或る11月

 僕は机に向かって手紙を書いている。下書きは必要なかった。何百回、何千回と書いた文章だ。一字一句まで完璧に記憶していた。11月30日、時計の短針が、午後十時を少し過ぎた場所を指している。窓の外からは風の音一つ聞こえてこない。今夜は新月だ。月の輝く音もしない。あと2時間もすれば、いつも通り、11 月1日がやってくる。12月1日は、永遠に訪れない。

 この街は、ずっと11月を繰り返し続けている。どれくらい長いこと繰り返しているのかはわからない。ただ僕らは決められたままに何回も何回も、同じ11月を過ごしている。例えば、明日は朝から小雨が降って、夕方ごろに止む。僕の母は美容院に行く。父はスーパーの屋上で子猫を轢きそうになる。朝食は卵かけご飯で、夕食はハンバーグ。5時32分ごろに宅急便が来る。すべてはひと月前の明日と同じだ。

 11月に捕らわれていることはみんな分かっている。けれど、特段それをどうこうするつもりは(僕も含めて)誰にも無い。そもそも、どうすれば12月が訪れるのかわからないし、街の外には出られないのだ。今迄と違うことをしてみようとしても、ごく小さな変化は起こせるが、最終的にはいつも通りの11月に収束してしまう。例えば僕は明日の朝、卵かけご飯を食べないこともできるが、11 月の中で僕は絶対に9回卵かけご飯を食べることになる。8回しか食べないことはできないし、10回以上食べることもできない。この街はそういう風にできている。

 

            ◇

 

 「そんなのってなんだか気に食わなくない?」 

 この街から抜け出すことを諦めていない、たった一人の例外は、そう言った。そのセリフを聞くのも、もう何百回目かだったのだとおもう。

 「でも、どうしようもないだろ。明日は11月13日で僕は電車を一本乗り過ごして帰りが遅くなる。君は夜に僕にメールをしてくる。そういう風になる。いつも通りだ。」

 僕のこのセリフもおそらく何百回目かだ。いつもだったら、君は「まぁ、そうなんだけどさ」と言って引き下がる。けれどあの日はそうじゃなかった。

 「……私は、もう嫌。あなたがそうやって『いつも通り決まったセリフで返せばいいや』と思って私の話を聞いているのも嫌。クリスマスがいつまでたっても来ないのも嫌。……ねえ、二人でここから逃げ出しちゃおうよ。二人でクリスマスを過ごしてみたいの。」

 僕が君のことをもっと真剣に考えていたら、僕らは二人で11月から抜け出せたのだろうか?今となってはわからない。確かなことは、次の日、僕は予定通り電車を乗り過ごし、君からメールは来なかったということだけだ。そうしてそのまま君はいなくなった。君はうまいことやったのだろう。君がいなくなったことに街は気が付かなかった。次の月初めから、「君が居たこと」だけが失われた11月が始まった。

 僕も何度か君のあとを追いかけて11月を抜け出そうとした。けれど、できなかった。君はどうやって抜け出したのかを僕に教えないうちにいなくなってしまった。卵かけご飯を月に9回食べるだけの生活が僕に残された。


            ◇

 

 君がいなくなってから何回かした後、僕は手紙を書き始めた。出す当てもない、引き出しの奥にしまい込まれるだけの手紙だ。それはこんな風に始まる。

『前略

 君は12月にたどり着けただろうか?君の事だから、なんだかんだ上手くやって今頃クリスマスや正月や、もしかすると夏くらいまで満喫しているころかもしれない。僕は今日も夏をモチーフにした音楽を聴いた。自分が実際に夏を過ごしたのが一体いつだったのか、そもそも、僕は本当に夏を過ごしたことがあるのかどうかすらも怪しいけれど(僕の記憶はもしかしたら作られたもので、僕は22歳の11月しか過ごしたことがないのかもしれない)僕はやっぱり夏が好きだ。青い海、白い雲、肌を焼く太陽の光。どれもこれも懐かしい。

