セカイ系にできることはまだあるかい?

天気の子を見たので感想をば……

 

 


セカイ系というジャンルがある。

「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと 」(Wikipedia

という東らによる定義が一般的な定義に当たるだろうか。人によっては作品名を羅列される方がしっくりとくる概念かもしれない。

 

 


今回見てきた新海誠監督最新作「天気の子」は見る前から「2000年代のエロゲ」「綾波を助けられた世界線エヴァQ」「超オーソドックスなセカイ系」といった評判を耳にしていたが、上手い喩えだと思う。

きわめて少年的な閉塞感を抱いた少年が、紆余曲折を経てボーイミーツガールを果たし、少女と親交を深めるも、少女は「世界の平穏」と引き換えに手の届かない場所へと行ってしまい、少年は無力感を噛みしめる。という「天気の子」中盤部分までは本当にかつて多くのセカイ系で描かれた展開であり、新海監督の「ほしのこえ」を思わせる。

だが、「天気の子」において主人公帆高は「世界のために自分の好きな女の子が犠牲になること」を良しとしない。法を犯し、恩人に銃を向け、世界を壊してでも君が欲しいと、彼岸までヒロインを迎えに行く。

前作「君の名は。」でも本作「天気の子」でも、主人公は自分の意思で世界を選ぼうとする、かつ選ぶことができる。という点において、かつて「セカイ系」と呼ばれてきた作品とは異なるように思う
。(前作は「世界も女の子も」救えたのに対し、今作は「世界か女の子、どちらか」しか救えないという違いはあるが。)この違いが時代性なのか、それとも監督の持つメッセージ性なのか、まぁ、どちらもかもあるのかもしれない。

本作の終盤「世界はどうせもともと狂ってる」「世界はもとの形に戻っただけ」と日常を崩壊させた責任を負うことはない、と遠回しに大人たちが慰めるのにも関わらず、主人公帆高は「世界は最初から狂っていたわけじゃない。僕たちが変えたんだ。 」とその責任を負おうとする。それはその実感こそ日常を崩壊させてしまった罪の意識であると同時に、世界を変えることができた。目の前の女の子を自分の意志で守れた。その勲章に他ならないからではないだろうか。


この2020年にあえてセカイ系の系譜に連なる物語を生み出したこと。これにより新海監督は「セカイ系にできることはまだあるかい?」と問いかけているように感じる。全盛期を過ぎ、評論の場でも以前ほど取り上げられなくなったセカイ系。その存在意義や普遍性を問うことこそ、この作品の担っている意味なのではないかと僕は思う。