恋人の日
「え?」
気になるクラスメイトの女の子の言葉を聞き逃すような男はロクな男じゃないんだけど、僕は彼女の口から出た「放課後私とデートしない?」という言葉が、僕のあまりに都合のいい聞き間違いに思えて思わず聞き返してしまった。
「見たい映画があるの。あそこの映画館、カップルで行くと今日半額になんだって。」
なるほど、個人的好意から誘われなかったのはいささか残念だったけれど、もちろん断る理由はなくて僕は二つ返事でオーケーをした。
外に出ると、朝から振り続ける雨は激しさを増していた。傘をさして二人並んで歩く。
「『雨の匂い』って言ったらわかる?」
彼女の水色の声の後ろからは紫陽花の大きな葉がぱたぱたと水滴を弾く音が聞こえてくる。
「わかるよ。雨が降る前と降ったあとの湿った空気のにおいだろ。」
「そう、私あの匂いが好きなんだ。でも、この街は私の地元ほど雨の匂いがしない気がして残念。」
彼女は僕らの大学があるこの街からは遠く遠く離れた街の出身だった。
「僕はこの街で生まれ育ったから他の街の雨の匂いについてはよくわからないけれど、いつか君の街に遊びに行くことがあったら、ぜひ雨が降ってほしいな。」
「そうだね、その時は私が好きだった雨の似合う喫茶店、連れて行ってあげる。」
ビルとビルの間にひっそりと佇む映画館はカップルデーとは行っても、いつものように閑散としていた。
僕が物心ついた頃からこの映画館はここにあったけれど、いつも大きな映画館では上映しないけれどセンスの良い映画を上映している。僕も時々、どうしても「映画館で見たい映画」がある時お世話になっている。
世の中には確かに「映画館で見るべき映画」が存在していると思う。それは大作アクションだったり、音響に拘った映画だったり、あるいはもっと言語化しにくい微妙な特徴を持った映画だ。そういう映画がある限り、いくらレンタルサービスが発展したって映画館という場所は消えたりはしないだろう。
その日彼女が見たいと言っていたのは、女の子がある朝目覚めたらペンギンへと変身してしまっていた。という映画だった。
ラブストーリーは別に僕は特段「映画館で見るべき映画」だとは思わなかった。この時までは。
受付でチケットを二枚買う。彼女の言うとおり、二枚でいつもと同じ値段だった。せっかくだから格好つけたくて、財布を開こうとする彼女を横目にさっさとお金を払ってしまう。
受付を離れたあとで、彼女はチケットを受け取りながら、自分が誘ったのだから、半分払うということを主張した。
僕はきっと舞い上がっていたのだろう。
「いいよ、僕は今日君の彼氏役だから。奢らせてよ。」といやに芝居がかった事を口にしてしまった。
「…格好つけちゃって。あとから請求されても払わないからね」そう言ったあと小さく「ありがとう」と言って彼女はそっぽを向いてしまった。
スクリーンはがら空きで僕らの他に二組カップルがいるだけだった。彼らは本当のカップルなのだろうか?僕から見たら本当のカップルも偽装カップルも見分けはつかなくて、それは誰かから見た僕らもそうなのだと思い当たって少し嬉しくなる。
真ん中から少し前の席に座ってしばらくするとあたりが暗くなって様々な映画の予告が流れ始める。僕はこの予告が好きだ。予告で面白そうだと感じて見た映画に何度騙されたって、このワクワク感を僕はどうしたって嫌いになれない。
◇
映画の内容は、よく覚えていない。つまらなくはなかったけれど、何となくよくある話のような気もした。それでも、僕は映画館で見るラブストーリーに対しての認識を改める必要があった。
おそらく、ラブストーリーの正しい楽しみ方の一つは、好きな女の子と一緒に見ることなのだ。映画のヒロインがいくら可愛らしくたって、どれほど感動的なストーリーであったって、一時間とそこら、すぐ隣に自分の好きな女の子が座っていることと比べたら些細なことなのだ。
たぶん僕が映画の内容を覚えていないことの八割くらいはそれが原因だと思う。
外に出るとすっかり暗くなっていて、雨は激しさを増していた。
「うわ、寒いね」と彼女が自分の肩を抱く。
僕が差し出した学生服の上着も「格好つけ」と笑いながらだが、本当に寒かったのだろう、素直に受け取って羽織っていた。
傘をさして帰ろうとすると、彼女は自分の傘を広げずに僕の傘に潜り込んできた。
驚いて彼女を見ると
「私は今日あなたの彼女なんでしょう?」
と悪戯に笑っていた。
雨にぼやける街灯りを駅に向かって歩く。このまま駅に付かなければいいと思うけれど、映画館から駅まではせいぜい15分くらいだ。
一つになった二人の影が車のライトを浴びて伸びていく。湿った空気の中を泳ぐ彼女は、さっきの映画のヒロインなんかよりずっと可愛らしく見えた。
駅のホームにつくと彼女は傘からするりと抜け出して行った。
僕はさっきまでそこにあった暖かさを永遠にしたいと思う。彼女と過ごす全ての日々が『恋人の日』になればいい。
そのために、僕はほんの少し勇敢にならなきゃいけないだろう。僕が大好きな映画の主人公達のように。