短編

ピアニッシモ

「それ」に気が付いたのは三日前のことだった。 彼の机に置いてある灰皿に入れられた一本の細い吸い殻。私は彼がその銘柄を買ったことすらないことを知っている。そもそもそれは一般的には若い女性が吸う銘柄で、そのことが私の中の疑念を大きく育てた。 「…

紫陽花

ここ数日雨が続いていて、僕はとても嬉しい。 いつだったか雨宿りを兼ねてたまたま入ったこの古びた小さな隠れ家のような喫茶店が気に入って、僕は空が泣いたときにだけここに来ている。 「雨の日にしかここに来ない」と行ったが、それは正確ではない。ここ…

サボテン

育て始めるまで、「サボテン」というのは英名だと思っていた。なんでも、サボテンの一種を「シャボン(石鹸)」の様に昔の人は使っていて、彼らを「シャボテン」と呼んでいたらしい。それが訛ってサボテンになったのだとか。 英名は…何だったかな、花屋の店…

恋人の日

「え?」 気になるクラスメイトの女の子の言葉を聞き逃すような男はロクな男じゃないんだけど、僕は彼女の口から出た「放課後私とデートしない?」という言葉が、僕のあまりに都合のいい聞き間違いに思えて思わず聞き返してしまった。 「見たい映画があるの…

水色の街

この世界は夏が来る前のまま、立ち止まっている。 静かな銀の湖面を臨む街で雨の降らない水彩絵の具で描いたような空がいつまでも続いていることに気がついているのはたぶん、僕一人だ。 毎朝同じ時間に目を覚まして、同じ服に着替える。着替え終わる頃には…

ナイフ

僕が好きだった彼女は死んだ。僕がその白い首を締めて殺した。段々と細くなる呼気をひゅーひゅーと洩らしながら彼女は恍惚とした表情をしていた。 彼女は不死の呪いに掛かっている。へそ曲がりの神様が「ずっとこのまま居られますように」という彼女の祈りを…

赤い糸

ある晴れた木曜日の午後、気まぐれな神様のいたずらのせいで僕らの小指には赤い糸が結ばれた。うまく夫婦や恋人同士が繋がっていた人は良かったけれど、そうじゃ無かった人たちも結構多くて、世の中は最初結構混乱したらしい。 それでも、不確かな「恋心」で…

Be strong now

じいちゃんが教えてくれたBe strong now を口ずさむ。有名な曲だし、たぶん、君も一度はどこかで聞いたことがあるんじゃないかと思う。 空梅雨で雨が少ないから、大きな橋の下を流れる川の水量もこころなしか少ないように思える。春と言うにはだいぶ遅く、夏…

ピアス

「ねぇ私、ピアスを開けようと思うの」 ある晴れた3月の朝に彼女はそういった。 「へぇ、いいんじゃない、大学デビュー?」 高校三年生の春休み、お互い大して勉強をしなくても余裕で入れる地元の大学の合格も決まって、小学校から続く僕らの腐れ縁がこれか…

夜空一杯の星を集めて

ひどく雨が降っていた。春なのに、すごく寒かった。透明なビニール越しに見える滲んだ街明かりがひどく昔に忘れられた宝石箱のように光っていた。 ずっと好きだった女の子に思いを伝えようとした矢先の出来事だった。彼女は去年からのクラスメイトで、今年も…

彼女は夜空を背負ってた

彼女は夜空を背負っていた。僕は、彼女のきめ細やかで白い肌に浮かぶ黒子をつないで、夜空に星座を見出した。 首筋に浮かぶ北極星を中心に二人だけで星座と神話を紡ぐのが、僕らが一緒寝た夜の決まりごとだった。 「今日は何が見つかった?」 「『電気羊の夢…

バレンタインデー

「ねぇ、チョコレート欲しい?」そう声をかけられて顔を上げると、想像していたよりもずっと近くに千鶴の顔があって、改めて近くで見るとこいつホントに鼻筋が通ってて肌白いしまつげも長いなーとかなんとか考えて、小っ恥ずかしくなって、気がつけば「いら…

ポケットの中の恋愛

僕と彼女がつながったのは、二ヶ月前のことだ。十月のある晴れた朝、ポケットの中に君の手が潜り込んできた。 何も入れていなかったはずのポケットの中に、突然柔らかく冷たいものが入っていて酷く驚いた。驚いて手を引き抜いて、恐る恐るもう一度手を差し入…

完璧な日曜日

目が覚めた時、完璧な日曜日のお膳立てが整っていることに気がついた。 洗濯は一昨日したばかりだし、掃除機は昨日かけた。何より布団に包まっていた僕を優しく起こした午前10時の緑の風と黄色の日差しが僕にそれを告げていた。 大きく伸びをして布団を這い…

