海の底・夜の底

 僕は夢を見ていた。そこは海の底なのにひどく明るく、そして暖かかった。僕が息を吐くたびに小さな白い泡が、透明な遥か彼方の水面に向かって小さくなっていった。
 少し離れた白い砂地で裸の彼女が踊っていた。離れていても、それが彼女だと僕にはわかった。僕はダンスに詳しくないから、彼女の踊りがなんという名前なのかわからなかった。ただキレイだと思った。砂に負けず白い肌も、サンゴよりも赤い乳首も、海の底よりも暗い黒の髪も。彼女だとわかったのに、僕には彼女の顔が見えなかった。近づこうと海中でもがいても、僕の身体は少しも前に進まなかった。それどころか段々と君から遠ざかっているような気すらした。僕は、君と手をつないで踊りたかったのに。

 

           ◇

 

潮の匂いに混ざって母の作る朝食の匂いがする。目覚ましが鳴る五分前だった。こういうことが、最近よくある。ある時間に目覚ましをかけると、それよりもほんの少しだけ早く目が覚める。
 波の音が聞こえる。そういえば昨日の夜は熱くて寝苦しかったから、窓を開け放して眠ったのだった。ここ数日で急に暑くなったような気がする。夏が近い。
 一回に降りると既に朝食の準備が終わっていた。
「あら、おはよう。ちょうど今起こしに行こうとしてたところよ」
と母が言った。
 目玉焼きをご飯の上に乗せて醤油をかけて黄身を割る。半熟の黄身が醤油と混ざってご飯に染み渡っていく。いただきます、と手を合わせて僕は朝食をかきこむ。やっぱり卵は半熟に限る。
 洗面所で顔と潮風で少しベタついた髪を洗う。歯を磨いて、制服に着替えて家を出た。

 学校へと続く海沿いの道を自転車で走る。まだ朝のうちはそんなに暑くない。堤防の上にはポツポツ釣り人がいた。路端の夏草が車道にまで葉を伸ばし始めていた。朝露が朝日を反射してきらきらと輝いた。
「おはよう」
後ろから声をかけられる。ペダルを漕ぐ足を少し休めて後ろを振り返ると自転車に乗った君だった。セーラー服は3ヶ月立ってもまだやっぱりちょっと似合っていないと思う。
「あぁ、おはよう」
君が僕の隣に並ぶ。二人分の影が足元に並ぶ。
「宿題した?後で見せてくれない?」
「またやってないの?授業午後じゃん、自分でやりなよ。」
「そんなこと言わないでさ、私が数学苦手なの知ってるじゃん。」
「知らないよ。もう今年からは夏休みの宿題は手伝わないからな僕は。」
他愛ない話をしながら自転車を漕ぐ。しばらくすると学校が見えてくる。僕らは並んで校舎の手前の坂を登る。大した坂ではないけれど登り終わる頃には額に薄っすらと汗をかいていた。

 窓際の席に座る。教室の真ん中で友達と話す君のことが視界に入る。僕は机に突っ伏して眠るふりをしながら腕の隙間から君を覗き見る。やっぱり、後ろ姿だけならセーラー服もそこそこ似合っているかもしれない、と僕は思う。
 退屈な授業の間、僕は窓の外と君のことばかり考えている。入道雲が青空の下に膨らむ。校庭ではどこかのクラスが体育をしていて、時々小さな声が上がっている。君は真面目に英語のノートを取っている。黒板を叩くチョークの音だけが初夏の教室に響く。僕はいつの間にか眠ってしまっていて、英語の教師に頭を小突かれてしまう。

 放課後家に帰るために校舎を出る。昇降口で靴紐を結んでいると、君が一緒に帰ろう、と声をかけてくる。二人で野球部が部活をしている横を通り抜ける。
「ねえねぇ、そういえば私達付き合ってるんじゃないかって噂になってるんだって。」
君が悪戯に笑いながらそう言う。
「…へぇ、そりゃ嬉しいね。僕の身には余る幸運だよ。」
僕はからかわれていることがわかっているので軽く流した。つもりだったけれど、うまくできていただろうか。動揺を悟られ無かっただろうか。
ちょうどその時、君は僕の少し前を歩いていて、君の顔は見えなかった。

 

          ◇

 

