吾輩は猫である

 

吾輩は猫である。というのが猫界隈では一番有名な書き出しであることに疑いはない。

 

尤も、私には名前がある。あの冷たい雨が降る夜に、私を拾ってくれたご主人がつけてくれた素敵な名前が。

あの日以来、私はこの家でご主人とご主人のお母様、お父様と暮らしている。

部屋は雪が深々と降るこんな夜でもぬくぬくと暖かいし、もらえるご飯はとても美味しい。たぶん私は世界でも有数の幸福な黒猫なんじゃないだろうか?

 

玄関の開く音がする。私は帰ってきたご主人を出迎えに行く。彼は長めの私とおそろいの黒い髪に乗った雪を払って「出迎えありがとう」と言って冷たいままの手で私の頭をなでてくれる。私はにゃあと鳴いて、リビングに向かう彼のあとを追いかける。

 

 

         ◇

 

夜が更けるに連れて真白な雪はどんどんと積もっていく。こんなに降ったら、私だけじゃなく犬もこたつで丸くなりたくなるんじゃないだろうか?

 

ご主人の部屋の窓から外を眺めていると風呂に入ってあとは寝るだけといった様相のご主人が戻ってきた。

しばらく、ケータイ電話を触った後にご主人が私の方を向いていやに真剣な顔で呼びかける。

「葵…かな、いや、葵…さんのほうがいいかな」

うにゃ?私の名前は「アオイ」ではない。断じて。あまりに寒くて脳みそまで凍ってしまったのだろうか?

「やっぱりダメだな。自然に呼べる気がしない……」

そう言ってご主人が肩を落とす。

その照れくさそうで、それでいて少し嬉しそうな顔と、知らない女の名前からなんとなく事情が掴めてきた。

おそらく、ご主人は好きな女の事を名前で呼ぶ練習をしているのだ。

ニャンと女々しい……それに、私だって女なのだ。女と一緒にいるのに、他の女の名前を呼ぶなど言語道断。女心がわかっていない。だから誰ともつがいになれないのだ。

そんな非難の意もこめて、にゃあと鳴く。

「なんだ、返事してくれたのか?お前は本当に可愛いなぁ」

そう言って彼はいつものように私の頭を撫でる。違うんだけどなぁ、と思いながらもその優しい手が心地よいので、まぁいい。

 

いつか、その大きくて少し硬い手のひらが、ご主人の好きな女を撫でるのだろうか。

もしそんな日が来たら、私がその女を見定めてやろう。私のご主人に、ふさわしいかどうか。

でも、今はこの手は私だけのものだ。