それは確かに愛だった

「眠れないの。いつもの、弾いて」 君は今晩も僕にそう頼む。僕は君にこのお願いをされるたびに胸に小さく感じる痛みが決して顔に出ないように精一杯のにこやかな笑顔でそれに応える。そう、これは業務の一環で、それ以上の意味は何もない。 僕と君の間に雇…

ーこの世のすべての苦しみから逃れるには、やはり死ぬことしかないのだろうかー ウイスキーの水割りに溶けたチョコレートの絡んだおそらくは鮮やかな橙の蜜柑を皮ごと口に含みながら、走馬灯と共にそんなことを考える。口の中に小さな蜜柑に凝集された紀伊の…

銃を買った。 もちろんそれはモデルガンで人を殺す力なんて少しもない。それでも黒光りする金属製のズッシリとしたリボルバーは確かに暴力を内包しているように、僕には思えた。 装填できる弾は六発。誰に向かって打つかは、まだ決めていない。 これは、僕の…

スノウ・ホワイト

僕は彼女のことを「白雪」と呼んだ。 それは本当の名前ではなかったけれど、彼女はその名前で呼ばれることを好んだ。 本当の名前はわからない。 ◇ 彼女は精神科の待合室で出会った。 僕は少し前に巻き込まれたある事故のカウンセリングを受けに精神科に通っ…

吾輩は猫である

吾輩は猫である。というのが猫界隈では一番有名な書き出しであることに疑いはない。 尤も、私には名前がある。あの冷たい雨が降る夜に、私を拾ってくれたご主人がつけてくれた素敵な名前が。 あの日以来、私はこの家でご主人とご主人のお母様、お父様と暮ら…

嘘つきシューティングスター

風の噂で、君が結婚すると聞いた。 つけっぱなしのラジオから、チープで賑やかなヒットソングが流れる、星の綺麗な夜に。 君がこの部屋を出ていってから、もう二年になる。その間に、色々な女の子と付き合ったけれど、この部屋の細かなところには未だに君の…

汚ならしい公園の公衆便所の床にばら撒かれた鞄の中身を搔き集める。 口の中を切ったらしく、ひどく鉄くさい味がした。うがいをして、顔を洗い、鏡を見ると、虚ろな目がこちらを力なく見つめていた。身体のあちこちは痛むけれど、骨は折れていないようだ。彼…

鍋 sideB

「鍋が食べたいな、今夜どう?」とあなたに言う。季節は秋。木々は色鮮やかに葉を染めて、夜になれば虫の鳴き声が空に響く。そんな季節だ。 あなたが男のくせに綺麗な指で上着のボタンを閉める。その指で私も触れられたいな、と無意識に考えていたことに思い…

鍋 sideA

「鍋が食べたいな、今夜どう?」と君が言う。季節は秋。木々は色鮮やかに葉を染めて、夜になれば虫の鳴き声が空に響く。そんな季節だ。 君はお気に入りの燕脂のマフラーを首に巻きつける。白いセーターを着ているせいで、一瞬君が季節外れの燕に見えた。ちな…

よるがくればまた

夜になると、貴方を思い出す。それが私にかけられた呪いだ。 ◆ 私が貴方に関する思い出を引き出せるのは、日が沈んだあと、仄暗く光る夜が世界を包んだあとだけだ。太陽が空を支配する間は、何度も呼んだその名前も、いつも私を抱きしめてくれた優しい腕も、…

夏の終わり、秋の始まり

波の音で目が覚める。 見なれない天井とあたりに散らばる僕の残骸を見て、自分が海沿いのコテージにいて、昼食の後、何度か彼女と交わって、そのまま寝入ってしまったのだと言うことを思い出した。隣を見ると、真白なシルクのシーツに身を包んだ裸の君が無邪…

チェリー

それは春というにはまだ早く、冬と言い切るには少し遅い季節のことで、大学入試の二次試験も終わり、あとは卒業式と結果発表を待つだけのなんだか地に足がつかないような、そんな時期だった。 授業はとっくに終わっていて自由登校だったから、どうしてあの日…

変身

ある朝、僕がなんだかふわふわした夢からふと目覚めてみると、隣に眠る彼女が一羽の皇帝ペンギンに変わってしまっているのに気がついた。 それはもちろん、「猫みたいな女の子」のような、つまらない比喩ではなくて、彼女には嘴もあるし平べったい翼もある。…

風鈴

君に名前を呼ばれた気がした。窓際の風鈴がただ、寂しげに鳴いていた。 それは君が好きだった7月のよく晴れた空の色をしていて、そんなどうだっていいようなつまらないことが、僕にあの日の幼い約束を思い出させた。 ◆ あの頃、僕は潰れかけの美術部のたった…