セカイ系にできることはまだあるかい?

天気の子を見たので感想をば……

 

 


セカイ系というジャンルがある。

「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと 」(Wikipedia

という東らによる定義が一般的な定義に当たるだろうか。人によっては作品名を羅列される方がしっくりとくる概念かもしれない。

 

 


今回見てきた新海誠監督最新作「天気の子」は見る前から「2000年代のエロゲ」「綾波を助けられた世界線エヴァQ」「超オーソドックスなセカイ系」といった評判を耳にしていたが、上手い喩えだと思う。

きわめて少年的な閉塞感を抱いた少年が、紆余曲折を経てボーイミーツガールを果たし、少女と親交を深めるも、少女は「世界の平穏」と引き換えに手の届かない場所へと行ってしまい、少年は無力感を噛みしめる。という「天気の子」中盤部分までは本当にかつて多くのセカイ系で描かれた展開であり、新海監督の「ほしのこえ」を思わせる。

だが、「天気の子」において主人公帆高は「世界のために自分の好きな女の子が犠牲になること」を良しとしない。法を犯し、恩人に銃を向け、世界を壊してでも君が欲しいと、彼岸までヒロインを迎えに行く。

前作「君の名は。」でも本作「天気の子」でも、主人公は自分の意思で世界を選ぼうとする、かつ選ぶことができる。という点において、かつて「セカイ系」と呼ばれてきた作品とは異なるように思う
。(前作は「世界も女の子も」救えたのに対し、今作は「世界か女の子、どちらか」しか救えないという違いはあるが。)この違いが時代性なのか、それとも監督の持つメッセージ性なのか、まぁ、どちらもかもあるのかもしれない。

本作の終盤「世界はどうせもともと狂ってる」「世界はもとの形に戻っただけ」と日常を崩壊させた責任を負うことはない、と遠回しに大人たちが慰めるのにも関わらず、主人公帆高は「世界は最初から狂っていたわけじゃない。僕たちが変えたんだ。 」とその責任を負おうとする。それはその実感こそ日常を崩壊させてしまった罪の意識であると同時に、世界を変えることができた。目の前の女の子を自分の意志で守れた。その勲章に他ならないからではないだろうか。


この2020年にあえてセカイ系の系譜に連なる物語を生み出したこと。これにより新海監督は「セカイ系にできることはまだあるかい?」と問いかけているように感じる。全盛期を過ぎ、評論の場でも以前ほど取り上げられなくなったセカイ系。その存在意義や普遍性を問うことこそ、この作品の担っている意味なのではないかと僕は思う。

 

 

海獣の子供を見た感想

海獣の子供https://www.kaijunokodomo.com/sp/

(原作:五十嵐大介 監督:渡辺歩)が6/7に公開となった。


せっかく見てきたので、感想と妄想を書きなぐっておこうと思う。たまには映画サークルっぽい文章を書いてもバチは当たるまい。ちなみに原作は未読なので、「漫画の映画化作品」としてではなく「一つのアニメ映画」としての感想になることをお許し願いたい。

さて、僕がこの映画を見て一番最初に感じたのは「世間での受け取られ方がもったいないな」ということだ。


近年の大ヒットした新海誠監督のアニメ映画「君の名は。」の影響もあり、アニメ映画に対して「ストーリーのわかりやすさ」みたいなものを要求するコンテクストがあるように感じる。その文脈の下で鑑賞した時、この「海獣の子供」という映画は「分かりにくい映画」として評価されてしまうだろう。

この映画の魅力は「わかりやすさ」ではなく、「強いメッセージ性」と「映像表現」にあると僕は感じた。

この映画の主題は「生命賛歌」と「子離れ」の二つではないかと思う。

 

主人公琉花は映画を通して初潮から妊娠・出産までをメタファーとして経験していく。
主人公である女子中学生の少し上手くいかない生活を描く序盤で印象的なのは「赤」だ。赤信号、真っ赤な橋、赤い車、赤い傘、連なる神社の赤鳥居、そして、膝を擦りむいたことで流れる赤い血液。
これらは海を描く上で必然的に青の多くなるこの映画における映像上のアクセントであるとともに、初潮の隠喩であると言えるであろう。
(「赤を見りゃなんでも血のメタファーかよ」とは僕も思うが…)

 

