Eye to eye

「君ってさ話をするとき人の目を見ないよね。」
 彼女のそんな言葉がきっかけだった。昔から人の目を見るのがどうにも苦手だった。目は口ほどにものをいう。その通りだと俺は思う。目という小さな窓を通して、俺という人間の底。ひどく浅い底を見透かされてしまうようなそんな気がしていた。
 

 

「そんなことないよ。俺もたまには目を見てる。」
 サークルの同期である彼女は、よく「目を合わせる」女だった。明るい雰囲気で誰とでもすぐに打ち解ける。そういう女だった。
「嘘だぁ。だって私出会って二年経つけど目合ったことないよ。」
「本当だって。」
「嘘だよ。だって今だって全然見てないじゃん。」
そう言って彼女は俺と目を合わせようとしてくる。俺は夕焼け色に染まる窓の外の街を眺めるフリをしながらそれを見て見ぬふりをしていた。
「面接とか、どうしてるの?就活してたよね、確か。」
「なんとなく目のあたり見てるよ。それで何とかなってるんだ。」
ふぅんと彼女は面白くなさげに呟く。丸椅子の上で爪をいじる彼女の姿が視界の端に映った。
 
 来週の文化祭で演奏をして俺たちはぼちぼちサークルも引退だ。彼女とこうして会うこともたぶんなくなるのだろう。ふとそんなことを思った。
「あ、じゃあさ、ゲームしようよ。」
しばらくして彼女がそう提案してくる。
「ゲーム?」
「うん。」
「そう、名付けて『目を逸らしたら負けゲーム』ルールは簡単。見つめあってて目を逸らした方の負け。負けた方はジュースをおごる。どう?」

 彼女はネーミングセンスがなかった。いつだったか写真を見せてもらった、彼女の実家の犬はポチという名前だったような気がする。
「まぁ、いいよ。俺だって目を合わせられるところ見せてやるよ。」
 椅子をもう一脚出して彼女と向かい合わせに座る。俺の方が少し座高が高くて、彼女が俺を見上げる形になる。


 彼女の大きな黒目をじっと見つめる。「夜のような」というのは瞳の美しさを形容するのによく使われるが、彼女のそれは夜というよりは深海の黒さに近いように思えた。人は見たこともないものを比喩に用いる。俺だって、本当の深海の黒さを知っているわけではない。
 俺は「今見ているのは人の目ではない」と必死に思い込んで、何とか目を合わせていた。別にジュースをおごるのが嫌だったわけではない。ただ勝負に負けるのはなんとなく癪だった。それだけだ。
 
 彼女は口元を緩ませていたが、決して視線は外さなかった。
「なに笑ってんだよ。」
「別に。君と目を合わせてるのが珍しくてなんか笑っちゃっただけ。」
 日が暮れて部屋の中はだんだんと暗くなってくる。暗くなれば目線を外してもバレないと思っていたけれど、人間の目は案外優秀らしい。徐々に訪れる暗闇に静かに順応していった。
「暗くなってきたね、見えなくなってきちゃった」
 そう言って彼女は不意に顔を近づけてくる。暗くて距離感を掴みかねているのか、俺の鼻先を体温がくすぐる。
 こういうこいつの不用心さ、軽々しさが俺は本当のことを言うと嫌いだった。本人に悪気はないのだろうけれど、不意に異性を意識させてくるところが嫌いだった。

 

 不意に脇腹をくすぐられて危うく目を逸らしそうになった。
「おい、触るのは反則だろ。」
「そんなことはルールで決めてません。あ、いま目逸らさなかった?」
「逸らしてねえよ。」
 手のひらから彼女の体温が伝わってくる。俺もくすぐり返してやろうかと思ったけれど、それこそ気まずさで自分から目を逸らしてしまいそうだったのでやめておいた。
 たぶん俺が笑わないせいで、彼女は意地になって目を合わせたままで俺をくすぐってくる。
 前のめりになりすぎて、椅子ごと彼女が俺に倒れこんでくる。俺たち二人だけしかいないくらい教室に大きな音が響いた。
 背中が痛かったが、そんなことよりも胸の上に当たる彼女の感触の方がずっと気になった。
身体を起こした彼女の顔が目の前にあって、この場合先に目を逸らしたのはどっちだったのかなぁ。まだ逸らしてないしドローかな。なんてことを考えていると彼女の小さな手に俺の視界がさえぎられる。おいおいこれじゃ俺の負けか?と思う間もなく俺の唇に湿った柔らかなものがそっと押し付けられて俺はすべての思考を放棄してその柔らかさを受け入れた。
 
 手を外された俺が見たのは俺の上で真っ赤になっている彼女だった。彼女は少し潤んだ瞳で俺を見つめてすっと目を閉じ顎を少し上げた。
 俺は一体どうするべきなんだろう。
 俺はこいつが嫌いだった。 本人に悪気はないのだろうけれど、不意に異性を意識させてくるところが嫌いだった。

 

 本当に?

 

 俺が嫌いだったのは、多分自分自身だ。友達にあさましくも劣情を抱いて、異性を感じる自分自身。俺は彼女を通して自分を嫌っていたのだ。俺は誰かに瞳を通して心の中を見られるのが怖いんじゃなかった。俺は、目を合わせたとき、「相手の瞳の中に俺の嫌いな俺」を見るのが嫌だったのだ。

 

 俺は今度は自分から目を閉じたままの彼女にキスをする。
 いままで目を逸らし続けてきた好意と俺はやっと見つめ合って、目を離さないことに決めた。


 長い口づけの後で俺は彼女に告げた。
「俺の負けでいいから、ジュースでも買って一緒に帰ろう」と。