バンパイアの恋人

 
 僕の恋人はバンパイアだ。と言っても人間とのクォーターだという彼女は、永遠の命も持っていないし、日光に当たっても灰になったりはしない。たまに吸血鬼の片鱗をのぞかせることはあるけれど、概ねにおいて彼女は「普通の」可愛い女の子だった。僕だって言われるまで彼女にバンパイアの血が流れていると気が付かなかった。

 「気持ちは嬉しいんだけど……でも、きっとわたし、君に迷惑かけちゃうわ。わたし君が思ってるよりずっと面倒くさい女の子だよ。」

 恋人になってほしいと彼女に伝えたとき、彼女は僕にそう言った。その時はその意味がよくわかっていなかった。それは言葉通り、重かったり、わがままだったり、気分屋だったり、そういう面倒くささのことを言っているのだと思った。

 「いいよ、君がどんな面倒くさい女の子だったとしても、僕はそれも含めて君のこと好きになれると思うし、好きになりたいと思う。だから、ダメかな。」

 そんな風に僕は彼女をうまく言いくるめた。色白の頬を赤く染めて「……それじゃあ、不束者ですが、 お願いします」 そう言って小さく頭を下げた彼女のことがたまらなく愛おしかったことを覚えている。

 

           ◇

 

 実際、付き合っていく上で彼女がバンパイアであることはあんまり問題ではなかった。

 長い時間日光を浴びていると皮膚が赤く焼けてしまうから、デートは大体天気の悪い日か、夕方からだった。僕は基本的にインドア派で、どこかに出かていくよりはむしろ部屋で二人で映画を見たり、 音楽を聴いたりしている方が好きだったから、 天気のいい日曜日に出かけられなくても全然かまわなかった。

 彼女は朝がめっぽう弱くて、大学の一限目に出るのにも毎回苦労していた。朝から授業のある前の日にはいつも僕の部屋に泊まりに来ていた。寝起きで機嫌の悪い彼女を布団から引っ張りだすのは、なかなか根性のいる作業だった。

 「まだ八時じゃん。あと十分は眠れたのに。」

 「あのさ、僕は今日は授業昼からなんだよ。『 起こしてくれてありがとう』じゃないのか?」

 「……ありがとう。」

 毎度のようにそんなやり取りをして渋々布団から出ると、彼女は着替えを始める。日光が差し込まないように分厚いカーテンを取り付けた薄暗い部屋の中で、彼女が下着姿になる。薄く光を放っているのではないかと思うほど白い肌に、お気に入りだと言っていた真っ赤なブラジャーとパンツが映える。まるでイチゴの乗ったショートケーキだな。そんなことを僕は眠い頭でぼんやりと考えた。

 「やっぱりさぼってもう一眠りしちゃおっかな。」

 ばっちり化粧まで終えて、そんな気はさらさらない癖に彼女はそう言う。

 「はいはい行ってらっしゃい。俺の授業が終わったら連絡するよ。 」

 つれないなぁと口を尖らせる仕草がかわいらしい。 けれど以前一度、この表情に負けてキスをしたら結局そのまま一日僕まで学校をサボるハメになったので、それ以来朝のキスには気を付けている。隙あらば絡みつこうとする彼女の長い舌を何とか唇で塞いで玄関か ら送り出した。

 

         ◇

 

 基本的に彼女は人間と変わらなかった。そう、たまに吸血をしたがることを除けば。

 「嫌だったら全然断ってくれていいんだけど」

 はじめて僕が血を吸われた夜、ひどく申し訳なさそうに彼女は切り出した。

 「……血を吸わせてくれない?」

 そのころには彼女がバンパイアの血を引いていることは聞いていたのでそんなに驚きはしなかった。

 「いいけど、やっぱり吸いたくなるもんなの?」

 「うん、いつでもだれでもってわけじゃないんだけどね。」

 あとから聞いた話だと、吸血欲求に一番近いのは性欲らしい。君の血が吸いたくなるのは君のことが好きだからなんだよ? と僕の血で染まった唇を拭いながら彼女はそう言っていた。その微笑みがあんまりに艶やかで、 僕は彼女にもっと血を吸ってほしいと思った。

 はじめての吸血は少しだけ痛かった。 僕の鎖骨の少し上あたりに彼女が恐る恐るといった様子で柔らかな 唇をあてがう。私も直で人間から血を吸うのは初めてだから、 痛かったら言ってね。留め置きして、 尖った歯が僕の皮膚に当てられた。