そして、琉花は新江ノ島水族館ジュゴンに育てられたという少年「海」と「空」に出会う。ここで注目するべきは「海」と「空」二人が果たす役割の違いだ。
劇中「海」は琉花の「息子」としての役割、「空」は琉花の「夫」、「海」の「父親」としての役割を果たす。(事実、琉花は「海」に対してごく母性的なふるまいをする。子守唄を歌ったり、「守ってあげたい」という旨の発言をしたり)

 

「空」は「海」のために口づけで琉花に「隕石」を託し姿を消す。劇中で「隕石」に関しては明確に「精子」を意味すると言及されている以上、口づけが性行為を示すことは疑いようがない。


中盤での大魚が轟音と共に去来し暗転するシーンなどを通し琉花は(もちろん疑似的に)受精し妊娠する。

 

物語終盤、「祭り」を通して琉花は「海」の出産を行い「命をつなぐ」という好意を儀式的に完了する。この映画における琉花は「祭り」のゲストとして扱われ、超自然的な事象を体験しその目を通してそれを観客に伝えるいわば「巫女」的な役割であると言えるだろう。

 

そして「祭り」が終わり、「海」は旅立って行ってしまう。(これが単純に成長しての親離れであるのか、死別なのかは明示されていないように僕には思える。)一度は「私もずっとあなたと一緒にいたい」という琉花だが、最後にはその別れを前向きに受け入れる。

このメタフォリカルな生命の誕生から親離れまでの過程を縦の大きな柱とし、「生命賛歌」「琉花の現実における家族の再生」「達観した様子の登場人物の人生観」が度々差し込まれることでこの作品は複合的で複雑なストーリー展開をする。


「映像表現」については(ド素人の僕が言及するのも恥ずかしいが)アニメ―ションでしかできない表現に対しての誠実さ、アニメでこの作品を取る意味を深く深く追求しているように感じる。ドでかいクジラが海の底から登ってくるシーンは畏怖を感じずにはいられない。ちょっと柔らかくした「二〇〇一年宇宙の旅」的なシーンもあり、非常に美しく、映画の可能性を示してくれる。

 

米津玄師の「海の幽霊」は映画の内容にマッチした名タイアップだし、エンドロール後の映像のおかげで視聴後の後味も爽やかだった。声優陣も(原作漫画を読んでいたらまた変わるのかもしれないが)不自然さはなくストレスなく見られた。

心の底から「受け取られ方がもったいないなぁ」と思う。僕の適当な妄想・感想では全く魅力を伝えきれないが、ぜひ劇場の大画面で見てほしいアニメ映画だった。

 

Eye to eye

「君ってさ話をするとき人の目を見ないよね。」
 彼女のそんな言葉がきっかけだった。昔から人の目を見るのがどうにも苦手だった。目は口ほどにものをいう。その通りだと俺は思う。目という小さな窓を通して、俺という人間の底。ひどく浅い底を見透かされてしまうようなそんな気がしていた。
 

 

「そんなことないよ。俺もたまには目を見てる。」
 サークルの同期である彼女は、よく「目を合わせる」女だった。明るい雰囲気で誰とでもすぐに打ち解ける。そういう女だった。
「嘘だぁ。だって私出会って二年経つけど目合ったことないよ。」
「本当だって。」
「嘘だよ。だって今だって全然見てないじゃん。」
そう言って彼女は俺と目を合わせようとしてくる。俺は夕焼け色に染まる窓の外の街を眺めるフリをしながらそれを見て見ぬふりをしていた。
「面接とか、どうしてるの?就活してたよね、確か。」
「なんとなく目のあたり見てるよ。それで何とかなってるんだ。」
ふぅんと彼女は面白くなさげに呟く。丸椅子の上で爪をいじる彼女の姿が視界の端に映った。
 
 来週の文化祭で演奏をして俺たちはぼちぼちサークルも引退だ。彼女とこうして会うこともたぶんなくなるのだろう。ふとそんなことを思った。
「あ、じゃあさ、ゲームしようよ。」
しばらくして彼女がそう提案してくる。
「ゲーム?」
「うん。」
「そう、名付けて『目を逸らしたら負けゲーム』ルールは簡単。見つめあってて目を逸らした方の負け。負けた方はジュースをおごる。どう?」