 僕は夢を見ていた。この間よりもほんのりとオレンジ色の海の底の夢。たぶん、海の上は夕暮れ時が近づいているのだろう。何故か僕にはそれが朝日ではなく夕日であることが確信を持ってわかった。これは、間違いなく夕日だ。もしかすると僕がそう確信したのは、水温がこの前に夢を見たときよりもほんの少し冷たくなっているような気がしたからかもしれなかった。
 砂地で踊る彼女はこの間よりも少しだけ僕のそばに近づきているような気がした。相変わらず顔は見えなかったが、その姿はこの前よりもはっきり見えた。僕は彼女の踊りから目が離せない。それは決していやらしい意味ではなく、ただどうしても彼女から目が離せない。そして僕は彼女の踊りがどこか物哀しいことに気がつく。この前見たときはなんとも思わなかったけれど、少なくともそれは決して楽しげな踊りではなかった。
 僕は声をかけようとして、声が出せない事に気がつく。僕の声は君には届かない。

 

          ◇

 

 夏休み初日から僕は昼過ぎまで眠ってしまっていた。母が出してくれたのであろう、緑色の羽の古ぼけた扇風機が、大きな音を立てながら部屋の中で首を横に振っていた。僕は薄っぺらな敷布団の上で大の字になって、天井の木目を見上げる。小さな頃から何度も何度も繰り返し見上げた天井だ。幸い、僕の部屋には顔に見えるような木目は見当たらない。蝉の声が部屋の中にまで入ってくる。どこか遠くで雷の音がした。
 携帯電話が震えて、メールが来たことを告げる。
「今なにしてる?」
君からだった。
「寝てたよ、今起きたとこ」
短い返信をするとすぐにメールが帰ってくる。
「一緒に宿題やらない?」
「手伝わないって言ったろ」
「そんなこと言わないでよ、アイス奢るから」
「嫌だ」
「でももうアイス買っちゃった、今から行っていい?」
「わかった」
僕は内心すごく嬉しかった、夏休みの初日から会えるなんて幸先がいい。しかもあっちからの誘いで。五分もしないうちにインターホンが鳴る。母と君が話をしている声がして、しばらくしたあとに君が僕の部屋の引き戸を開ける。
 君はすごく真面目に宿題に取り組む。僕はTシャツの襟から除く日焼けをしていない君の白い肌やショートパンツから伸びる太ももから目が離せない。窓を開けているのに君の匂いが部屋にこもっていくような気がする。さっきまで遠かった雷の音がだんだんと近づいてきている。
 雨が振り始めたので僕は窓を閉める。雷は嫌い、と君が言って珍しく怯えた表情を見せる。部屋の中にいれば大丈夫さ。と僕は言う。いつまでも雷が鳴り止まなければいいと僕は思う。

 

          ◇

 

 海の底はすっかり夜になっていた。夜なのに、砂地は変わらず白く見えた。本当ならば海の夜の底は何も見えないはずだ。僕はその事をよく知っている。暗く、だいぶ冷たくなり始めた水の中で僕は今までよりもずっと近くにいる彼女を見る。僕は君の左の乳房の上の方にほんの小さなほくろがあることと、君の性器の周りに髪の毛と同じく真っ黒な陰毛が生え揃っていることを初めて知る。あんなにいつも近くにいるのに、僕は彼女について知らないことばかりだと僕は思う。彼女の踊りはだんだん激しくなっていて、まるでもがいているようにも見える。相変わらず君の顔は見えないままだし、僕は動けないし、声も出ない。僕はそのことで酷い喪失感と無力感に襲われる。
 僕の声は君には届かないし、僕の手は君に届かなかったのだ。

 

          ◇

 

 夏の終りに僕らは二人きりで花火をする。波打ち際ではしゃぐ君が花火を持ってくるくると回る。吹き出した炎がスカートのように広がって、まるで君はドレスを着たお姫様みたいに見える。波の音がいつの間にか消えていて、君は服を脱いでいる。そのまま君は暗く、冷たい夜のそこへ向かって歩き出す。僕は服が濡れるのも構わず君を追いかける。海が足首から膝、膝から腹、腹から胸、胸から頭へとだんだん迫ってくる。海の底は真っ暗で僕の前にいたはずの君が見えない。ぼくはガタガタ震えながら前へと進む。突然目の前に真っ白な君が現れる。僕はびっくりしたというよりも、ずっと夢の中で見られなかったその顔が見られたことにひどく安堵する。僕は海の底で冷たい君に抱きしめられる。君が耳元で僕にそっと呟く。それは「ごめんなさい」にも「ありがとう」にも「好きだよ」にも「さよなら」にも聞こえた。

そして夜の底から一筋の泡が立ち上っていって、海面を突き抜け空まで昇っていく。僕は独り、冷たい海の底からそれをいつまでも見つめていた。

 

そして僕は硬く白いベッドの上で目を覚ます。そして君に夏が来なかったことを知る。