夜空一杯の星を集めて

ひどく雨が降っていた。春なのに、すごく寒かった。
透明なビニール越しに見える滲んだ街明かりがひどく昔に忘れられた宝石箱のように光っていた。

ずっと好きだった女の子に思いを伝えようとした矢先の出来事だった。
彼女は去年からのクラスメイトで、今年も幸運なことに同じクラスになれた。
二人とも本が好きで、良く休み時間や放課後に自分の好みの作品について語り合った。話が合うということも、もちろんあったけれど、それよりも事あるごとに恥ずかしそうに笑うその顔がどうしようもなく好きだった。 
彼氏がいるなんて、そんな素振りは少しも見せなかったのに。僕と同じ紺色の制服を着た、見しらぬ男と手を繋いで、僕の大好きなはにかんだような笑顔を浮かべながら君は雨に煙る街を歩いていった。

消えてしまいたかった。雨に溶けて汚い泥水と混ざって排水口に流れ込んで、見たことのない道を通って遠く遠くの海にまで運んでほしかった。

街を歩く僕以外のすべての人が幸せに見える。信号待ちをするカップルも、母親と手を繋いで歩く小さな女の子も、誰かと親しげに電話をするサラリーマンも。

相手の男に妬ましさを覚えなかったといえば嘘になるけれど、彼女があんなに幸せそうな笑顔を向けるのだから、きっと素敵な人なのだろうと思う。そう思うと少し気が楽だった。けれど、彼のその素敵さがどんな素敵さか、僕はこれっぽっちも知りたくはなかった。

誰も知らないような深い森の奥に独りで取り残された言葉のように僕は震えていた。
聞こえてくるのは、雨の音と車が水しぶきを巻き上げる音だけ。

…本当にそれだけだろうか?それらの静かな音の暴力の中に何か意図を持ったメロディーが混じっていることに僕は気がついた。
それはピアノの音だった。
ピアノという楽器について僕は詳しいことはわからないし弾くことももちろんできない。それでも僕はあのどこか郷愁の念のようなものを含んだ音が好きだった。もし、雨に混じっていたのがビオラの音だったとしたら、僕がその音に気がつくことは無かっただろう。もちろん、ビオラに何かの恨みがあるわけではないけれど。

なんとなく気になってその小さな音を追いかけてみる。
それは今まで何度も通っていたのに、その存在にすら気が付いていなかった細い路地の奥から聞こえているように思えた。

やっと一人通れるほどの薄暗く細い路地を進んでいくと、小さな赤い屋根に古ぼけた焦げ茶色の木のドアが付いた一軒家がポツンと立っていた。ピアノの音はさっきよりもずいぶんしっかりと聞こえてくる。
導かれるようにしてその焦げ茶色のドアに手をかけると、その戸はまるで僕が来るのを待っていたかのように開いた。

家の中では小さな白のテーブルと大きな黒のグランドピアノ、そして壁一面の本棚が橙色の明かりに照らされていた。
ピアノを弾いていたのは、5月の空色のドレスを着た、僕よりも少し年下の女の子だった。女の子が音を奏でるたびに、高い位置で結んだ細いポニーテルが楽しげに揺れていた。

ドアの横には、僕のために黄緑色の木製のチェアが一脚だけ、ポツンと置いてあった。
その椅子に座り、ピアノの音に耳を澄ませる。題名はわからなかったけれど、その曲は満天の星を湛えた深い紫の夜空を思わせた。
こんなにきれいな曲を弾く女の子がどんな子なのか気になったけれど、なんとなく、彼女の顔を見てはいけないような気がした。ただ白く細い指と、音に合わせて揺れる髪と、それに合わせて見え隠れする首筋だけで、その女の子は完結していた。

何か絶対的なものに赦されているという感覚に支配されて、僕はコーヒーに落とした2つ目の角砂糖のように夜空に溶けていった。

あの夜以降、赤い屋根の家を何度か訪れようとしたけれど、夜空を聞くことはできていない。