 僕はといえば、間近で嗅いだ彼女の髪の毛のにおいにくらくらしていた。さっきまでしていたセックスでかいた汗のにおいと、女の子の匂いとシャンプーの匂いと他にもいろんな匂いが混ざって いて、それは僕を安心させると同時に興奮させた。さっき二回もしたのに。

 ぶちゅっと鈍い音がして、一瞬遅れて重い鈍器で激しく叩かれたような痛みが首筋に走る。思わず情けない声をあげそうになって、僕は慌てて自分の唇を強く噛む。自分の体内から血液が流れ出ていくのを感じた。一番近い感覚としては献血だろうか。しばらくすると、首筋の痛みが消えていて、得も言われぬ幸福感が胸に満ちてくる。それがバンパイアの持つ人を魅了する魔術的な魅力のせいなのか、それとも「捕食」されているという事実から目を逸らして、幸福な最期を迎えようとする被食者の脳の働きなのか、僕にはわからなかった。

 しばらく血を吸われて、だいぶくらくらし始めたころ、やっと彼女の口が離れた。傷口の血は止まっていて赤黒い所有印のようなキスマークだけが僕 の身体に残された。薄く血の混ざった唾液の糸を引きながら彼女の頭が僕から離れる。

 顔をあげた彼女は恍惚とした顔をして、強く噛みしめたせいで血が出ていた僕の唇にキスをした。むさぼられるような口づけの中で、僕の血はおいしかったかどうかが気になった。

 それから僕は度々彼女に血を吸われることになった。どうやら僕の血はバンパイアのお眼鏡にかなったらしかった。

 

 

         ◇

 

 彼女にはもう二週間も会っていなかった。最初は些細な口論だったように思う。だんだんとエスカレートして言わなくてもいいことまで言ってしまったせいでなんだか顔を合わせづらかった。いつの間にか首筋のキスマークも消えてしまった。彼女は朝の授業に出られているだろうか?僕以外の誰かの血を吸っているだろうか?僕から謝れば済むことなのかもしれないけれど、それはなぜだか負けた気がして連絡できなかった。

 飲み会帰りに、ほろ酔いのまま友人とラーメン屋に立ち寄る。

 「俺、ニンニクラーメン、チャーシュー抜きで。」

 酔っ払ってほんのり赤い顔の友人はいつも注文を決めるのがはやい 。

 「同じのにしようかな。」

 「あれ、お前の彼女ってニンニクの匂い駄目じゃなかった?」

 彼には付き合っているときの愚痴やら惚気やらをよく聞いてもらっていた。彼女にもあったことがある。人の恋人の苦手な食べ物まで覚えているなんて僕には無理だ。こいつの周りに人が絶えないのはこういう風に気が使えるのが理由なんだろうな、と思う。

 「いや、ちょっと喧嘩しちゃってさ。なんかしばらく会えそうもないから、別にいいかと思って。」

 僕がそう言うと、彼は珍しく眉を寄せて渋い顔をした。

 「そういうのって、俺はあんまりよくないと思うな。……なんていうかうまく言えないけどさ。 お前がここでニンニクを食べちゃったとしたら、それって相手を裏切ったような、そんな気がしないか?……いや変なこと言って悪い。忘れてくれ。」

 そういうものなのかもしれない。僕らが誰かと生きていくためにはほんの少しの思いやりとそれを忘れない努力が必要なのだろう。

 それはたぶん、本当に小さな思いやりで構わないのだ。バンパイアの恋人である僕が持つべき思いやりは、生活を彼女に合わせて夜型に変えるようなそれではなくて、彼女のためにニンニクを食べないみたいなほんの小さな思いやりなのだと思う。

 「……いや、なんとなく言いたいことはわかった。味噌ラーメンにするよ。 もちろんニンニクは抜きで。」

 ありがとう、と友人に告げてオーダーを取りに来てもらう。

 帰ったら、彼女に電話をしてみよう。夜更かしな彼女なら、 きっとまだ起きているはずだ。

僕はいつも彼女が噛み付く部分をそっと撫でてみる。 跡は無いのに、ほんの少しそこが疼いた。
 

或る11月

 僕は机に向かって手紙を書いている。下書きは必要なかった。何百回、何千回と書いた文章だ。一字一句まで完璧に記憶していた。11月30日、時計の短針が、午後十時を少し過ぎた場所を指している。窓の外からは風の音一つ聞こえてこない。今夜は新月だ。月の輝く音もしない。あと2時間もすれば、いつも通り、11 月1日がやってくる。12月1日は、永遠に訪れない。

