完璧な日曜日

目が覚めた時、完璧な日曜日のお膳立てが整っていることに気がついた。

洗濯は一昨日したばかりだし、掃除機は昨日かけた。何より布団に包まっていた僕を優しく起こした午前10時の緑の風と黄色の日差しが僕にそれを告げていた。

大きく伸びをして布団を這い出る。顔を洗って寝癖を治す。パジャマを脱ぎ捨てて白のロングTシャツと黒のジーンズに着替える。誰に会うわけでもないけれど、しっかりと目を覚まさないで過ごすのは、完璧な日曜日に似つかわしくないように思えた。

 

          ◇

 

朝食を食べるにはあまりに遅かったのでブランチを食べることにした。「ブランチ」なんて休日的な響きの言葉だろうか?

いつか買ってそのままにしていたホットケーキミックスを引っ張り出してボウルに卵と牛乳を入れかき混ぜる。そこにホットケーキミックスを加えると菜の花色の海に白い島が浮かんだ。ダマがなくなるでかき混ぜた生地をお玉を使ってフライパンに落とす。プツプツと気泡が弾けるに従って甘い匂いが鼻腔をくすぐる。

世の中には幸せを内包した食べ物があって、ホットケーキは間違いなくその一つだ。他にはふわふわオムライスやタコの形に切られたウインナーや柔らかな桃も幸せの味がすると僕は思う。

こんがりと狐色に焼きあがったホットケーキを口に運ぶ。一枚目はバターで。二枚目はメープルシロップをかけて。

 

食べ終わった皿を片付けて、手挽きのコーヒーミルを棚から下ろす。自分でコーヒーを挽くのは少し手間だけれど、僕はその手間を愛する。それは音楽をわざわざレコードやカセットテープで聞くことやナイフで鉛筆を削ることと同じような楽しみであり、贅沢だ。

 

コーヒーを飲みながら窓際のベットに座って買ったままになっていた古い小説を読む。夏休みに田舎町を訪れた少年が小さな冒険を越えて少し大人になる話だった。プロットに目新しいところは無かったけれど、ただ夏の描写が美しかった。夕立に煙る町も、人ではない何かが紛れ込んでいそうな夏祭りも、セミが喚くうだるような暑さも、そこにあった。

この街にまだ夏は来ない。けれど、もしかしたら、僕がその足音を聴き逃しているだけなのかもしれない。そんな気がした。

 

本を読み終わると午後3時を半分以上回っていた。完璧な日曜日の夕方に、何が必要だろう?ぼんやりと考えていると、ふと近くに銭湯があったことに思い当たった。駅に行くときに何度か見かけていたけれど、まだ一度も入ったことはなかった。

大きな風呂、帰り道の夕焼け、ついでにビールなんかも買って帰ろう。

 

         ◇

思っていたよりもずっと大きな浴場は貸し切り状態だった。はじめて入った銭湯は僕が思い描いていたとおり壁に大きな富士の絵が書いてあった。何かで読んだことがあるけれど、銭湯の富士の絵を描く職人は日本に三人しかいないらしい。いつまで、この景色は日本人の「原風景」の一つで有り続けられるだろうか。もし、天国があるのなら人々から忘れられたいつかの原風景のための天国があったらいい、僕はそう思う。 

風呂に入っていると何かに許されているような気分になる。僕の輪郭が溶けて、お湯と混ざっていくのを感じた。

 

          ◇

風呂を上がって今時絶滅危惧種になった瓶の牛乳を飲み終わって外に出ると、すっかり街は夕焼けに染まっていた。槇原敬之の「The Average man keeps walking」を口ずさみながら帰る。いつだったかラジオで聞いて以来、なんとなく忘れられなくて、ずっと好きな曲だ。僕はこの曲より日曜日の夕暮れにふさわしい曲をあれから何年もたった今もまだ、見つけられずにいる。

          ◇

スーパーに寄って缶ビール二本と焼き鳥とカツ丼を買った。

家に帰って、七時からのバラエティ番組を見ながらカツ丼を食べて、焼き鳥を肴にビールを飲んだ。初めて飲んだときは苦くて二度と飲まなくていいと思ったビールも、いつの間にか自分で買って飲むようになった。きっと僕はこうして少しずつ大人になっていくのだろう。もうすでに、高校生の僕が何を感じて生きていたのか、今の僕にはわからない。

 

テレビを消して、ベッドに寝転がってラジオを付ける。有名な洋楽がリクエストされて、それが流れる。あぁなんて言ったっけなこの曲、完璧な日曜日の終わりにはふさわしいアコースティックギターの弾き語りだった。

 

微睡みながら、心に広がる充足感を味わう。

 

「完璧な日曜日」は確かに世界に存在するのだ。僕はそれだけで満足だった。それがわかっていれば明日から再開する日常がどれほど酷いものでも、僕は世界を嫌わずに生きていける気がした。

 

ラジオから流れる弾き語りが終わるその前に、眠りに落ちた僕の完璧な日曜日は終わった。