あの日の僕らは花火を見てた
遠くの夜空に花が咲く音で目が覚めた。
それが実際の夜空に咲いたものだったのか、それとも僕の夢の中に咲いたものだったのかはよくわからない。
どうやら僕は研究室の机に突っ伏して、いつの間にか寝てしまっていたらしい。その証拠に暗い部屋で煌々と輝く、書きかけの文章を写したディスプレイは額で押したのであろうローマ字の「f」で埋め尽くされていた。
時刻はすでに午後七時を回っていた。
そろそろ花火大会が始まったころだろうか?
行く相手も予定もない僕にとっては、関係のない話だ。そもそも、それがある事すら後輩が話しているのを耳にして、つい5時間ほど前に知った。
最後に打ち上げ花火を見たのは一体いつのことだったろう?まだ毎年盆に祖父の家を訪れていた小学生の頃、連れて行ってもらった夏祭りで見たのが最後かもしれない。
中学に上がってすぐ祖父が死んで、あのどこか懐かしい田舎町を訪れることもなくなった。
僕の両親は悪い人間ではないが、夏祭りや花火大会、遊園地や動物園に連れて行ってもらった記憶はない。おそらく、出不精な人たちだったのだろうと思う。そして、その性格は僕にも色濃く受け継がれていた。
と、そこまで考えて、高校時代に一度だけ、花火を見たことを思い出した。それも、女の子と。
どうして、そんなことになったのだったか思い出して気恥ずかしくなった。
そう、確か僕らは、僕らに優しくない青春に復讐に出かけたのだ。
◇
図書館から出ると空は薄紫に染まっていた。
夏至って何月だったかな、そんなことをぼんやりと考えながら、僕は自転車の鍵をポケットから取り出そうとして、それがそこにないことに気がついた。
そういえば、体育で運動着に着替えるとき、鍵を机の中に放り込んで、そのままにしていた。
ぎりぎり玄関を閉められてしまう前だったので僕は教室へと急いだ。
薄暗い廊下を抜けて教室に入ろうとしたとき、中に誰かがいることに気がついた。
窓際の席で寝ているその女の子が誰かと話しているところを僕は見たことがなかった。その子はいつも本を読んでいるか、窓の外をぼんやりと見つめていた。僕にはそれがこの教室という空間に居場所を見いだせなくて、「ここではないどこか」に思いを馳せる姿に見えて、いつも勝手な共感を感じていた。
彼女の二つ斜め後ろの自分の机から鍵を取り出して、彼女を起こすために後ろから右肩を叩いた。
眠そうに眼を擦った女の子は一瞬僕が誰だか、ここがどこだかわからなかった様だったけれど、すぐに意識がはっきりしてきたらしい。「これはこれは…恥ずかしいところを見られちゃったかな」と言ってはにかんだ。
「もうすぐ学校閉まるよ、もう六時過ぎだ」
「うん、起こしてくれてありがとう」
二人で校門を出るとさっきまでの空の紫はだいぶ紺色に飲み込まれていた。
「そういえば」僕の半歩後ろを歩く彼女が言う。「君は花火見に行かないの?」
そういえば今日は花火大会だったな、と昼間教室でイヤホン越しにでも聞こえて来たクラスメイトの大声を思い出す。意地の悪い質問だ。僕のクラスでの振る舞いを見ていたら、僕に花火大会に行く相手などいないことはすぐにわかるだろうに。
あるいは、クラスの誰も僕のことなど気にしていないのかもしれない。
ほんの少し捨ててしまったほうがマシなくらい小さな自尊心が傷ついたので、僕は彼女にも同じ質問をすることにした。
すると「意地悪だなぁ、花火大会なんて一人で行ったって面白くもなんともないし、一緒に行く相手がいたら教室で寝てたりなんかしないよ」と膨れられた。
自転車につけた鍵を外してカバンを籠に突っ込む。「僕は駅まで行くけど、君は?」と尋ねると、彼女は不自然なくらい考え込んだあとにこう言った。
「ねえ、このあと暇?」
「まぁね、家に帰ろうとしてたくらいだし」
「じゃあさ、私と私達のくすんだ青春に逆襲しに行かない?」
何を言っているのかよくわからなかった。
僕が困惑しているのを無視して彼女は続けた。
「私達の青春って、私達のこと見くびってると思うの。『こいつらに人並みの青春なんて送れやしないだろう。花火大会に行く相手もいないだろう』って。でもそれってなんか癪じゃない、だから私と君で、『私達だって花火大会に行く輝く青春を送れるんだぞ!』ってこと見せつけてやらない?」
無茶苦茶な話だった。けれど、そんなくだらない理論を本気で熱弁する彼女がなんだかおかしくて、その頃から十分に出不精だった僕はその誘いに乗る事にした。
◇
遠くで響く花火の音を聞きながら、彼女に電話をしてみようか、と思う。成人式で再開したときに、連絡先を教えてもらった。今は地元の大学の教育学部に通っているらしい。いつも教室ではないどこかに心を馳せていた彼女が教員になるというのは以外にも思えたけれど、もしかしたら、彼女は今も教室にいる「あの頃の自分」が少しでも居心地が良くなるように教員になるのかもしれない。
連絡帳から彼女の名前を開いて電話番号にカーソルを合わせたけれど、僕はその電話をかけることができなかった。
なんと言って電話を掛ければいいのだろう?花火の音を聞いていて、君を思い出したから?なんとなく声が聞きたくて?
どれも格好をつけ過ぎているような気がした。
あの日、花火の下で見た彼女の美しさすら言葉にできなかった僕に、今更そんなきざな言葉は言えないような気がした。
それに、あの日と違って花火が上がっているのは「僕らの」夜空ではなく、「僕の」夜空だ。
携帯電話を閉じて机の上に投げ出す。研究室に置いてあるオンボロのソファに寝転んで目を閉じる。
遠くの花火の音の下で、二人乗りをしたせいで汗まみれになった僕と涼しい顔をした美しい君が今も二人並んでいた。
今なら嫌いな相手を花火大会に誘うわけがないことも、僕が君に感じていたように、君も僕にシンパシーを感じてたことがわかる。
けれど、きっとあのころの僕らはお互いに臆病で、今となってはすべてが過ぎ去ってしまった。
僕らがくすんでいて、それでいて眩しい青春を過ごしたあの街にも今夜花火が上がっていて君も僕が恋しくなっていればいい。
どこか遠い場所で電話がなっている、そんな気がした。