 この街は、ずっと11月を繰り返し続けている。どれくらい長いこと繰り返しているのかはわからない。ただ僕らは決められたままに何回も何回も、同じ11月を過ごしている。例えば、明日は朝から小雨が降って、夕方ごろに止む。僕の母は美容院に行く。父はスーパーの屋上で子猫を轢きそうになる。朝食は卵かけご飯で、夕食はハンバーグ。5時32分ごろに宅急便が来る。すべてはひと月前の明日と同じだ。

 11月に捕らわれていることはみんな分かっている。けれど、特段それをどうこうするつもりは(僕も含めて)誰にも無い。そもそも、どうすれば12月が訪れるのかわからないし、街の外には出られないのだ。今迄と違うことをしてみようとしても、ごく小さな変化は起こせるが、最終的にはいつも通りの11月に収束してしまう。例えば僕は明日の朝、卵かけご飯を食べないこともできるが、11 月の中で僕は絶対に9回卵かけご飯を食べることになる。8回しか食べないことはできないし、10回以上食べることもできない。この街はそういう風にできている。

 

            ◇

 

 「そんなのってなんだか気に食わなくない?」 

 この街から抜け出すことを諦めていない、たった一人の例外は、そう言った。そのセリフを聞くのも、もう何百回目かだったのだとおもう。

 「でも、どうしようもないだろ。明日は11月13日で僕は電車を一本乗り過ごして帰りが遅くなる。君は夜に僕にメールをしてくる。そういう風になる。いつも通りだ。」

 僕のこのセリフもおそらく何百回目かだ。いつもだったら、君は「まぁ、そうなんだけどさ」と言って引き下がる。けれどあの日はそうじゃなかった。

 「……私は、もう嫌。あなたがそうやって『いつも通り決まったセリフで返せばいいや』と思って私の話を聞いているのも嫌。クリスマスがいつまでたっても来ないのも嫌。……ねえ、二人でここから逃げ出しちゃおうよ。二人でクリスマスを過ごしてみたいの。」

 僕が君のことをもっと真剣に考えていたら、僕らは二人で11月から抜け出せたのだろうか?今となってはわからない。確かなことは、次の日、僕は予定通り電車を乗り過ごし、君からメールは来なかったということだけだ。そうしてそのまま君はいなくなった。君はうまいことやったのだろう。君がいなくなったことに街は気が付かなかった。次の月初めから、「君が居たこと」だけが失われた11月が始まった。

 僕も何度か君のあとを追いかけて11月を抜け出そうとした。けれど、できなかった。君はどうやって抜け出したのかを僕に教えないうちにいなくなってしまった。卵かけご飯を月に9回食べるだけの生活が僕に残された。


            ◇

 

 君がいなくなってから何回かした後、僕は手紙を書き始めた。出す当てもない、引き出しの奥にしまい込まれるだけの手紙だ。それはこんな風に始まる。

『前略

 君は12月にたどり着けただろうか?君の事だから、なんだかんだ上手くやって今頃クリスマスや正月や、もしかすると夏くらいまで満喫しているころかもしれない。僕は今日も夏をモチーフにした音楽を聴いた。自分が実際に夏を過ごしたのが一体いつだったのか、そもそも、僕は本当に夏を過ごしたことがあるのかどうかすらも怪しいけれど(僕の記憶はもしかしたら作られたもので、僕は22歳の11月しか過ごしたことがないのかもしれない)僕はやっぱり夏が好きだ。青い海、白い雲、肌を焼く太陽の光。どれもこれも懐かしい。

 君がいなくなってからもここは11月のままだ。何度も何度も同じような日々を過ごしている。8日には僕はちょっとした怪我をしたし、22日ごろには雪が降る。積もらないとわかってはいるけれど、まあ、結構煩わしい。今日は月末で、この手紙も明日にはなかったことになってしまう。ひどい話だ。

 君が最後に言っていたことを何度も思い出している。僕がもう少し君の話をちゃんと聞いて、二人でここから逃げ出せていたとしたら、どうなっていたのだろうと考える。二人でクリスマスを過ごすことができただろうか?案外、僕はプレゼントを選ぶセンスが壊滅的だから、それが原因で君を怒らせてしまっていたかもしれない。ただ、君のことだから、ケーキを食べたら機嫌が直るとは思う。 

