。

 

僕らは強くならなくたっていい。一人では歩けないくらい弱いなら二人で歩けばいい。

 

遠くの焼却場の煙が空に消えていく。

あの煙が入道雲になった頃、君に会いに行こう。

ピアス

 

「ねぇ私、ピアスを開けようと思うの」

 

ある晴れた3月の朝に彼女はそういった。

「へぇ、いいんじゃない、大学デビュー?」

高校三年生の春休み、お互い大して勉強をしなくても余裕で入れる地元の大学の合格も決まって、小学校から続く僕らの腐れ縁がこれからも同じように続く、そう信じていた頃のことだ。

「そんなところ、今からピアッサー買いに行くから付き合ってよ。10分後に私の家の前でいい?」

当然僕は暇だったけれど、少し気になって尋ねてみる。

「暇だけど…ピアスのことなんて全然わかんないよ。一緒に行くの僕でいいの?」

「高校はピアス禁止だったでしょ。誰と行っても同じよ」

一理ある。僕は急いで服を着替えて家を出た。

 

          ◇

彼女の家の前まで行くともうすでに彼女は外に出ていた。見たことのない白い長袖のシャツに春の空を落とし込んだような淡い水色のスカートを着ていて、きっとこれも大学デビューの準備なのだろうな。と思った。

「遅刻じゃない?」と彼女は言ったけれどまださっきの連絡から8分しか経っていない。「遅刻じゃないよ、ギリギリセーフ。それじゃ行こうか」

桜はまだ咲いていなかったけれど、オオイヌノフグリのちいさな青い花や菜の花の鮮やかな黄色が所々で眩しかった。どこまで買いに行くのかと聞くと駅の近くの大きなスーパーで取り扱っているのを見たという。僕もよく行くけれど、今までそんなものを売っていることには気が付かなかった。きっと僕の周りにはこんなふうにしてあるけれど気がつけていないものが溢れているのだろう。ふと、そんなことを考えた。

 

         ◇

 

片道15分の春を楽しみながらスーパーへたどり着く。ピアッサーというのは片耳ずつ使い切りのもので、そこにセットされているピアスをしばらくの間はつけていなければならないらしい。

「どの色が私に似合う?」と彼女が聞いてくる。「この紫色とかどうかな、大人っぽいと思うんだけど」「ふーん、紫か…どう?似合う?」そう言って耳元に紫の石を彼女が寄せる。「うん、似合うよ」「かわいい?」「可愛いっていうよりは綺麗かな」そう答えると彼女は満足したようで、紫の石のついたピアッサーを2つ手に取りレジへと向かっていった。

 

         ◇

大学はどんなところか、サークルは何に入るつもりか、今年はあの先生が離任するらしい、そんな話をしながら彼女の家の前まで戻ってくる。帰るのは少し名残惜しい気がしたけれど、用が終わったのに引き止めるのも不自然かな、と思い、じゃあ僕はここで、と彼女に告げる。

すると彼女は長い付き合いの僕も見たことのない恥ずかしそうな顔をして途切れ途切れにこう言った。

「そ…の、ピアス開けるの怖いから、よかったら開けてほしいんだけど。…うち今誰もいないし、ダメかな…?」

その表情がやけに可愛らしく見えて僕は不覚にもドキドキしてしまってよく考えないままに頷いてしまう。

 

          ◇

彼女の部屋に入るのは小学生のころ彼女の家に遊びに来たとき以来だろうか?

女の子の部屋でどう過ごしたらいいのかよくわからず座って待っていると、消毒用のウェットティッシュを取りに行った彼女が戻ってきた。

「それじゃあ、お願い」

彼女が僕の前に座り髪を掻き上げる。形のいい耳が顕になる。耳をウェットティッシュで拭き、ピアッサーをあてがう。耳に触れるたびに彼女の体が小さく跳ねる。おかげでこっちまでなんだか変な気分になってくる。

「いくよ」と小さな声でいうと、彼女は目だけでうなずいた。

 

ぱちん、と小さな音がして、僕は彼女の躰にささやかだけれど確かな跡を残した。

 

         ◇

 

 

「もう、耳はくすぐったいってば」頭を撫でながら耳に触れると彼女は猫のようにふるふると頭を振る。それでも懲りずに耳に手を伸ばして優しく撫でる。そこには僕が三年前に開けたほんの少し斜めに空いてしまったピアスの穴があって、彼女の躰に僕の印がついているような気がして嬉しくなる。

それをしたら、くすぐったがって怒ることはわかっていたけれど、僕はほかにどうすればこの気持ちをうまく伝えられるのかわからなくて、その小さな耳にそっと口づけをした。

 

夜空一杯の星を集めて

ひどく雨が降っていた。春なのに、すごく寒かった。
透明なビニール越しに見える滲んだ街明かりがひどく昔に忘れられた宝石箱のように光っていた。

ずっと好きだった女の子に思いを伝えようとした矢先の出来事だった。
彼女は去年からのクラスメイトで、今年も幸運なことに同じクラスになれた。
二人とも本が好きで、良く休み時間や放課後に自分の好みの作品について語り合った。話が合うということも、もちろんあったけれど、それよりも事あるごとに恥ずかしそうに笑うその顔がどうしようもなく好きだった。 
彼氏がいるなんて、そんな素振りは少しも見せなかったのに。僕と同じ紺色の制服を着た、見しらぬ男と手を繋いで、僕の大好きなはにかんだような笑顔を浮かべながら君は雨に煙る街を歩いていった。