 彼女はネーミングセンスがなかった。いつだったか写真を見せてもらった、彼女の実家の犬はポチという名前だったような気がする。
「まぁ、いいよ。俺だって目を合わせられるところ見せてやるよ。」
 椅子をもう一脚出して彼女と向かい合わせに座る。俺の方が少し座高が高くて、彼女が俺を見上げる形になる。


 彼女の大きな黒目をじっと見つめる。「夜のような」というのは瞳の美しさを形容するのによく使われるが、彼女のそれは夜というよりは深海の黒さに近いように思えた。人は見たこともないものを比喩に用いる。俺だって、本当の深海の黒さを知っているわけではない。
 俺は「今見ているのは人の目ではない」と必死に思い込んで、何とか目を合わせていた。別にジュースをおごるのが嫌だったわけではない。ただ勝負に負けるのはなんとなく癪だった。それだけだ。
 
 彼女は口元を緩ませていたが、決して視線は外さなかった。
「なに笑ってんだよ。」
「別に。君と目を合わせてるのが珍しくてなんか笑っちゃっただけ。」
 日が暮れて部屋の中はだんだんと暗くなってくる。暗くなれば目線を外してもバレないと思っていたけれど、人間の目は案外優秀らしい。徐々に訪れる暗闇に静かに順応していった。
「暗くなってきたね、見えなくなってきちゃった」
 そう言って彼女は不意に顔を近づけてくる。暗くて距離感を掴みかねているのか、俺の鼻先を体温がくすぐる。
 こういうこいつの不用心さ、軽々しさが俺は本当のことを言うと嫌いだった。本人に悪気はないのだろうけれど、不意に異性を意識させてくるところが嫌いだった。

 

 不意に脇腹をくすぐられて危うく目を逸らしそうになった。
「おい、触るのは反則だろ。」
「そんなことはルールで決めてません。あ、いま目逸らさなかった?」
「逸らしてねえよ。」
 手のひらから彼女の体温が伝わってくる。俺もくすぐり返してやろうかと思ったけれど、それこそ気まずさで自分から目を逸らしてしまいそうだったのでやめておいた。
 たぶん俺が笑わないせいで、彼女は意地になって目を合わせたままで俺をくすぐってくる。
 前のめりになりすぎて、椅子ごと彼女が俺に倒れこんでくる。俺たち二人だけしかいないくらい教室に大きな音が響いた。
 背中が痛かったが、そんなことよりも胸の上に当たる彼女の感触の方がずっと気になった。
身体を起こした彼女の顔が目の前にあって、この場合先に目を逸らしたのはどっちだったのかなぁ。まだ逸らしてないしドローかな。なんてことを考えていると彼女の小さな手に俺の視界がさえぎられる。おいおいこれじゃ俺の負けか?と思う間もなく俺の唇に湿った柔らかなものがそっと押し付けられて俺はすべての思考を放棄してその柔らかさを受け入れた。
 
 手を外された俺が見たのは俺の上で真っ赤になっている彼女だった。彼女は少し潤んだ瞳で俺を見つめてすっと目を閉じ顎を少し上げた。
 俺は一体どうするべきなんだろう。
 俺はこいつが嫌いだった。 本人に悪気はないのだろうけれど、不意に異性を意識させてくるところが嫌いだった。

 

 本当に?

 

 俺が嫌いだったのは、多分自分自身だ。友達にあさましくも劣情を抱いて、異性を感じる自分自身。俺は彼女を通して自分を嫌っていたのだ。俺は誰かに瞳を通して心の中を見られるのが怖いんじゃなかった。俺は、目を合わせたとき、「相手の瞳の中に俺の嫌いな俺」を見るのが嫌だったのだ。

 

 俺は今度は自分から目を閉じたままの彼女にキスをする。
 いままで目を逸らし続けてきた好意と俺はやっと見つめ合って、目を離さないことに決めた。


 長い口づけの後で俺は彼女に告げた。
「俺の負けでいいから、ジュースでも買って一緒に帰ろう」と。

UFO

小さなガラスのコップを傾けると口の中に芋の味が広がる。俺は芋焼酎が嫌いだ。次の朝、布団の中まで芋のにおいがするような気がする。今俺が芋焼酎を飲んでいるのはひとえに金がないからで、もし後千円多く財布に入っていたとしたら、代わりに日本酒を頼んでいただろう。

