ピアニッシモ

 

「それ」に気が付いたのは三日前のことだった。

 

彼の机に置いてある灰皿に入れられた一本の細い吸い殻。私は彼がその銘柄を買ったことすらないことを知っている。そもそもそれは一般的には若い女性が吸う銘柄で、そのことが私の中の疑念を大きく育てた。

「それ」はいったいいつからそこに入っていたのだろうか?一週間前ほど前、吸い殻の山を見かねて私が灰皿を掃除したから、少なくともそれよりは後であるはずだ。

一度彼の不貞に対して疑念が沸き起こると、途端に今までなんとも思っていなかった小さなことが気になりだした。

 

メールの返信はあるのに、電話に出ないことがある。今までは無造作に置きっぱなしにしていた携帯電話を常にポケットに入れている。急に新しい靴を買った。抱き合ったときに匂いが変わった気がする。先週末は突然に用事が入った。腰遣いが変わった気がする。


もしかしたら、小さな偶然が積み重なっただけなのかもしれない。それでも、人は偶然の中に関連性を見出して、ありもしない意図を見出そうとする悲しい獣だ。

彼に問いただせば一息に解決するのかもしれないが、私はそれをしなかった。それをしてしまうことで今までの楽しかった時間を壊してしまうのが怖かったのかもしれないし、浮気されているということを明らかにしてしまうことで私の中のささやかだけれど確かな誇りが傷つくのを恐れたのかもしれない。

 

ベッドに座り込んで一向に鳴らない携帯電話を眺めていると、外で雨音がするのに気が付いた。薄いカーテンを開けると秋の冷たい雨が町を静かに湿らせているのが見えた。
 
ふと思い立って私は部屋着のスウェットを脱いだ。露出した肌に湿気が染みてくるような気がした。買ったころよりも幾分か太もものところがきつくなった色あせた紺のジーンズに足を通し、上には古着屋で買った濃いグレーのパーカーを羽織る。部屋の隅に山になっていた洗濯物の山から適当に選び出した靴下を履いて、財布と携帯電話だけをもってスニーカーに足を入れる。飲み会帰りにお気に入りの傘と取り違えてきた誰のものかもわからない傘を開き私は玄関を出た。

 

            ◇

 

私はコンビニで十本入りの「それ」を買った。それが見て見ぬ振りも、問いただすこともできない、私にできる精一杯の抵抗だった。彼の灰皿に私自身の吸った「それ」を混ぜることで、なにも無かったことにしよう。そして、何事もなかったように私たちは付き合い続けよう。変わってしまった彼の香りを煙草の煙でごまかして。