風鈴

 

君に名前を呼ばれた気がした。窓際の風鈴がただ、寂しげに鳴いていた。
それは君が好きだった7月のよく晴れた空の色をしていて、そんなどうだっていいようなつまらないことが、僕にあの日の幼い約束を思い出させた。

                                 ◆

 

あの頃、僕は潰れかけの美術部のたった一人の部員で、君はショートボブがよく似合う、少し短めのスカートから伸びるすらりとした白い脚が綺麗な女の子だった。
単なる少し近づきがたいクラスメイトだった君と僕との奇妙な交流が始まったのは、夏が始まる前、梅雨の真っ只中、六月の夕暮れだったと思う。

 

その日、僕はいつも通り放課後の美術室で一人絵を描いていた。そう言えば僕はあの頃から油彩画よりも水彩画の方が好きだった。そしておそらく、これからもそうだ。たぶん、水彩画の方が「世界の持つ不確定性」みたいなものを捉えられる、そんな気がするからだと思う。
窓の外ではいつの間にか降り出した雨が勢いを増していて、今日は傘を持ってきて正解だったな、とそんなことを考えている時、美術室の扉が突然開いた。
振り返った僕と目があった君は気怠げに「凄い雨」と言った。
「そうだね」
「美術部だったんだ。そういえば自己紹介で言ってたかも」
「たった一人の美術部だけど」
「じゃあ部長なんだ」
「そうなるのかな」
正直言えば僕ははじめ、君と話すのが億劫だった。君はクラスでは誰とつるむわけでもなく、いつもつまらなそうな顔をして眠るか、音楽を聴くかしていてなんだか近寄りがたい女の子だったから、何を話せばいいのかわからなかった。
「雨宿りしていってもいい?」
「部活は?」
「入ってない」
「そうだっけか」
「そう。何描いてるの?」
「水彩画」
「それは見ればわかる」

僕が描いていたのは大したことのない風景画だったと思う。君は僕の背中越しに絵を覗き込んで
「凄い」と呟いた。
「この程度誰だって描けるさ」
「少なくとも私には描けない」
「大したことないさ」
「謙遜と卑下は別物よ」
たぶん振り返って君を見た僕は狐につままれたような顔をしていたのだろう。君は笑った。
「そんな顔しないでよ。君は私には描けない絵が描ける。私はきっと君にはできない何かが出来る」
「たとえば数学とか英語とか?」
「あるいは、席替えの時にくじに細工をして、毎回窓際の後ろの方に席になるとか。」
「なるほど、それは僕も今度お願いしたいな。」
「嫌、君が近くにいたら気になって授業に身が入らないわ」
「嘘だろ?」
「嘘よ」

君はそういって、またいたずらっぽく笑った。僕も笑った。
下校時刻を知らせるチャイムが校内に響く。
「雨、止んだみたいだよ」
「ほんとだ」
「美術室の鍵をかけなくちゃいけないから、そろそろ帰ろう」
「そうね」


昇降口まで暗い廊下を歩く。蛍光灯の明かりがリノリウムの床に二つの影を描く。
「帰り道はどっち?」
「左」
「僕は右だ、じゃあまた」
「また雨宿りに行くわ」
僕らは学校の前の交差点で別れた。

次に雨が降ったのは三日後だった。

                                ◆

 

こうして僕らは知り合って、雨の日のたびに僕は君について詳しくなった。古いロックンロールと映画が好きなこと。よく本を読むこと。8月生まれなこと。本当に数学と英語が得意なこと。そういえば君と知り合った次の席替えで僕は後ろから3番目の窓際の席になった。あれは偶然だったのだろうか?

「君はやっぱり美大に行くの?」
「どうだろう、行かないような気がするな」
「どうして?」
「好きなことを仕事にしたくはないから」
「なるほどね」
「君は何になりたい?」
「とりあえず教育学部を目指してる」
「先生か、似合わないな」
「嘘よ、本当は素敵なお嫁さんになりたい」
「先生よりずっと似合わない」
「ほっといてよ」


夏の課外も半ばを過ぎた頃には晴れの日でも「家に帰っても勉強しないし、図書館は人が多い」と言って美術室に立ち寄って勉強をしていくようになっていた。
夏は受験の登竜門だとよく言う。でも僕は多少は勉強したけれど、やっぱり絵を描いていた時間の方が長かったような気がする。


彼女の誕生日には近くのコンビニでアイスクリームを買っていった。
「君さ、甘いものを食べさせとけば私の機嫌がいいと思ってるでしょう」
「まぁ、うん」
「当たってるところが腹立たしいよ」
「それは良かった」
窓の外では煩いくらいに蝉が鳴いていた。駐車場の向こうには逃げ水が水溜りを作っていた。

美術室の窓には君が「この部屋、あんまりに殺風景だから」実家から持ってきて吊るした風鈴が風に揺れていた。

 