 君がいなくなってからもここは11月のままだ。何度も何度も同じような日々を過ごしている。8日には僕はちょっとした怪我をしたし、22日ごろには雪が降る。積もらないとわかってはいるけれど、まあ、結構煩わしい。今日は月末で、この手紙も明日にはなかったことになってしまう。ひどい話だ。

 君が最後に言っていたことを何度も思い出している。僕がもう少し君の話をちゃんと聞いて、二人でここから逃げ出せていたとしたら、どうなっていたのだろうと考える。二人でクリスマスを過ごすことができただろうか?案外、僕はプレゼントを選ぶセンスが壊滅的だから、それが原因で君を怒らせてしまっていたかもしれない。ただ、君のことだから、ケーキを食べたら機嫌が直るとは思う。 

 君がいなくなってからずいぶん経つというのに、僕は君がいたころの11月がどうにも忘れられない。来ないはずの連絡を待ってみたり、君と毎度通っていた喫茶店をのぞいてみたり、もらった腕時計の文字盤を意味もなく眺めてみたり。そうそう、腕時計のベルトは毎回、月末になるとちぎれそうになっている。これじゃあよくあるラブソングの情けない男みたいだな、と一人で笑ってしまう。

 今更になってわかったことだけれど、僕がこのどこにも行けないクソみたいな世界を、かろうじて好きでいられたのは君が居たからだったらしい。ひとりでぼんやりと生きていくのには、この街は少し寒すぎるみたいだ。(君からしてみれば、いなくなってから気が付くくらいなら、もっと私を大切にしておけばよかったのに。なんて都合のいい男!と思うかもしれないが)

 結局、僕らは、手に入れた幸福について、いつも注意していないとそのありがたさを簡単に忘れてしまう生き物なのだと思う。僕は本当にどうしようもなく愚かで、こんな風にいなくなった君のことをいまでも本当に好きなのだと確認しながら手紙を書いている。いちども手紙なんて書いたことが無かったくせに。徹底的に手遅れで、君に届かないと知っているくせに。本当に女々しい話だ。 

 11月17日には「ライ麦畑でつかまえて」を読むのが、君がいなくなったあとで僕の行動に付け加えられた。基本的にどのページもすごく良くて、何度読んでも面白い。中でも僕が好きなセリフはこんなのだ。

 

 『ーそれでもまだ僕はあいつのことが好きなんだ。それがいけないかい?誰かが死んじまったからって、それだけでそいつのことが好きであることをやめなくちゃいけないのかいー』

 

 ライ麦畑の端っこにある崖から落っこちそうになっていたあの日の僕を捕まえてくれたのは君だった。君がいないライ麦畑はきっと鮮やかな黄色の抜け落ちたすごくつまらない景色なんじゃないかと思う。たぶん、何を言っているのか伝わらないと思うけど。僕にとって君は本当に「キャッチャー・イン・ザ・ライ」そのものだったんだ。実際のところ本当にそうだったんだ。

 もしいつか、僕がうまくこのくそったれた街の11月から抜け出せたら、君に謝らなきゃいけないことがたくさんある。そばにいてくれることを当たり前だと思っていてごめん。その優しさに甘えて冷たい態度をとったりしてごめん。もっと君の話をちゃんと聞けばよかった。あの日、「抜け出そうよ」って誘われた手に気が付けなくてごめん。謝ることは僕の自己満足にしか過ぎないかもしれない。それでも、本当に悪いことをしたと思っている。

 君の12月が、1月が、春が夏が秋が冬が、そしていつか訪れる11月が幸せなものであったらいいと、僕は心から思う。それじゃあ、また会えること祈って。』


           ◇

 

 そこまで書いて、僕はペンを置く。机の上の時計は11時55分を指している。あと五分もすれば、また11月が始まる。君のいない、287回目の11月だ。僕は届くことのない、どうしようもなく手遅れになってしまった手紙を机にしまい込む。

 

その夜、夢を見た。僕が大好きだった、君の声が聞こえた気がした。