 君がいなくなってからずいぶん経つというのに、僕は君がいたころの11月がどうにも忘れられない。来ないはずの連絡を待ってみたり、君と毎度通っていた喫茶店をのぞいてみたり、もらった腕時計の文字盤を意味もなく眺めてみたり。そうそう、腕時計のベルトは毎回、月末になるとちぎれそうになっている。これじゃあよくあるラブソングの情けない男みたいだな、と一人で笑ってしまう。

 今更になってわかったことだけれど、僕がこのどこにも行けないクソみたいな世界を、かろうじて好きでいられたのは君が居たからだったらしい。ひとりでぼんやりと生きていくのには、この街は少し寒すぎるみたいだ。(君からしてみれば、いなくなってから気が付くくらいなら、もっと私を大切にしておけばよかったのに。なんて都合のいい男!と思うかもしれないが)

 結局、僕らは、手に入れた幸福について、いつも注意していないとそのありがたさを簡単に忘れてしまう生き物なのだと思う。僕は本当にどうしようもなく愚かで、こんな風にいなくなった君のことをいまでも本当に好きなのだと確認しながら手紙を書いている。いちども手紙なんて書いたことが無かったくせに。徹底的に手遅れで、君に届かないと知っているくせに。本当に女々しい話だ。 

 11月17日には「ライ麦畑でつかまえて」を読むのが、君がいなくなったあとで僕の行動に付け加えられた。基本的にどのページもすごく良くて、何度読んでも面白い。中でも僕が好きなセリフはこんなのだ。

 

 『ーそれでもまだ僕はあいつのことが好きなんだ。それがいけないかい?誰かが死んじまったからって、それだけでそいつのことが好きであることをやめなくちゃいけないのかいー』

 

 ライ麦畑の端っこにある崖から落っこちそうになっていたあの日の僕を捕まえてくれたのは君だった。君がいないライ麦畑はきっと鮮やかな黄色の抜け落ちたすごくつまらない景色なんじゃないかと思う。たぶん、何を言っているのか伝わらないと思うけど。僕にとって君は本当に「キャッチャー・イン・ザ・ライ」そのものだったんだ。実際のところ本当にそうだったんだ。

 もしいつか、僕がうまくこのくそったれた街の11月から抜け出せたら、君に謝らなきゃいけないことがたくさんある。そばにいてくれることを当たり前だと思っていてごめん。その優しさに甘えて冷たい態度をとったりしてごめん。もっと君の話をちゃんと聞けばよかった。あの日、「抜け出そうよ」って誘われた手に気が付けなくてごめん。謝ることは僕の自己満足にしか過ぎないかもしれない。それでも、本当に悪いことをしたと思っている。

 君の12月が、1月が、春が夏が秋が冬が、そしていつか訪れる11月が幸せなものであったらいいと、僕は心から思う。それじゃあ、また会えること祈って。』


           ◇

 

 そこまで書いて、僕はペンを置く。机の上の時計は11時55分を指している。あと五分もすれば、また11月が始まる。君のいない、287回目の11月だ。僕は届くことのない、どうしようもなく手遅れになってしまった手紙を机にしまい込む。

 

その夜、夢を見た。僕が大好きだった、君の声が聞こえた気がした。

箱庭

夢を見ていた。

 

そこは高い壁に四方を囲まれていて、空だけが外と唯一繋がっていた。地面の半分くらいは少し茶色の混ざり始めた芝生に覆われていて、もう半分は石畳で作られた細い道と小さな広場がひっそりと自分の領地を主張していた。

 

広場には一本の楓の木が生えていた。葉が赤く染まっていた。桜の樹の下には死体が埋まっているという。確かめてみたことはないけれど、きっと楓もそうだ。

 

紅葉のおかげでいまは秋なのだと僕は気がつく。なるほど、この心地よい風は確かに秋のものだ。僕は自己主張の少ない、控えめな秋という季節が好きだ。夏ほど苛烈でもないし、冬ほど静かでもない。そして春ほど蠢かない。死にゆく老人のように穏やかな秋が、僕は好きだった。

 

楓の木に近づいた僕は、木に寄りかかって眠っている男がいることに気がつく。僕は小さく寝息をたてる男の顔をどこかで見たことがあるような気がした。いったいどこでだったろうか?僕がそれを思い出す前に男がゆっくりと目を覚ます。彼は寝ぼけ眼で僕に話しかける。