「でも、もし来年も祝ってくれるなら、プレゼントは私のことを描いた絵がいいな」


「絵?」


「そう。今の私を君の手で絵の中に閉じ込めておいて欲しいの」

 

いつも僕の目を痛いくらい真っ直ぐに見て話をする君が、珍しく窓の外を見ながら話をしていたことを妙に覚えている。


「…わかった、約束するよ。来年の誕生日までに君の絵を描く」
「楽しみにしてるね」
「ああ」
「そうだ、ゆびきりげんまんしようよ」差し出した僕の小指と彼女の小指が絡み合う。

 

ゆびきりげんまん うそついたら はりせんぼんのーます

 

                                ◆

 

僕はきっと彼女のことが好きだったのだと思う。


もう四年も前のことだ。次の春、僕は北海道の大学へ、彼女は東京の大学へ進学して、しばらくは手紙をやりとりしていたけど、しばらくして僕が返事を書かなくなった。

そもそも彼女と僕の道はあの雨やどりがなければ交わらないはずの道だったのだし、何より僕らの関係を支えていたのはあの美術室のような気がした。きっと彼女には立派な彼氏ができて、夢だった素敵なお嫁さんにだってなれるだろう。僕は彼女の足枷になりたくはなかった。だから手紙を書くのをやめた。友人たちには文句を言われたけれど、二十歳の同窓会も欠席した。

 

今回こうして四年ぶりに就職の報告をしに高校へ顔を出した。帰る頃になって雨が降ってきたので、雨宿りついでに立ち寄った古巣の美術室。そこで、あの頃と同じように鳴く君の吊るした風鈴の音を聞いて、不意にあの日の約束とゆびきりで触れた君の細い小指を思い出した。結局あの時以外、手をつなぐこともないまま、僕らは別の道へ進んだ。
ふと思い立って探してみると、やはり、書きかけのまま美術倉庫に置いていったあの頃の絵はそのまま残っていた。スケッチブックをパラパラとめくると一枚写真が滑り落ちた。彼女を描くために使おうと思って撮った、彼女が椅子に座って窓の外を眺めている写真だ。


写真の裏を見ると、見慣れた女の子らしい丸文字でこう書いてあった。


「うそつき」

 

そして僕は知る。自分の愚かしさを。あの気持ちを一方通行だと勝手に思い込んで、突き放したのは、僕の方だ。

 


外の雨はますます強く、激しくなっていた。

 

 

 

 

 

 

「凄い雨」


あの頃と変わらない声が僕に話しかける。振り向くとそこに君がいた。

 

「……そうだね」
沈黙と気まずさが美術室に立ち込める。


「……針千本、飲んでね」
君はもう、あの頃のようには僕の目を見て話してはくれない。
「……その」
「……私のこと嫌いになったの?」


静かな声で彼女が尋ねる。
「違う」
彼女の声を遮るように僕は口を開く。
「許してもらえるとは思わないけど、本当にその、悪かった」


「……ないと……許さないから」
「え?」
「ちゃんと約束果たしてくれないと許さないから」
キッと君が僕を睨む。強気な君の涙を僕はその時初めて見た。その泣き顔を綺麗だと思うとともに、僕の独りよがりな理屈がいかに彼女を傷つけたか、思い知った。


「本当に、悪かった。今年の誕生日に間に合わせるから、許してほしい」

そういった途端、柔らかな暖かさを感じた。君は僕の胸に顔を埋めて、外の雨に負けないくらい、激しく泣いていた。僕に君を抱きしめ返す資格はあるのだろうか?僕は少し躊躇って、それでも二度と離さないようにと強く君を抱きしめた。

 

雨はまだ、止みそうにも無かった。


                             ◆

 

手紙を返さなかった理由を話して泣きやまないままの彼女に怒られて、何度か謝った頃には、雨も涙も怒りもある程度止んでいた。

 

「……そういえば、どうして高校に?」
夕日が差し込む美術室で君に尋ねてみる。
「四年生だから教育実習」
「あぁ、そうか。先生になるって言ってたもんな」
「君は、なんでここに?」
「就職が決まったから、報告に」
「そっか、おめでとう」
「ありがとう」

 


先ほどの刺さるような沈黙とは異なる、柔らかな静けさが僕らを包む。

 


「あの、その…彼女とかできた?」

 

君が遠慮がちにそう尋ねる。

 

「生憎と四年間一人もできなかった」


そう返すと、俯いた君の口角がちょっと上がる。顔が赤いのはきっと夕焼けのせいだけじゃないんだろう。


「そっ…か……あのね、私の本当の将来の夢、まだ叶ってないよ」

 

そう言って君が目を閉じる。夕日に照らされた僕らの二つの影が一つに繋がる。

 

 

窓際の風鈴が僕らを祝福するように鳴いていた。