消えてしまいたかった。雨に溶けて汚い泥水と混ざって排水口に流れ込んで、見たことのない道を通って遠く遠くの海にまで運んでほしかった。

街を歩く僕以外のすべての人が幸せに見える。信号待ちをするカップルも、母親と手を繋いで歩く小さな女の子も、誰かと親しげに電話をするサラリーマンも。

相手の男に妬ましさを覚えなかったといえば嘘になるけれど、彼女があんなに幸せそうな笑顔を向けるのだから、きっと素敵な人なのだろうと思う。そう思うと少し気が楽だった。けれど、彼のその素敵さがどんな素敵さか、僕はこれっぽっちも知りたくはなかった。

誰も知らないような深い森の奥に独りで取り残された言葉のように僕は震えていた。
聞こえてくるのは、雨の音と車が水しぶきを巻き上げる音だけ。

…本当にそれだけだろうか?それらの静かな音の暴力の中に何か意図を持ったメロディーが混じっていることに僕は気がついた。
それはピアノの音だった。
ピアノという楽器について僕は詳しいことはわからないし弾くことももちろんできない。それでも僕はあのどこか郷愁の念のようなものを含んだ音が好きだった。もし、雨に混じっていたのがビオラの音だったとしたら、僕がその音に気がつくことは無かっただろう。もちろん、ビオラに何かの恨みがあるわけではないけれど。

なんとなく気になってその小さな音を追いかけてみる。
それは今まで何度も通っていたのに、その存在にすら気が付いていなかった細い路地の奥から聞こえているように思えた。

やっと一人通れるほどの薄暗く細い路地を進んでいくと、小さな赤い屋根に古ぼけた焦げ茶色の木のドアが付いた一軒家がポツンと立っていた。ピアノの音はさっきよりもずいぶんしっかりと聞こえてくる。
導かれるようにしてその焦げ茶色のドアに手をかけると、その戸はまるで僕が来るのを待っていたかのように開いた。

家の中では小さな白のテーブルと大きな黒のグランドピアノ、そして壁一面の本棚が橙色の明かりに照らされていた。
ピアノを弾いていたのは、5月の空色のドレスを着た、僕よりも少し年下の女の子だった。女の子が音を奏でるたびに、高い位置で結んだ細いポニーテルが楽しげに揺れていた。

ドアの横には、僕のために黄緑色の木製のチェアが一脚だけ、ポツンと置いてあった。
その椅子に座り、ピアノの音に耳を澄ませる。題名はわからなかったけれど、その曲は満天の星を湛えた深い紫の夜空を思わせた。
こんなにきれいな曲を弾く女の子がどんな子なのか気になったけれど、なんとなく、彼女の顔を見てはいけないような気がした。ただ白く細い指と、音に合わせて揺れる髪と、それに合わせて見え隠れする首筋だけで、その女の子は完結していた。

何か絶対的なものに赦されているという感覚に支配されて、僕はコーヒーに落とした2つ目の角砂糖のように夜空に溶けていった。

あの夜以降、赤い屋根の家を何度か訪れようとしたけれど、夜空を聞くことはできていない。

 

彼女は夜空を背負ってた

 

彼女は夜空を背負っていた。
僕は、彼女のきめ細やかで白い肌に浮かぶ黒子をつないで、夜空に星座を見出した。

 

首筋に浮かぶ北極星を中心に二人だけで星座と神話を紡ぐのが、僕らが一緒寝た夜の決まりごとだった。


「今日は何が見つかった?」

「『電気羊の夢を見るアンドロイド座』かな」

「本気で言ってるの?人の背中で遊ばないでよね…」


本当にある星座を紡ぐ代わりにそんなくだらないオリジナルの星座を紡いだりもした。

 

          ◇

 

まだ僕が中学生だった頃、高校生だった兄が天体望遠鏡と星座図鑑を買った。
高校生というのは、なんだかよくわからないものに熱意を注ぐ生き物だと、自分も高校生を通り過ぎた今となってはわかる。僕も読めもしない洋書を集めるのに熱中した。
兄が飽きたあと望遠鏡と図鑑を譲り受けた僕は決して僕の手が届かないその世界に憧れた。実際に遠く文字通り幾星霜もの時を越えて、たった一瞬僕の瞳を通り過ぎる光に、中学生のセンシティブな僕の心は確かにある種の形で救いを与えられていた。

その頃覚えた、古き人々の産んだ物語を僕は彼女の背中に幾夜も超えて語り継いだ。
多くの怪物を打倒し、数々の試練を乗り越えた果てに非業の死を遂げた英雄の話、英雄に踏み潰された蟹の話、美女を攫うため、雄牛に化けた神様の話。そして、僕が一番好きだった腕のいい狩人、オリオンの物語。

 

          ◇


永遠に続くような気がした夜も気がつけば朝日の中に薄く消えていって、君の夜空は見えなくなってしまった。星に込められた物語を誰にも語らなくなって随分と長い時間が経つけれど、僕は今でもたまに独り思い出す。君の目元に輝く北極星を。君の背中に浮かぶ無数の星座を。