本を紙で買え

本は紙で買うべきだ。

 

別に街の本屋の回し者ではない。

応援はしているけれど。

 

携帯性、本を手に入れるまでのラグのなさ、手に入れられる本の種類、どれを取っても多分電子書籍に負けてしまうけれど、それでも(すくなくとも)気に入った本くらいは紙で持っておくべきだ。

 

もちろんそれは紙の本を読んで育ってきた僕のワガママでもありこだわりでもあるのだけれど、これは僕のブログでまぁ基本的には何を書いたっていいわけだ。

 

紙の本には血肉がある。実在としての質量がある。時を超え、後々に残るだけの「重み」がある。本のページをめくる動きと本の内容を取り込む作業は僕の中で分かちがたく結びついている。スマートフォンの画面をフリックするのと紙をめくるのでは取り込める文章の密度が違う気がする。

もしかしたら、それはいつか「レコードで音楽を聞くこと」と同じくらい儀式的で限定的な需要しか持たない作業になるのかもしれない。

 

あるいはそのほうが、「本を読む」という行為に祈りにもにた切実さが加わるかもしれない。

 

勘違いされがちだけれど読書は決して他の趣味と比べて特別高尚な趣味ではないとおもう。(特に小説やエッセイはそうだ。実用書は読まないから知らない。)子どもの頃「本を読むと漢字が覚えられていい」「本を読んだおかげで成績が上がった」みたいな話を聞くたびに本当にクソだと思っていた。僕らが本を読むのは漢字や言葉を覚えるためでも知識をつけるためでも成績を上げるためでもない。僕らは本を読みたいから本を読むのだ。ここにはいないどこかの誰かになりたくて、会いに行きたくてページを開くのだ。

 

その切実な没入感を得るためにはやっぱり使い慣れた紙がいい。電子書籍電子ペーパーみたいな形になって白紙の本にデータをインストールできるようになったら乗り換えも考える。

 

紙の本の良さは本を並べたときに発揮される。本屋に並ぶ大量の背表紙、自分の本棚に揃えたお気に入りの本。趣向の凝らされた表紙、切り口の揃っていない新潮文庫のページを眺めて幸せを感じたことがある人も多いと思う。本は一つの作品なのだ。パッケージングされラッピングされた芸術作品。映画がDVDでも楽しめるように、本も電子書籍で十分楽しめる。けれどやっぱり映画館で見る映画、紙で読む本は体験として特別なのだ。

 

何より、文学少女が心地よい秋の日に読むのにタブレットを持っていたのでは締まらない。そこはやはり、紙の分厚いハードカバーを手にしていてほしい。

 

この文章は引っ越しの準備もしなければならないのに新しい本を買ってしまう自分を正当化するために書いた。

 

11/1は本の日らしい。紙の本、買いに行こう。