 

「やぁ……いつぶりだろう」

「起こすつもりはなかったんです。あの、ここがどこで、どうやって来たのかもわからなくて。ここはどこなんですか?」

「ここかい?……まぁそんなことは大きな問題じゃないよ。時間が来たら、君は帰れる。そんなことより、話をしないか?こうして君に会うのは本当に久しぶりなんだ。」

「……ごめんなさい、僕もどこかであったような気はするんですけど思い出せなくて。」

「いいんだ、君が忘れていても。僕は覚えている。」

 

男はそう言うと目を細めて僕に向かって微笑んだ。優しい微笑みだ。やっぱり僕はこの人に会ったことがある。この微笑みを僕は知っている。


彼と僕はいろいろなことを話した。ここから出られないということを僕は少しも心配していなかった。彼が「大きな問題じゃない」と言ったのだ。それはおそらく本当に大きな問題ではないのだろう。彼の声には人を安心させるところがあった。

大赤字を出したことで有名な映画のこと、今まで読んで一番悲しい気持ちになった本のこと、美味しいビールの飲み方、気持ちよく音楽を聞くためにするべきストレッチ。彼と話しているのは心地よかった。彼は世界に存在するものすべてを肯定しているように僕には思えた。くだらないこと、下世話なこと、醜いもの、美しいもの、大切なこと。どれも「ただそこにある」ということだけで彼にとっては等しく大切なものらしかった。その穏やかさは秋のようだった。

 

いつの間にか日が暮れて、冷たい風と共に夜がやってきていた。段々と空が橙色から紫を経て黒へと染まっていく。

「さぁ、そろそろ時間だ。楽しかったよ」

もうほとんど暗闇の中で輪郭しか見えなくなった彼がそう言う。

「僕も楽しかったです。また会いましょう」と言いかけて、僕はそれを飲み込んだ。きっとこの人とは二度と会えない。と僕にはわかった。彼と会えるのは今この時が最期だったのだ。だから、彼の方からわざわざこうして僕のための箱庭を作ってくれたのだ。

僕は彼を知っていた。それはこの日の彼ではないけれどそれでも確かに。

 

             ◇

 

研究室で眠ってしまっていた僕は電話のコールで目が醒める。電話を取る前からそれが悲しい知らせであることを僕は知っている。窓から見える楓の葉はほとんど落ちてしまった。秋が終わる。冬が来る。

本を紙で買え

本は紙で買うべきだ。

 

別に街の本屋の回し者ではない。

応援はしているけれど。

 

携帯性、本を手に入れるまでのラグのなさ、手に入れられる本の種類、どれを取っても多分電子書籍に負けてしまうけれど、それでも(すくなくとも)気に入った本くらいは紙で持っておくべきだ。

 

もちろんそれは紙の本を読んで育ってきた僕のワガママでもありこだわりでもあるのだけれど、これは僕のブログでまぁ基本的には何を書いたっていいわけだ。

 

紙の本には血肉がある。実在としての質量がある。時を超え、後々に残るだけの「重み」がある。本のページをめくる動きと本の内容を取り込む作業は僕の中で分かちがたく結びついている。スマートフォンの画面をフリックするのと紙をめくるのでは取り込める文章の密度が違う気がする。

もしかしたら、それはいつか「レコードで音楽を聞くこと」と同じくらい儀式的で限定的な需要しか持たない作業になるのかもしれない。

 

あるいはそのほうが、「本を読む」という行為に祈りにもにた切実さが加わるかもしれない。

 

勘違いされがちだけれど読書は決して他の趣味と比べて特別高尚な趣味ではないとおもう。(特に小説やエッセイはそうだ。実用書は読まないから知らない。)子どもの頃「本を読むと漢字が覚えられていい」「本を読んだおかげで成績が上がった」みたいな話を聞くたびに本当にクソだと思っていた。僕らが本を読むのは漢字や言葉を覚えるためでも知識をつけるためでも成績を上げるためでもない。僕らは本を読みたいから本を読むのだ。ここにはいないどこかの誰かになりたくて、会いに行きたくてページを開くのだ。

 

その切実な没入感を得るためにはやっぱり使い慣れた紙がいい。電子書籍電子ペーパーみたいな形になって白紙の本にデータをインストールできるようになったら乗り換えも考える。

 

