それは誰のものでしょうか

 これは何もインターネット上に限った話ではないんだけれど、僕らは「誰が何を言っているか」を判別するとき意外なほどに”誰の言葉やコンテンツであるか”という部分に価値のかなり大きな割合を振り分けている気がする。
 コンテンツや言葉の発信者に注目することで、自分に快適な発言不快な発言は見分けやすくなるし、現実世界でだって、作家買い、歌手買いが素敵な作品に出会う、(”たったひとつの”とは言わないけれど)冴えたやり方であることは疑いようがないだろう。もちろんそれは決して悪いことじゃない。
 
 ただ問題なのは、「それが誰のものなのか」ということに囚われるあまり、コンテンツについて正当に評価を下せなくなってしまうことだ。

 「埋もれた面白いコンテンツを見出すこと」これはそんなに難しくないのではないだろうか?誰しもあまり有名ではないけれど好きな作家や音楽、映画の一本くらいはあるんじゃないかと思う。
 たぶん、本当に難しいのは「自分が無条件に面白いと信じているコンテンツに疑問を投げかけること」だと思う。大体において答えはyesなのだけれどそういう視点を自分が好きなものに持ち込むと、いくつか「これは作者が違っていたらここまで興味を示さなかっただろうな」って作品が出てくる。

 「好きなものは好きでいいじゃない?どうして疑う必要があるの?」といわれるかもしれないが、これは自分が好きなものを本当に好きで居続けるために必要な儀式だと思う。この儀式は好きなものを好きでいられる理由を教えてくれる。そしてその理由は自分で道を選ぶための確かな道しるべになると僕は信じている。