楽器

 それはまるで交通事故のように、ある日突然に訪れた。 
 上手く楽器が弾けなくなった。指の動きがぎこちない、音がたどたどしい。ベースがザラザラとした手触りの異質なものに感じられた。
 幸いにしてバンドの仲間にはまだ気が付かれていないようだった。練習時間の間、誰かに自分の不調が気が付かれはしないかとそればかりが気になって自分が今何の音を出しているのか、何の曲を演奏しているのかわからなかった。

           ◇

 外に出るとすっかり日が暮れていた。首筋から入り込む夜風が冷たかった。一体私に何が起こったのだろうか、今まで一度だって弾けなくなるなんてことはなかったのに。思ったように音が出せなくなって早三日、事態は少しも好転していなかった。週末には小さなものではあるるけどライブもあるのに。このままではまずい。
 バンドの仲間たちに相談しようかとも思ったが、楽しそうに週末の話をする彼女たちの顔を見ると、余計な心配をかけることがひどく罪深いことのように思えた。結局何も打ち明けられないまま、今日も私は独り、とぼとぼと暗い夜道を歩いていた。
 
 ぽつんと一本だけ立つ寂しげな電灯の光が私を照らしたとき、反対側から歩いてきていた背の高い男が急に立ちどまるのが視界の端に映った。ちょっと怖いな。もっと明るい道を選べば良かった。と私は少し後悔した時、男が私に声をかけてきた。

「……もしかして佐々木先輩じゃないですか?俺のこと覚えてますか、高校のジャズ研で一緒だった宮内です」

 

男の顔をよく見てみる。あぁ確かに、覚えている。それはアルトサックスの一つ下の後輩だった。
「うん、覚えてる。大学、どこに行ったんだっけか。」
俺は先輩ほど頭良くなかったんで……そう前置きして彼が口にしたのはこの近くの公立大学の名前だった。私も学祭で行ったことがある。
「先輩は大学の帰りですか?俺この辺に住んでるんですよ」
よく見ると彼はスウェット姿にコンビニの袋をぶら下げている。きっと晩御飯でも買ってきたのだろう。
「それ背負ってるってことは、先輩もまだ音楽やってるんですね。こんど聞かせてくださいよ。先輩の演奏、格好良くて好きだったんですよ。」
私はあいまいな返事を返す。私の演奏が好きだったという彼に、今の不格好な演奏を聞かせたら、がっかりされるだろう。

……それとも、弾けていたころの私が好きだという彼ならば、今の私の演奏があの頃とどう違ってしまったのか、わかるだろうか。そんな考えがふと頭をよぎった。きっと私は誰かに悩みを聞いて欲しかったのだろう。
「ねぇ、この後時間ある?」
気が付けばそう口にしていた。

          ◇

彼の部屋は本当にすぐ近くだった。私が事情を話すと、
「実際に演奏してみてほしい。」
と言われた。近所から苦情は来ないのか?と尋ねると
「俺もいつも練習してますけど、九時前くらいまではなんも言われたことないですよ、あんまり人が住んでないボロアパートなんで」
彼はそう言って笑った。
彼の前で弾いてみてもやはりぎこちない演奏だったと思う。途中からあまりにも下手でなんだか泣きたくなってしまった。
彼も渋い顔をしていた。
「うーん……なんていうか、楽器と体が離れてるって感じがします。うまく言えないんですけど……」
わかったようなわからないようなことを言って彼は黙りこくってしまった。

気まずい沈黙が部屋を満たしていく。温い生ビールだけが減っていく。
「……なんで弾けなくなっちゃったのかな。今まではこんなこと一度もなかったのに。」
飲みすぎたのかもしれない。気が付けば私は泣き出していた。慌てる彼を横目に、申し訳ないと思いながらも涙が流れるの止めることはできなかった。

「ごめんね、久しぶりに会ったのに暗くしちゃって。私、もう帰るね。」
「いや、全然迷惑なんかじゃないですよ。……俺は、今でも先輩の音楽が好きですよ。どんなにうまく弾けなくても不格好でも先輩の音楽が好きです。」

耐えきれなくなって私は玄関まで見送りに来てくれていた彼の胸に寄りかかる。
彼のスウェットの胸部分に小さなシミができて少しずつ広がっていった。彼は私が落ち着くまでの間背中を優しくなで続けてくれていた。

           ◇

十二時を過ぎた夜の部屋で彼は優しくあやすように私の頭をなでてくれた。どちらからともなく唇を重ねる。シャンプーの香りの間から薫る彼の香りが私の心の柔らかい部分にそっと触れる。アルトサックスを演奏していた大きな手が身体の上を走る。彼が触れるところすべて、小さな電気が走ったみたいにチリチリとして気持ちがいい。彼は私の気持ちいいところをすべて知っているのかもしれない。そんな風にも思えた。
 いれてもいい?と彼が訪ねてくる。その瞳が御預けを食らった犬のように見えて私は思わず小さく笑ってしまう。
 突かれるたび、触れられるたびに自分でも恥ずかしくなるようないやらしくて色っぽい声が出る。あぁ、そうか。私は楽器なんだ。と思う。彼の身体全部を使って演奏される楽器。きっと上手く演奏された楽器たちも今の私と同じような、真っ白な光の中を泳ぐような気持ちよさを味わっているのだろう。いままでしたどんな相手よりも、彼に演奏されるのは気持ちがよかった。
 私は私の楽器に謝りたくなった。ごめんね、私は自分がうまく弾こうと力むばかりであなたのことなんて全然考えてなかった。ちゃんとあなたの声を聴けばよかった。
 
彼の腰の動きが速くなって、おなかの中が圧迫される。最後のフレーズを演奏し終えて私の中で果てた彼が体重を掛けてくる。私は彼の男にしておくのはもったいないくらい柔らかな黒い髪を撫でる。さっき彼が泣いていた私にしてくれたみたいに。

            ◇

あの日以来、彼には会っていない。アドレスは知っていたがなんとなく気恥ずかしくて連絡できなかった。彼からも連絡は来ていない。
 私はステージでベースを弾きながらこの間の彼との行為を思い出していた。楽器と身体がバラバラになるような感覚はだんだんと薄くなって、ベースは私の手にしっとりとした質感を持って収まってくれている。この子は、あの日の私のように気持ちよく演奏されているだろうか。
 セットリスト最後の曲を演奏し終えると会場はあたたかな拍手に包まれた。
 
 片づけと挨拶を終えてハウスの外に出ようとすると、携帯電話が小さく震えた。
「今日のライブ良かったです。俺が好きだった今までの先輩の演奏よりも今日の演奏のほうが素敵でした。お疲れさまでした。」
 宮内からだった。来るなら言ってくれればよかったのに。メールじゃなくて直接会ってほめてくれればいいのに。
私はそこで画面の外にメールが続いていることに気が付く。
「もしこの後暇だったら、飲みに行きましょう。待ってます。」
私は携帯を閉じて外へ駆け出す。夜の風も、少しも寒くなかった。