 

 畳に脚を投げ出して座る女は、まだ二杯目のウーロンハイを飲んでいた。それでもだいぶ酔いが回っているように見えた。髪の色とウーロンハイの色が同じで、俺はそれがひどくおかしく思えて一人で笑いそうになった。

 

 居酒屋のすすけた天井のラジオからはニュースが流れっぱなしになっていた。確かアメリカ海軍が、UFOを目撃した際の報告手順を定める、みたいなニュースだったと思う。

 

アメリカはUFOとか宇宙人とか、そういうものを認めるってことかな。」

俺は女に尋ねた。

「そういうことなのかもね、だとしたら遅すぎるくらいだと私は思うけど。」

女はそう言って畳の上に投げ出した生白い裸の足を気だるそうに組みなおした。

「俺は思うんだけどさ、宇宙人はもう地球人にまぎれて普通に生活してるんじゃないかな、そんな風に考えることってない?」

 そういって顔を上げてテーブルに肘をつく女の顔を見た。そこには何の表情もなかった。能面。いやあれのほうがまだ人っぽい顔をしてるかもしれない。それは飲みすぎて嘔吐する寸前の顔にも見えたし、気を失っているようにも見えたし、別れた男のことを思い出しているようにも見えた。

 僕が口を開けないでいると女は表情を取り戻した。

「何の話だっけ。」

 笑う女の顔が、なぜか一瞬恐ろしく思えた。

「いや、大した話じゃないんだ。今こうして外を歩いているやつの中にももしかしたら宇宙人が混ざってるかも知れないって、そう思っただけだよ。」

「それって面白い考え方だね。気がついちゃったんだ。そのこと。でも、見分ける手段なんてないよね。もし、私が宇宙人なら、心も、身体も完全にこの星の生き物と同じく擬態するな。絶対にそうする。」

 俺はどうしてこの女と酒を飲んでいるのか必死に思い出そうとしたが、無駄だった。アルコールで麻痺した思考回路はもやがかかっていて、役に立つことなど何一つとして思い出せなかった。分からないから酒を飲んだ。喉を滑り落ちる厚い液体は俺の中に芽生えた仄かなおそれをやさしく溶かして言った。

「これを飲んだら行こうか。君も結構酔っ払ってるみたいだし。」

「まだまだ飲めるよ、でもいいか、二件目に行かない?」

 それとも、と女は僕の耳元に口を寄せて囁く。テーブルと女の身体の間に挟まれた乳房が柔らかさを示威するように押しつぶされて変形する。

「確かめてみる?私の身体は、地球人と見分けがつかないってこと。」

 甘い息が僕の耳と脳をくすぐる。

 

 宇宙人を見かけたときの報告手順もきっと世界のどこかでは定められているのだろう。

 けれど、どうだっていいと思った。部屋は片付けたっけ、宇宙人とするのにも避妊はいるんだろうか。いるんだろうな。だって彼女はさっき「私が宇宙人なら、心も、身体も完全にこの星の生き物と同じく擬態する」と言ったのだ。ならそれは地球人の女の子と寝るのと何も変わらないじゃないか。

 


 帰り道、赤く光るUFOを見た。夜空を指さしてそれを女に教えた。

「飛行機だよ。」

 そういって女は笑った。もう一度空を見上げてみた。それはやっぱり俺にはUFOに見えた。

 

海の底・夜の底

 僕は夢を見ていた。そこは海の底なのにひどく明るく、そして暖かかった。僕が息を吐くたびに小さな白い泡が、透明な遥か彼方の水面に向かって小さくなっていった。
 少し離れた白い砂地で裸の彼女が踊っていた。離れていても、それが彼女だと僕にはわかった。僕はダンスに詳しくないから、彼女の踊りがなんという名前なのかわからなかった。ただキレイだと思った。砂に負けず白い肌も、サンゴよりも赤い乳首も、海の底よりも暗い黒の髪も。彼女だとわかったのに、僕には彼女の顔が見えなかった。近づこうと海中でもがいても、僕の身体は少しも前に進まなかった。それどころか段々と君から遠ざかっているような気すらした。僕は、君と手をつないで踊りたかったのに。

 

           ◇

 

