『「君の話」の話』

「三秋縋」という人は,僕にとって神様の一人みたいな作家だった。

「三日間の幸福」を読んだのは高校生のころだったと思う。あのころ(高校生がよく感じる)どこにも行けない・何者にもなることのできない閉塞感にとらわれていた僕はあの作品を読んで,「あぁ,世界をこんな風に見ても許されるんだ」と確かに救われたのだ。

 それはあの日の僕にとって,気が付かないうちに落ちてしまった深い深い井戸の底から見上げた遥かな青空と同じくらい特別な意味を持つ小さくも確かな道標だった。

 

「行き詰まりの不幸のどん底で,心から幸せになる二人の話」という彼の物語に共通するストーリーの大枠は今回の「君の話」でも用いられている。

この物語は「7月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」の物語であり「10月のよく晴れた朝に100パーセントの女の子を失うことについて」の物語だ。

僕らは誰だってほかの誰かのためだけの<ヒーロー/ヒロイン>になって,自分の生きていることの意味を噛み締めたいし,あなたがいてくれるだけで十分だよ,と言ってもらいたい。

この物語はそんな<ヒーロー/ヒロイン>になれなかった,正しい<ボーイミーツガール>を味わえなかった人に向けに調整された一つの作られた記憶,すなわち作中の表現を借りるならば「君の話」という<義憶>なのだと思う。(メタ的な視点でいえば,今までの彼の物語も全てある種の義憶であるといえる)

僕はそれこそ物語の持つ本質的な役割のひとつなのだと思う。救われなかった誰かを,出会えなかった女の子を,手に入らなかった青春を,すべてが終わってしまった後で救おうと,出会おうと,手に入れようと足掻くこと。それが僕が彼らから教えてもらった物語の意味だ。

 

「君の話」という<義憶>を入れられた後で僕らは,もしかしたら7歳の時に出会えたかもしれない,存在もしない幼馴染の姿を夏の小さな陽だまりの中に,遠くの花火の音の響きに,ふと耳にした「蛍の光」の旋律に探してしまうだろう。これは彼が僕らに仕掛けた一つの「マトリックス」を見た後に,世界のリアリティを信じられなくなったのと同様の呪いなのだ。

 

僕は今までも,これからも彼の世界で一番優しい嘘に騙され続けていたい。

 

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たった312ページのことだけれど,僕には幼馴染がいた