紫陽花

ここ数日雨が続いていて、僕はとても嬉しい。

いつだったか雨宿りを兼ねてたまたま入ったこの古びた小さな隠れ家のような喫茶店が気に入って、僕は空が泣いたときにだけここに来ている。

 

「雨の日にしかここに来ない」と行ったが、それは正確ではない。ここは「雨の日でなければ来られない」場所なのだ。

今まで何度か、晴れの日や曇りの日に訪れようとしたのだけれど、その度、どうしても入り口の重いダークブラウンの木の扉へと続く小道を見つけることができず、断念していた。

最近はもう、諦めて雨の日だけの楽しみと割り切っている。

 

優しそうな目と大きな口のどこかカエルを思わせるマスターが一杯一杯手挽きで入れてくれるコーヒーは酸味と雑味が少なく、とても飲みやすい。

カウンターで読みかけの文庫本を片手にコーヒーを飲んでいると隣に誰かが座る気配がした。

「また、お会いしましたね」

そう言ってスカイブルーのワンピースを着た、僕と同じか、もう少し年下の女の子が微笑みかけてくる。この前来ていた赤紫のグラデーションのかかったドレスのような服も少し背伸びをしたお嬢様といった様子で、よく似合ってあっていたが、このワンピースも少女の持つあどけなさを十分に引き出しているように思えた。

「やぁ、今来たところ?」

「そうです、雨強くなってきましたよ。」

彼女と出会ったのは三ヶ月ほど前だったろうか。その日は珍しく客が多く入っていた。(こう言うと失礼に聞こえるかもしれないが、僕はこの店のそういうところが気に入っている。)いつものこの席でコーヒーを飲んでいると「お隣、いいですか?」と彼女に声をかけられた。空いている席は僕の隣だけだった。

「あぁ、いいよ。全然、どうぞ」

高校生だろうか?平日の昼間だけれど、まぁ、学校なんてものは適当な頻度でサボる方がもしかすると健全なのかもしれない。現にその日、僕も大学をサボっていた。

「ありがとうございます、びっくりしちゃいました。こんなに混んでること、いつもは無いから」

「そうだね、僕もおんなじことを考えていたよ」

店内では静かなジャズが流れていた。僕はジャズには詳しくないけれど、ウイスキーとコーヒーにはジャズがよく似合うと思う。

「ここのコーヒー、すごく美味しいですよね。雨の日にしか飲めないですけど」

「そうだね。憂鬱な雨の日の数少ない楽しみだ」

「雨、お嫌いなんですか?」

「あんまり好きじゃないな。君は好きなの?」

「好きですね。もしかしたら私が雨の日に生まれたからなのかもしれません」

 

なるほど、関係があるのかもしれない。僕が生まれた日は晴れていたのだろうか?

そんなことを考えていると彼女の頼んだコーヒーが運ばれてきた。彼女はその芳ばしい香りを楽しむように飲んだ。若いのに珈琲の飲み方がわかっているな、そう感じた。

もちろん、僕も全然若いのだけれど。

 

その後もこの店のチーズケーキが実は隠れた名品であることや、お互いこの店を気に入っているが、一緒に来るような友だちはいないというようなことを話した。

「でも」

僕はその頃にはすっかり彼女の丁寧な話し方と柔らかな微笑み方が気に入っていたので、こう言った。

「君みたいな魅力的な女の子とだったら、同級の男の子はデートしたいと思うものじゃないかな」

すると彼女は一瞬驚いたような顔をして微笑った。

「そんなことを言っても、奢りませんからね。それに、私って実は心変わりが激しいんですよ」

「そろそろ行きましょうか、雨も上がったみたいです」

雨上がりの街はなんだかいつもよりも美しく見えた。

 

そうして僕らは雨の日に会うようになった。

憂鬱だった雨の日がいつの間にか待ち遠しいものになっていた。

「私、『その人の色』ってどんな人たちと関わったかによると思うんです。遺伝子やそういうのも大きいんでしょうけど」

その通りだ、と思う。多分晴れた日に生まれた僕も今では雨の日の虜なのだから。

 

もうすぐ、梅雨が終わる。関東では数日前に梅雨明けが宣言された。夏になればきっと雨は夕立のような降り方をして、今までのように連日降り続けることは少ないだろう。

 

もし、たった一人の女の子のせいで雨が好きになったのなら、それはきっと恋なのだ。僕はそう思う。

 

夏が来ないまま、いつまでも息をしていられたらいい。いつの間にかコーヒーをアイスで頼むようになった彼女を横目に、そう思った。