紙の本の良さは本を並べたときに発揮される。本屋に並ぶ大量の背表紙、自分の本棚に揃えたお気に入りの本。趣向の凝らされた表紙、切り口の揃っていない新潮文庫のページを眺めて幸せを感じたことがある人も多いと思う。本は一つの作品なのだ。パッケージングされラッピングされた芸術作品。映画がDVDでも楽しめるように、本も電子書籍で十分楽しめる。けれどやっぱり映画館で見る映画、紙で読む本は体験として特別なのだ。

 

何より、文学少女が心地よい秋の日に読むのにタブレットを持っていたのでは締まらない。そこはやはり、紙の分厚いハードカバーを手にしていてほしい。

 

この文章は引っ越しの準備もしなければならないのに新しい本を買ってしまう自分を正当化するために書いた。

 

11/1は本の日らしい。紙の本、買いに行こう。

セカイ系にできることはまだあるかい?

天気の子を見たので感想をば……

 

 


セカイ系というジャンルがある。

「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと 」(Wikipedia

という東らによる定義が一般的な定義に当たるだろうか。人によっては作品名を羅列される方がしっくりとくる概念かもしれない。

 

 


今回見てきた新海誠監督最新作「天気の子」は見る前から「2000年代のエロゲ」「綾波を助けられた世界線エヴァQ」「超オーソドックスなセカイ系」といった評判を耳にしていたが、上手い喩えだと思う。

きわめて少年的な閉塞感を抱いた少年が、紆余曲折を経てボーイミーツガールを果たし、少女と親交を深めるも、少女は「世界の平穏」と引き換えに手の届かない場所へと行ってしまい、少年は無力感を噛みしめる。という「天気の子」中盤部分までは本当にかつて多くのセカイ系で描かれた展開であり、新海監督の「ほしのこえ」を思わせる。

だが、「天気の子」において主人公帆高は「世界のために自分の好きな女の子が犠牲になること」を良しとしない。法を犯し、恩人に銃を向け、世界を壊してでも君が欲しいと、彼岸までヒロインを迎えに行く。

前作「君の名は。」でも本作「天気の子」でも、主人公は自分の意思で世界を選ぼうとする、かつ選ぶことができる。という点において、かつて「セカイ系」と呼ばれてきた作品とは異なるように思う
。(前作は「世界も女の子も」救えたのに対し、今作は「世界か女の子、どちらか」しか救えないという違いはあるが。)この違いが時代性なのか、それとも監督の持つメッセージ性なのか、まぁ、どちらもかもあるのかもしれない。

本作の終盤「世界はどうせもともと狂ってる」「世界はもとの形に戻っただけ」と日常を崩壊させた責任を負うことはない、と遠回しに大人たちが慰めるのにも関わらず、主人公帆高は「世界は最初から狂っていたわけじゃない。僕たちが変えたんだ。 」とその責任を負おうとする。それはその実感こそ日常を崩壊させてしまった罪の意識であると同時に、世界を変えることができた。目の前の女の子を自分の意志で守れた。その勲章に他ならないからではないだろうか。


この2020年にあえてセカイ系の系譜に連なる物語を生み出したこと。これにより新海監督は「セカイ系にできることはまだあるかい?」と問いかけているように感じる。全盛期を過ぎ、評論の場でも以前ほど取り上げられなくなったセカイ系。その存在意義や普遍性を問うことこそ、この作品の担っている意味なのではないかと僕は思う。

 

 

海獣の子供を見た感想

海獣の子供https://www.kaijunokodomo.com/sp/

(原作:五十嵐大介 監督:渡辺歩)が6/7に公開となった。


せっかく見てきたので、感想と妄想を書きなぐっておこうと思う。たまには映画サークルっぽい文章を書いてもバチは当たるまい。ちなみに原作は未読なので、「漫画の映画化作品」としてではなく「一つのアニメ映画」としての感想になることをお許し願いたい。

さて、僕がこの映画を見て一番最初に感じたのは「世間での受け取られ方がもったいないな」ということだ。


近年の大ヒットした新海誠監督のアニメ映画「君の名は。」の影響もあり、アニメ映画に対して「ストーリーのわかりやすさ」みたいなものを要求するコンテクストがあるように感じる。その文脈の下で鑑賞した時、この「海獣の子供」という映画は「分かりにくい映画」として評価されてしまうだろう。

この映画の魅力は「わかりやすさ」ではなく、「強いメッセージ性」と「映像表現」にあると僕は感じた。

この映画の主題は「生命賛歌」と「子離れ」の二つではないかと思う。

 

