海獣の子供を見た感想

海獣の子供https://www.kaijunokodomo.com/sp/

(原作:五十嵐大介 監督:渡辺歩)が6/7に公開となった。


せっかく見てきたので、感想と妄想を書きなぐっておこうと思う。たまには映画サークルっぽい文章を書いてもバチは当たるまい。ちなみに原作は未読なので、「漫画の映画化作品」としてではなく「一つのアニメ映画」としての感想になることをお許し願いたい。

さて、僕がこの映画を見て一番最初に感じたのは「世間での受け取られ方がもったいないな」ということだ。


近年の大ヒットした新海誠監督のアニメ映画「君の名は。」の影響もあり、アニメ映画に対して「ストーリーのわかりやすさ」みたいなものを要求するコンテクストがあるように感じる。その文脈の下で鑑賞した時、この「海獣の子供」という映画は「分かりにくい映画」として評価されてしまうだろう。

この映画の魅力は「わかりやすさ」ではなく、「強いメッセージ性」と「映像表現」にあると僕は感じた。

この映画の主題は「生命賛歌」と「子離れ」の二つではないかと思う。

 

主人公琉花は映画を通して初潮から妊娠・出産までをメタファーとして経験していく。
主人公である女子中学生の少し上手くいかない生活を描く序盤で印象的なのは「赤」だ。赤信号、真っ赤な橋、赤い車、赤い傘、連なる神社の赤鳥居、そして、膝を擦りむいたことで流れる赤い血液。
これらは海を描く上で必然的に青の多くなるこの映画における映像上のアクセントであるとともに、初潮の隠喩であると言えるであろう。
(「赤を見りゃなんでも血のメタファーかよ」とは僕も思うが…)

 

そして、琉花は新江ノ島水族館ジュゴンに育てられたという少年「海」と「空」に出会う。ここで注目するべきは「海」と「空」二人が果たす役割の違いだ。
劇中「海」は琉花の「息子」としての役割、「空」は琉花の「夫」、「海」の「父親」としての役割を果たす。(事実、琉花は「海」に対してごく母性的なふるまいをする。子守唄を歌ったり、「守ってあげたい」という旨の発言をしたり)

 

「空」は「海」のために口づけで琉花に「隕石」を託し姿を消す。劇中で「隕石」に関しては明確に「精子」を意味すると言及されている以上、口づけが性行為を示すことは疑いようがない。


中盤での大魚が轟音と共に去来し暗転するシーンなどを通し琉花は(もちろん疑似的に)受精し妊娠する。

 

物語終盤、「祭り」を通して琉花は「海」の出産を行い「命をつなぐ」という好意を儀式的に完了する。この映画における琉花は「祭り」のゲストとして扱われ、超自然的な事象を体験しその目を通してそれを観客に伝えるいわば「巫女」的な役割であると言えるだろう。

 

そして「祭り」が終わり、「海」は旅立って行ってしまう。(これが単純に成長しての親離れであるのか、死別なのかは明示されていないように僕には思える。)一度は「私もずっとあなたと一緒にいたい」という琉花だが、最後にはその別れを前向きに受け入れる。

このメタフォリカルな生命の誕生から親離れまでの過程を縦の大きな柱とし、「生命賛歌」「琉花の現実における家族の再生」「達観した様子の登場人物の人生観」が度々差し込まれることでこの作品は複合的で複雑なストーリー展開をする。


「映像表現」については(ド素人の僕が言及するのも恥ずかしいが)アニメ―ションでしかできない表現に対しての誠実さ、アニメでこの作品を取る意味を深く深く追求しているように感じる。ドでかいクジラが海の底から登ってくるシーンは畏怖を感じずにはいられない。ちょっと柔らかくした「二〇〇一年宇宙の旅」的なシーンもあり、非常に美しく、映画の可能性を示してくれる。

 

米津玄師の「海の幽霊」は映画の内容にマッチした名タイアップだし、エンドロール後の映像のおかげで視聴後の後味も爽やかだった。声優陣も(原作漫画を読んでいたらまた変わるのかもしれないが)不自然さはなくストレスなく見られた。

心の底から「受け取られ方がもったいないなぁ」と思う。僕の適当な妄想・感想では全く魅力を伝えきれないが、ぜひ劇場の大画面で見てほしいアニメ映画だった。