潮の匂いに混ざって母の作る朝食の匂いがする。目覚ましが鳴る五分前だった。こういうことが、最近よくある。ある時間に目覚ましをかけると、それよりもほんの少しだけ早く目が覚める。
 波の音が聞こえる。そういえば昨日の夜は熱くて寝苦しかったから、窓を開け放して眠ったのだった。ここ数日で急に暑くなったような気がする。夏が近い。
 一回に降りると既に朝食の準備が終わっていた。
「あら、おはよう。ちょうど今起こしに行こうとしてたところよ」
と母が言った。
 目玉焼きをご飯の上に乗せて醤油をかけて黄身を割る。半熟の黄身が醤油と混ざってご飯に染み渡っていく。いただきます、と手を合わせて僕は朝食をかきこむ。やっぱり卵は半熟に限る。
 洗面所で顔と潮風で少しベタついた髪を洗う。歯を磨いて、制服に着替えて家を出た。

 学校へと続く海沿いの道を自転車で走る。まだ朝のうちはそんなに暑くない。堤防の上にはポツポツ釣り人がいた。路端の夏草が車道にまで葉を伸ばし始めていた。朝露が朝日を反射してきらきらと輝いた。
「おはよう」
後ろから声をかけられる。ペダルを漕ぐ足を少し休めて後ろを振り返ると自転車に乗った君だった。セーラー服は3ヶ月立ってもまだやっぱりちょっと似合っていないと思う。
「あぁ、おはよう」
君が僕の隣に並ぶ。二人分の影が足元に並ぶ。
「宿題した?後で見せてくれない?」
「またやってないの?授業午後じゃん、自分でやりなよ。」
「そんなこと言わないでさ、私が数学苦手なの知ってるじゃん。」
「知らないよ。もう今年からは夏休みの宿題は手伝わないからな僕は。」
他愛ない話をしながら自転車を漕ぐ。しばらくすると学校が見えてくる。僕らは並んで校舎の手前の坂を登る。大した坂ではないけれど登り終わる頃には額に薄っすらと汗をかいていた。

 窓際の席に座る。教室の真ん中で友達と話す君のことが視界に入る。僕は机に突っ伏して眠るふりをしながら腕の隙間から君を覗き見る。やっぱり、後ろ姿だけならセーラー服もそこそこ似合っているかもしれない、と僕は思う。
 退屈な授業の間、僕は窓の外と君のことばかり考えている。入道雲が青空の下に膨らむ。校庭ではどこかのクラスが体育をしていて、時々小さな声が上がっている。君は真面目に英語のノートを取っている。黒板を叩くチョークの音だけが初夏の教室に響く。僕はいつの間にか眠ってしまっていて、英語の教師に頭を小突かれてしまう。

 放課後家に帰るために校舎を出る。昇降口で靴紐を結んでいると、君が一緒に帰ろう、と声をかけてくる。二人で野球部が部活をしている横を通り抜ける。
「ねえねぇ、そういえば私達付き合ってるんじゃないかって噂になってるんだって。」
君が悪戯に笑いながらそう言う。
「…へぇ、そりゃ嬉しいね。僕の身には余る幸運だよ。」
僕はからかわれていることがわかっているので軽く流した。つもりだったけれど、うまくできていただろうか。動揺を悟られ無かっただろうか。
ちょうどその時、君は僕の少し前を歩いていて、君の顔は見えなかった。

 

          ◇

 

 僕は夢を見ていた。この間よりもほんのりとオレンジ色の海の底の夢。たぶん、海の上は夕暮れ時が近づいているのだろう。何故か僕にはそれが朝日ではなく夕日であることが確信を持ってわかった。これは、間違いなく夕日だ。もしかすると僕がそう確信したのは、水温がこの前に夢を見たときよりもほんの少し冷たくなっているような気がしたからかもしれなかった。
 砂地で踊る彼女はこの間よりも少しだけ僕のそばに近づきているような気がした。相変わらず顔は見えなかったが、その姿はこの前よりもはっきり見えた。僕は彼女の踊りから目が離せない。それは決していやらしい意味ではなく、ただどうしても彼女から目が離せない。そして僕は彼女の踊りがどこか物哀しいことに気がつく。この前見たときはなんとも思わなかったけれど、少なくともそれは決して楽しげな踊りではなかった。
 僕は声をかけようとして、声が出せない事に気がつく。僕の声は君には届かない。