主人公琉花は映画を通して初潮から妊娠・出産までをメタファーとして経験していく。
主人公である女子中学生の少し上手くいかない生活を描く序盤で印象的なのは「赤」だ。赤信号、真っ赤な橋、赤い車、赤い傘、連なる神社の赤鳥居、そして、膝を擦りむいたことで流れる赤い血液。
これらは海を描く上で必然的に青の多くなるこの映画における映像上のアクセントであるとともに、初潮の隠喩であると言えるであろう。
(「赤を見りゃなんでも血のメタファーかよ」とは僕も思うが…)

 

そして、琉花は新江ノ島水族館ジュゴンに育てられたという少年「海」と「空」に出会う。ここで注目するべきは「海」と「空」二人が果たす役割の違いだ。
劇中「海」は琉花の「息子」としての役割、「空」は琉花の「夫」、「海」の「父親」としての役割を果たす。(事実、琉花は「海」に対してごく母性的なふるまいをする。子守唄を歌ったり、「守ってあげたい」という旨の発言をしたり)

 

「空」は「海」のために口づけで琉花に「隕石」を託し姿を消す。劇中で「隕石」に関しては明確に「精子」を意味すると言及されている以上、口づけが性行為を示すことは疑いようがない。


中盤での大魚が轟音と共に去来し暗転するシーンなどを通し琉花は(もちろん疑似的に)受精し妊娠する。

 

物語終盤、「祭り」を通して琉花は「海」の出産を行い「命をつなぐ」という好意を儀式的に完了する。この映画における琉花は「祭り」のゲストとして扱われ、超自然的な事象を体験しその目を通してそれを観客に伝えるいわば「巫女」的な役割であると言えるだろう。

 

そして「祭り」が終わり、「海」は旅立って行ってしまう。(これが単純に成長しての親離れであるのか、死別なのかは明示されていないように僕には思える。)一度は「私もずっとあなたと一緒にいたい」という琉花だが、最後にはその別れを前向きに受け入れる。

このメタフォリカルな生命の誕生から親離れまでの過程を縦の大きな柱とし、「生命賛歌」「琉花の現実における家族の再生」「達観した様子の登場人物の人生観」が度々差し込まれることでこの作品は複合的で複雑なストーリー展開をする。


「映像表現」については(ド素人の僕が言及するのも恥ずかしいが)アニメ―ションでしかできない表現に対しての誠実さ、アニメでこの作品を取る意味を深く深く追求しているように感じる。ドでかいクジラが海の底から登ってくるシーンは畏怖を感じずにはいられない。ちょっと柔らかくした「二〇〇一年宇宙の旅」的なシーンもあり、非常に美しく、映画の可能性を示してくれる。

 

米津玄師の「海の幽霊」は映画の内容にマッチした名タイアップだし、エンドロール後の映像のおかげで視聴後の後味も爽やかだった。声優陣も(原作漫画を読んでいたらまた変わるのかもしれないが)不自然さはなくストレスなく見られた。

心の底から「受け取られ方がもったいないなぁ」と思う。僕の適当な妄想・感想では全く魅力を伝えきれないが、ぜひ劇場の大画面で見てほしいアニメ映画だった。

 

Eye to eye

「君ってさ話をするとき人の目を見ないよね。」
 彼女のそんな言葉がきっかけだった。昔から人の目を見るのがどうにも苦手だった。目は口ほどにものをいう。その通りだと俺は思う。目という小さな窓を通して、俺という人間の底。ひどく浅い底を見透かされてしまうようなそんな気がしていた。
 

 

「そんなことないよ。俺もたまには目を見てる。」
 サークルの同期である彼女は、よく「目を合わせる」女だった。明るい雰囲気で誰とでもすぐに打ち解ける。そういう女だった。
「嘘だぁ。だって私出会って二年経つけど目合ったことないよ。」
「本当だって。」
「嘘だよ。だって今だって全然見てないじゃん。」
そう言って彼女は俺と目を合わせようとしてくる。俺は夕焼け色に染まる窓の外の街を眺めるフリをしながらそれを見て見ぬふりをしていた。
「面接とか、どうしてるの?就活してたよね、確か。」
「なんとなく目のあたり見てるよ。それで何とかなってるんだ。」
ふぅんと彼女は面白くなさげに呟く。丸椅子の上で爪をいじる彼女の姿が視界の端に映った。
 
