チェリー

 

それは春というにはまだ早く、冬と言い切るには少し遅い季節のことで、大学入試の二次試験も終わり、あとは卒業式と結果発表を待つだけのなんだか地に足がつかないような、そんな時期だった。

授業はとっくに終わっていて自由登校だったから、どうしてあの日僕が教室に行ったのか、今ではもう思い出せない。でもおそらく、たぶん僕は学校へ行くという習慣をなぞることで、一週間後には決まる進路や、もっと先の将来への漠然とした不安を沈めようとしていたのだと思う。人格とは幾つかの習慣と常識によって形作られるものだと何かで昔読んだ。つまり僕を僕たらしめているのはおそらく、ちっぽけな縁起を担いで右足から家を出たりするそんなささやかだけれど確かな習慣たちだ。

 

教室には誰もいなかった。柔らかな午前の日が射し込む、手作りのお菓子のような暖かさがそこには溢れていた。
窓際の自分の席に座り、イヤホンを付けて、文庫本を開いてはみたものの、ページをめくる手は進まず、すぐに抗いがたい睡魔が襲って来て、僕はそれに身を委ねた。

 

                              ◆

 

どれくらい寝てしまっていたのだろうか、ドアが開く音で目を覚ますと、陽射しは窓の外の僕が暮らす見慣れた街も僕も黄金色に染めていた。
机の上には読みかけの文庫本が横たわっていて、イヤホンはいつの間にか耳から抜け落ちていた。

「随分気持ちよさそうに寝てたね、どんな夢を見てたの?」
吸い込まれるような透明な声が僕に問いかける。なんだかとても幸せな夢だったことは覚えているけれど、どんな夢だったか思い出せない。そう答えると、彼女は、起こしちゃってごめんね、懐かしい背中が見えたから、久しぶりに話がしたくって。と言って零れるように笑った。僕は、彼女の笑顔を近くで、二人きりで見られる以上に幸せな夢があるのなら、是非とも僕は見て見たいと思う。

 

「受験、どうだった?」
「人事は尽くした。あとは天命を待つのみって感じかな。君は?」
「私は君のところほど難しい大学じゃないからね、余裕だよ余裕」
僕は東京の、彼女は地元の大学を受けていた。受かっても落ちても、卒業したらしばらくはーもしかしたら二度とー会えないだろう。
「懐かしいね、去年は毎日こうして毎日後ろの席に君が座ってた」
「そうだね、こうしてゆっくり話すのは本当に久しぶりだ」
去年は同じクラスだったから、話す機会もあったけれど、三年生になってからは廊下ですれ違った時に、世間話をするくらいしか、話しかけることができなかった。

 

 

「そういえば、何を聞いてたの?」
机に投げ出された僕の音楽プレイヤーを指差して彼女が問いかける。
「聞いてみる?きっと聞いたことあるよ」
そう言ってイヤホンを差し出すと彼女はそれを片方だけ着けて、もう片方を僕に返した。一緒に聞こう、と言うことなのだろう。
再生ボタンを押すと、聞き慣れたイントロが流れ始める。それは別れの季節に聞くには余りに爽やかであまりに哀しい曲だった。
窓の外をぼんやりと眺めながら曲を聴く君の横顔に見とれていると、ふと君がこちらを向いて、不意に目が合ってなんだか照れ臭かった。
『愛してるの響きだけで強くなれる気がしたよ。ささやかな喜びを潰れるほど抱きしめて』
君が小さな声でそう歌う。
多分僕の、君へのこの恋心なんて、大人になって見返したらきっと玩具みたいなものなんだと、そう思う。それでも、今僕は、やっぱり君が好き

 

 

次の愛してるの響きに乗せて、僕の思いを君に伝えよう。
僕は『いつかまた』じゃなくて、『明日また』この場所で君に巡り会いたいのだから。