 

          ◇

 

 夏休み初日から僕は昼過ぎまで眠ってしまっていた。母が出してくれたのであろう、緑色の羽の古ぼけた扇風機が、大きな音を立てながら部屋の中で首を横に振っていた。僕は薄っぺらな敷布団の上で大の字になって、天井の木目を見上げる。小さな頃から何度も何度も繰り返し見上げた天井だ。幸い、僕の部屋には顔に見えるような木目は見当たらない。蝉の声が部屋の中にまで入ってくる。どこか遠くで雷の音がした。
 携帯電話が震えて、メールが来たことを告げる。
「今なにしてる?」
君からだった。
「寝てたよ、今起きたとこ」
短い返信をするとすぐにメールが帰ってくる。
「一緒に宿題やらない?」
「手伝わないって言ったろ」
「そんなこと言わないでよ、アイス奢るから」
「嫌だ」
「でももうアイス買っちゃった、今から行っていい?」
「わかった」
僕は内心すごく嬉しかった、夏休みの初日から会えるなんて幸先がいい。しかもあっちからの誘いで。五分もしないうちにインターホンが鳴る。母と君が話をしている声がして、しばらくしたあとに君が僕の部屋の引き戸を開ける。
 君はすごく真面目に宿題に取り組む。僕はTシャツの襟から除く日焼けをしていない君の白い肌やショートパンツから伸びる太ももから目が離せない。窓を開けているのに君の匂いが部屋にこもっていくような気がする。さっきまで遠かった雷の音がだんだんと近づいてきている。
 雨が振り始めたので僕は窓を閉める。雷は嫌い、と君が言って珍しく怯えた表情を見せる。部屋の中にいれば大丈夫さ。と僕は言う。いつまでも雷が鳴り止まなければいいと僕は思う。

 

          ◇

 

 海の底はすっかり夜になっていた。夜なのに、砂地は変わらず白く見えた。本当ならば海の夜の底は何も見えないはずだ。僕はその事をよく知っている。暗く、だいぶ冷たくなり始めた水の中で僕は今までよりもずっと近くにいる彼女を見る。僕は君の左の乳房の上の方にほんの小さなほくろがあることと、君の性器の周りに髪の毛と同じく真っ黒な陰毛が生え揃っていることを初めて知る。あんなにいつも近くにいるのに、僕は彼女について知らないことばかりだと僕は思う。彼女の踊りはだんだん激しくなっていて、まるでもがいているようにも見える。相変わらず君の顔は見えないままだし、僕は動けないし、声も出ない。僕はそのことで酷い喪失感と無力感に襲われる。
 僕の声は君には届かないし、僕の手は君に届かなかったのだ。

 

          ◇

 

 夏の終りに僕らは二人きりで花火をする。波打ち際ではしゃぐ君が花火を持ってくるくると回る。吹き出した炎がスカートのように広がって、まるで君はドレスを着たお姫様みたいに見える。波の音がいつの間にか消えていて、君は服を脱いでいる。そのまま君は暗く、冷たい夜のそこへ向かって歩き出す。僕は服が濡れるのも構わず君を追いかける。海が足首から膝、膝から腹、腹から胸、胸から頭へとだんだん迫ってくる。海の底は真っ暗で僕の前にいたはずの君が見えない。ぼくはガタガタ震えながら前へと進む。突然目の前に真っ白な君が現れる。僕はびっくりしたというよりも、ずっと夢の中で見られなかったその顔が見られたことにひどく安堵する。僕は海の底で冷たい君に抱きしめられる。君が耳元で僕にそっと呟く。それは「ごめんなさい」にも「ありがとう」にも「好きだよ」にも「さよなら」にも聞こえた。

そして夜の底から一筋の泡が立ち上っていって、海面を突き抜け空まで昇っていく。僕は独り、冷たい海の底からそれをいつまでも見つめていた。

 

そして僕は硬く白いベッドの上で目を覚ます。そして君に夏が来なかったことを知る。

楽器

 それはまるで交通事故のように、ある日突然に訪れた。 
 上手く楽器が弾けなくなった。指の動きがぎこちない、音がたどたどしい。ベースがザラザラとした手触りの異質なものに感じられた。
 幸いにしてバンドの仲間にはまだ気が付かれていないようだった。練習時間の間、誰かに自分の不調が気が付かれはしないかとそればかりが気になって自分が今何の音を出しているのか、何の曲を演奏しているのかわからなかった。