 来週の文化祭で演奏をして俺たちはぼちぼちサークルも引退だ。彼女とこうして会うこともたぶんなくなるのだろう。ふとそんなことを思った。
「あ、じゃあさ、ゲームしようよ。」
しばらくして彼女がそう提案してくる。
「ゲーム?」
「うん。」
「そう、名付けて『目を逸らしたら負けゲーム』ルールは簡単。見つめあってて目を逸らした方の負け。負けた方はジュースをおごる。どう?」

 彼女はネーミングセンスがなかった。いつだったか写真を見せてもらった、彼女の実家の犬はポチという名前だったような気がする。
「まぁ、いいよ。俺だって目を合わせられるところ見せてやるよ。」
 椅子をもう一脚出して彼女と向かい合わせに座る。俺の方が少し座高が高くて、彼女が俺を見上げる形になる。


 彼女の大きな黒目をじっと見つめる。「夜のような」というのは瞳の美しさを形容するのによく使われるが、彼女のそれは夜というよりは深海の黒さに近いように思えた。人は見たこともないものを比喩に用いる。俺だって、本当の深海の黒さを知っているわけではない。
 俺は「今見ているのは人の目ではない」と必死に思い込んで、何とか目を合わせていた。別にジュースをおごるのが嫌だったわけではない。ただ勝負に負けるのはなんとなく癪だった。それだけだ。
 
 彼女は口元を緩ませていたが、決して視線は外さなかった。
「なに笑ってんだよ。」
「別に。君と目を合わせてるのが珍しくてなんか笑っちゃっただけ。」
 日が暮れて部屋の中はだんだんと暗くなってくる。暗くなれば目線を外してもバレないと思っていたけれど、人間の目は案外優秀らしい。徐々に訪れる暗闇に静かに順応していった。
「暗くなってきたね、見えなくなってきちゃった」
 そう言って彼女は不意に顔を近づけてくる。暗くて距離感を掴みかねているのか、俺の鼻先を体温がくすぐる。
 こういうこいつの不用心さ、軽々しさが俺は本当のことを言うと嫌いだった。本人に悪気はないのだろうけれど、不意に異性を意識させてくるところが嫌いだった。

 

 不意に脇腹をくすぐられて危うく目を逸らしそうになった。
「おい、触るのは反則だろ。」
「そんなことはルールで決めてません。あ、いま目逸らさなかった?」
「逸らしてねえよ。」
 手のひらから彼女の体温が伝わってくる。俺もくすぐり返してやろうかと思ったけれど、それこそ気まずさで自分から目を逸らしてしまいそうだったのでやめておいた。
 たぶん俺が笑わないせいで、彼女は意地になって目を合わせたままで俺をくすぐってくる。
 前のめりになりすぎて、椅子ごと彼女が俺に倒れこんでくる。俺たち二人だけしかいないくらい教室に大きな音が響いた。
 背中が痛かったが、そんなことよりも胸の上に当たる彼女の感触の方がずっと気になった。
身体を起こした彼女の顔が目の前にあって、この場合先に目を逸らしたのはどっちだったのかなぁ。まだ逸らしてないしドローかな。なんてことを考えていると彼女の小さな手に俺の視界がさえぎられる。おいおいこれじゃ俺の負けか?と思う間もなく俺の唇に湿った柔らかなものがそっと押し付けられて俺はすべての思考を放棄してその柔らかさを受け入れた。
 
 手を外された俺が見たのは俺の上で真っ赤になっている彼女だった。彼女は少し潤んだ瞳で俺を見つめてすっと目を閉じ顎を少し上げた。
 俺は一体どうするべきなんだろう。
 俺はこいつが嫌いだった。 本人に悪気はないのだろうけれど、不意に異性を意識させてくるところが嫌いだった。

 

 本当に?

 

 俺が嫌いだったのは、多分自分自身だ。友達にあさましくも劣情を抱いて、異性を感じる自分自身。俺は彼女を通して自分を嫌っていたのだ。俺は誰かに瞳を通して心の中を見られるのが怖いんじゃなかった。俺は、目を合わせたとき、「相手の瞳の中に俺の嫌いな俺」を見るのが嫌だったのだ。

 

 俺は今度は自分から目を閉じたままの彼女にキスをする。
 いままで目を逸らし続けてきた好意と俺はやっと見つめ合って、目を離さないことに決めた。


 長い口づけの後で俺は彼女に告げた。
「俺の負けでいいから、ジュースでも買って一緒に帰ろう」と。