君の瞳で世界を見ること

小さな頃、新しいことを学ぶと世界が変わって見えた。「太陽の光は実は7色なんだよ」って聞いた次の晴天の日、世界は虹色に見えたし、「あの星の光は1万年前の光なんだよ」と知った日の夜空はいつもよりも深い色に見えた。

高校生になってイデア論を知ったとき「完璧な夏」について自分なりの結論を得たりもした。

そう、何もこれは勉強に限った話じゃなくて、音楽を聴くことも、本を読むことも、誰かに恋をすることも、それは結局のところどれも、新しい何かに出会うというのは「世界に色を増やす方法」なのだと思う。もちろん、色が増えるに止まらなくて2Dにみえてたものが3Dに見えるようになるダイナミックな出会いもある。僕も今まで何度かそんな本や人に出会ってきた。

さて、そんな出会いと20年近く共に生きてきて僕は、美しい色も醜い色も含めた様々な色と世界の見方を叩き込まれてきた。僕が何かを見るとき、僕の中のあなたが僕に美しい色を教えてくれるし、僕の中のたくさんの登場人物がたくさんの見方を示してくれる。それはきっとこれからも増えていって街をカラフルに染めてくれるのだろう。面白いのは、僕が生まれる遥か前に死んでしまった人の視点や色も僕の中にあるってことだ。人は作品やエピソードを媒体に何度も誰かの中で生き直して、永遠になれるってことなんだと感じる。

けれど、そんな風にたくさんのものを受け取ったからこそ、僕は考えてしまうのだ。「僕はあなたのように誰かに新しい色を与えているのだろうか?」と。そんなことを迷う暇があるのなら生きて自分の言葉で自分の色と出会うしかないのだけれど、どんなに歩いても、どうしても僕は彼らの瞳で世界を見てしまう。もし、それに出会っていなければ、そもそも「自分の色がほしい」なんて思わなかったのだから、これは仕方がないことなのかもしれないけれど。それでもどこまでも模造品でしかない自分の瞳に気がついたとき、「何者にもなれない無力感」や「どこにもいけない焦燥感」を僕は味わってしまう。それでもやっぱりたぶん、僕は彼らの瞳を愛していて、とても捨てられそうにはない。たとえそれが僕を縛り付ける鎖だとしても。