           ◇

 外に出るとすっかり日が暮れていた。首筋から入り込む夜風が冷たかった。一体私に何が起こったのだろうか、今まで一度だって弾けなくなるなんてことはなかったのに。思ったように音が出せなくなって早三日、事態は少しも好転していなかった。週末には小さなものではあるるけどライブもあるのに。このままではまずい。
 バンドの仲間たちに相談しようかとも思ったが、楽しそうに週末の話をする彼女たちの顔を見ると、余計な心配をかけることがひどく罪深いことのように思えた。結局何も打ち明けられないまま、今日も私は独り、とぼとぼと暗い夜道を歩いていた。
 
 ぽつんと一本だけ立つ寂しげな電灯の光が私を照らしたとき、反対側から歩いてきていた背の高い男が急に立ちどまるのが視界の端に映った。ちょっと怖いな。もっと明るい道を選べば良かった。と私は少し後悔した時、男が私に声をかけてきた。

「……もしかして佐々木先輩じゃないですか?俺のこと覚えてますか、高校のジャズ研で一緒だった宮内です」

 

男の顔をよく見てみる。あぁ確かに、覚えている。それはアルトサックスの一つ下の後輩だった。
「うん、覚えてる。大学、どこに行ったんだっけか。」
俺は先輩ほど頭良くなかったんで……そう前置きして彼が口にしたのはこの近くの公立大学の名前だった。私も学祭で行ったことがある。
「先輩は大学の帰りですか?俺この辺に住んでるんですよ」
よく見ると彼はスウェット姿にコンビニの袋をぶら下げている。きっと晩御飯でも買ってきたのだろう。
「それ背負ってるってことは、先輩もまだ音楽やってるんですね。こんど聞かせてくださいよ。先輩の演奏、格好良くて好きだったんですよ。」
私はあいまいな返事を返す。私の演奏が好きだったという彼に、今の不格好な演奏を聞かせたら、がっかりされるだろう。

……それとも、弾けていたころの私が好きだという彼ならば、今の私の演奏があの頃とどう違ってしまったのか、わかるだろうか。そんな考えがふと頭をよぎった。きっと私は誰かに悩みを聞いて欲しかったのだろう。
「ねぇ、この後時間ある?」
気が付けばそう口にしていた。

          ◇

彼の部屋は本当にすぐ近くだった。私が事情を話すと、
「実際に演奏してみてほしい。」
と言われた。近所から苦情は来ないのか?と尋ねると
「俺もいつも練習してますけど、九時前くらいまではなんも言われたことないですよ、あんまり人が住んでないボロアパートなんで」
彼はそう言って笑った。
彼の前で弾いてみてもやはりぎこちない演奏だったと思う。途中からあまりにも下手でなんだか泣きたくなってしまった。
彼も渋い顔をしていた。
「うーん……なんていうか、楽器と体が離れてるって感じがします。うまく言えないんですけど……」
わかったようなわからないようなことを言って彼は黙りこくってしまった。

気まずい沈黙が部屋を満たしていく。温い生ビールだけが減っていく。
「……なんで弾けなくなっちゃったのかな。今まではこんなこと一度もなかったのに。」
飲みすぎたのかもしれない。気が付けば私は泣き出していた。慌てる彼を横目に、申し訳ないと思いながらも涙が流れるの止めることはできなかった。

「ごめんね、久しぶりに会ったのに暗くしちゃって。私、もう帰るね。」
「いや、全然迷惑なんかじゃないですよ。……俺は、今でも先輩の音楽が好きですよ。どんなにうまく弾けなくても不格好でも先輩の音楽が好きです。」

耐えきれなくなって私は玄関まで見送りに来てくれていた彼の胸に寄りかかる。
彼のスウェットの胸部分に小さなシミができて少しずつ広がっていった。彼は私が落ち着くまでの間背中を優しくなで続けてくれていた。

