水色の街

この世界は夏が来る前のまま、立ち止まっている。

静かな銀の湖面を臨む街で雨の降らない水彩絵の具で描いたような空がいつまでも続いていることに気がついているのはたぶん、僕一人だ。

 

毎朝同じ時間に目を覚まして、同じ服に着替える。着替え終わる頃には母が朝食を食べるよう呼ぶ声が階下から聞こえてくる。

無言で新聞を捲りながらコーヒーをすする父を横目に、これ以上ないくらい上手い具合に半熟の目玉焼きと狐色に焦げたトーストを囓る。

きっと僕は昨日も「これ」を食べたのだろう。覚えていないけれど、きっとそうだ。

 

朝食を終えて自室で寝転がっていた僕は気が付かないうちに微睡んでしまう。開けておいた窓から爽やかな風が吹き込む。父は今日も仕事に出かけていったし、母は昨日と同じスーパーに昨日と同じ買い物をしに出かけた。

 

僕は昨日と同じ時間に出かけるかどうか一瞬、迷ったけれど深く考えるのをやめて起き上がってお気に入りのスニーカーに手を伸ばして玄関を出た。

 

パステルカラーのポストの上で眠る猫があくびをして挨拶をしてくれる。僕はその頭をなでて彼の首元で小さくチリンチリンとなる鈴の音に耳を澄ませる。彼はきっと世界が前に進んでも、毎日あそこで眠っているのだろう。そんな気がした。

 

丘の麓にある、半分木々に埋もれたような市立図書館の扉を開ける。

 

「こんにちは」とカウンターの中に向かって声をかける。

「図書館ではお静かに」そんなルールはあるけれど、この図書館に来て誰かにあったことなんて昨日も今日も、きっと明日も無い。

 

「あら、いらっしゃい。今日も来たの?」

焦げ茶色の少しだけ大人な瞳が僕を見つめる。彼女こそがこの世界を立ち止まらせる原因、夏の一歩手前の季節の女神だ。

「他に行くところも無いからね」そう答えると、「友達、いないの?」と哀れまれた。

余計なお世話だと思ったけれど、彼女を見ると嬉しそうに微笑んでいたのであえて言わなかった。

 

どうして彼女がこの世界に引きこもってしまったのか、僕にはわからない。なぜ、僕にだけ世界の真実が見えるようにしたのかも、僕にはわからない。

おそらくは彼女自身、その理由は忘れてしまっているのだろう。もうどれくらい前か覚えていないがある時彼女を問い詰めたけれど、ぽかんとした顔で「何かのゲームの設定?面白そうだね」とはにかむばかりだった。

 

カウンターを離れて書棚の間をぶらぶら歩く。図書館の中は外とは違ってひんやりとしていた。きっと本を守るために最適な温度や湿度というものがあって、それを保つように作られているのだろう。僕はここに来るたびに、図書館はなんだか知識のための大きな棺のようだと思う。

 

昨日、僕が読んだ本が何だったのか僕は知らない。もしかしたら僕は毎日同じ本を読んでいるのかもしれない。「バベルの図書館」と言うタイトルに目を引かれてホルヘ・ルイスの作品集を手元にカウンターの向かいのテーブルへと戻る。彼女が仕事を終える午後二時半まで僕は毎日ここで何かを読んでいる。

 

 

すべてが収められた図書館の中で生まれ、その中で死ぬ司書の物語を読んでいる途中で僕は眠ってしまっていたらしい。いたずらに笑う彼女に起こされたときには午後三時前で、頬には机の模様が刻まれていた。

 

「寝顔が可愛くて、思わず見てたら三時になっちゃった」という彼女のからかいにも慣れたもので、初めて出会った十五歳の頃ならまだしも、それくらいで僕が照れることはもうない。二人で図書館を出ると今までの過ごしやすい気温と湿度はどこかへ吹き飛んで、少し傾いたものの、まだまだ暑い日差しが僕らを照らした。

 

「ねえ、今年の夏はどこへ行こうか」ぼんやりと蜃気楼を眺めていると彼女がそう問いかける。「そうだな、とりあえず海には行きたいかな」「痩せなきゃなぁ…私」そんなやり取りをしながらも僕だけは知っている。この世界に永遠に夏など訪れないことを。僕らが昨日も一昨日もその前も、何十回も何百回も海に行く約束をしたことを。

 

それでも、「痩せるから海に行こうね、絶対だよ」と約束をしてくる彼女はどうしようもなく可愛らしくて。進まない街でたった一人の生きた舞台装置の僕はいつだって幸せな気持ちになる。

それが巻き戻しすぎて擦り切れたフィルムでも、僕はその映像を愛している。

 

ーいつか、いつの日かほんの少しだけ台本が狂って僕らが海に行けたらとても嬉しい。