ーこの世のすべての苦しみから逃れるには、やはり死ぬことしかないのだろうかー

ウイスキーの水割りに溶けたチョコレートの絡んだおそらくは鮮やかな橙の蜜柑を皮ごと口に含みながら、走馬灯と共にそんなことを考える。口の中に小さな蜜柑に凝集された紀伊の国の暖かな日差しが広がったあと、ガーナのココア畑で不当に働かされた少年たちが殴り込んできた。

 

真っ白になりかけた頭で必死に思い出す。なぜ、こんなことになったのだろう。

 

           ◇

「闇鍋をしよう」

それを言い始めたのが誰だったのか明らかでないのはいつもの事で、何を目的にするわけでもなく集まってその日の思いつきで活動する「総合文化サークル」を標榜して酒を飲むだけの我らのサークルのボンクラの誰かであることは間違いないのだが、問題は我らのサークルのサークル員はもれなく皆ボンクラであるというところにある。

「鍋に入れるものは食べられるものであること」「箸を付けた食材に責任を持つこと」それだけをルールに我らの闇鍋は幕を開けた。

 

           ◇

無駄に広い部屋に住むサークル長の家に押しかけ、カーテンを引き、鍋に水を入れ火をかけ電気を消すとそこにはまさに闇が立ち現れてきた。「深淵を覗くときまた〜」という有名なニーチェの言葉があるがたしかにテーブルの上には深淵がいて、我々を覗き込んでいた。

「じゃあ…始めるぞ…」サークル長が闇のゲームの開始を告げ、最初の食材を投じる。とぷん、と何かが水に沈む音が部屋に響いた。

それから順に時計回りに食材を投じていく。ドボン、トポポポポ、ピチャッ、バチャッバチャッ、不穏な音を立てて「何か」が作り上げられていく。我々は本当に鍋を作っているのだろうか?実は得体の知れない魔物を作ってしまっているのではないか?そんな思いが胸をよぎる。おそらく誰も皆その心を抱えている。やはり、闇鍋を覗くとき、深淵もまた我々を覗くのだ。あぁニーチェよあなたは正しかった。そして我々の後悔と不安と共に鍋も煮詰まっていく。コトコトと呑気な音を立てて。

 

           ◇

「……そろそろか…?」誰かがそう言う。暗闇の中で各々が首肯したのが空気のよどめきでわかる。

鍋の蓋が開けられる。ふわりとアルコールの匂いが漂う。アルコール?

「おい誰だ酒入れたの!」「俺じゃねぇ」「知らん」「さぁな…風に聞いてくれ…」「まぁまぁ、いつか聞いたが日本酒で鍋を煮込む『美酒鍋』という料理もあるらしいし、大した問題じゃァないよ…」

なるほど…問題は使われている酒が日本酒ではない可能性が非常に高いということではあるが、黙っておこう。

「食べる…か…」それぞれが悲しみに満ちた手付きで鍋を取り分ける。食べ物で遊ぶからには責任を持って食べなければならない。私も明らかにじゃがいもではないじゃがいも大の何かをとりわけ箸を手に取った。

古い文献によれば、「食材」という言葉は「贖罪」に通ずるという。我々の罪もこの闇鍋で消えるだろう。

そんな苦し紛れの嘘で自分を騙し、じゃがいも大の何かにかじりついた。

 

           ◇

そして、場面は冒頭に戻る。

この世のすべての苦しみから逃れるには、やはり死ぬことしかないのだろう。きっとそうだ。何も見えぬ暗闇の中で悶絶する戦友たちが私には確かに視えた。

         

           ◇

 

電気をつけたら、みかんやらウイスキーの空き瓶やらマグロの切り身やら溶けかけのチョコレートやら鈴カステラが浮かんだ混沌が姿を表した。大きな鍋に移して、カレールーを入れたら案外イケた。カレーはやっぱりすごい。二度と、闇鍋はやらない。