           ◇

十二時を過ぎた夜の部屋で彼は優しくあやすように私の頭をなでてくれた。どちらからともなく唇を重ねる。シャンプーの香りの間から薫る彼の香りが私の心の柔らかい部分にそっと触れる。アルトサックスを演奏していた大きな手が身体の上を走る。彼が触れるところすべて、小さな電気が走ったみたいにチリチリとして気持ちがいい。彼は私の気持ちいいところをすべて知っているのかもしれない。そんな風にも思えた。
 いれてもいい?と彼が訪ねてくる。その瞳が御預けを食らった犬のように見えて私は思わず小さく笑ってしまう。
 突かれるたび、触れられるたびに自分でも恥ずかしくなるようないやらしくて色っぽい声が出る。あぁ、そうか。私は楽器なんだ。と思う。彼の身体全部を使って演奏される楽器。きっと上手く演奏された楽器たちも今の私と同じような、真っ白な光の中を泳ぐような気持ちよさを味わっているのだろう。いままでしたどんな相手よりも、彼に演奏されるのは気持ちがよかった。
 私は私の楽器に謝りたくなった。ごめんね、私は自分がうまく弾こうと力むばかりであなたのことなんて全然考えてなかった。ちゃんとあなたの声を聴けばよかった。
 
彼の腰の動きが速くなって、おなかの中が圧迫される。最後のフレーズを演奏し終えて私の中で果てた彼が体重を掛けてくる。私は彼の男にしておくのはもったいないくらい柔らかな黒い髪を撫でる。さっき彼が泣いていた私にしてくれたみたいに。

            ◇

あの日以来、彼には会っていない。アドレスは知っていたがなんとなく気恥ずかしくて連絡できなかった。彼からも連絡は来ていない。
 私はステージでベースを弾きながらこの間の彼との行為を思い出していた。楽器と身体がバラバラになるような感覚はだんだんと薄くなって、ベースは私の手にしっとりとした質感を持って収まってくれている。この子は、あの日の私のように気持ちよく演奏されているだろうか。
 セットリスト最後の曲を演奏し終えると会場はあたたかな拍手に包まれた。
 
 片づけと挨拶を終えてハウスの外に出ようとすると、携帯電話が小さく震えた。
「今日のライブ良かったです。俺が好きだった今までの先輩の演奏よりも今日の演奏のほうが素敵でした。お疲れさまでした。」
 宮内からだった。来るなら言ってくれればよかったのに。メールじゃなくて直接会ってほめてくれればいいのに。
私はそこで画面の外にメールが続いていることに気が付く。
「もしこの後暇だったら、飲みに行きましょう。待ってます。」
私は携帯を閉じて外へ駆け出す。夜の風も、少しも寒くなかった。

初夏

「お前ら付き合ってんだろ?」
アイツがまた後ろの席で友人達にからかわれている。たぶん、私とのことだ。違ったら怒る。
「別にそんなんじゃねえけど」
アイツはいつもどおりの文句で投げやりに否定を繰り返す。
おっといけない。気がつけば口角が上がっていた。
私はニヤニヤしている顔を誰かに見られないように机に突っ伏して寝たふりをすることにした

          ◇
  
「へぇ、こんなになっちゃうんだ。私で興奮したの?」
私は、いつか誰かが学校に持ってきた過激なティーン雑誌で見たよりもずっとグロテスクに映るアイツのそれを汗ばんだ右手で弄ぶ。
「別にそんなんじゃねえけど。」
アイツは顔をそむけながらそんなふうにつぶやくのでちょっと意地悪をしたくなった。
「ふーん、じゃあやめちゃおっかな。」
その途端にそっぽを向いていたアイツが、おもちゃを取り上げられた子犬のような顔を私に向ける。それだけで私は背中が痺れるような気持ちよさを感じてしまう。
初夏のぬるい風が裸の私達を包み込んで一つにしていく。


汗か、もっと違う体液か何かで湿ったシーツがひんやりとしていて少し気持ちよかった。腕枕をされていると、アイツの上がっていた息がだんだんと落ち着いていくのを感じた。制服の上から見ていたよりも厚く感じる胸板を伝う雫がすごくいやらしいと、私は思った。

           ◇


私のベッドに裸で寝転ぶアイツの耳元で私はささやく。
「『そういえばアイツの童貞芸を最近見ない』って一昨日言われてたよね。やっぱり卒業しちゃったからできなくなったの?」
アイツが私の耳を食む。

「別にそんなんじゃねえけど」
とアイツは言わなかった。