蛍・東京

 東京では一体いつどこで蛍が見られるのだろう。僕はそういうことについて全然知らない。
 まだ5月の中旬のくせにやけに暑い。寝転がっていると、うっすら汗ばんだ背中に服もシーツも張り付いてきて気持ちが悪い。冷房を付けようかと思ったけれど、起き上がって電気を付けてリモコンを探す手間を考えると、このまま暑さに耐える方がマシな気もした。
 「わたし蛍が見たいって言ったの覚えてる?」
 さっき電話で彼女は僕にそう尋ねた。そういえば連休中にそんなことを言っていた気がする。
僕がそれになんと答えたのか、よく思い出せない。正直な話をするなら、僕は暑い中、わざわざ光る虫を見に出かけたくはない。
 もちろん、そんな風には答えていないはずだ。正直さは美徳の一つに数えられていることが多いけれど、僕から言わせればそんなものクソ食らえだ。
 さて、「蛍が見たい」と言われて僕はなんて返したんだっけ。それはとても重要なことだと、本能が告げている。彼女が意味もなく僕にそれを覚えているかどうか確認するとは思えなかった。
小さな忘却が、知らない間に作っていた擦り傷のように煩わしく痛む。

            □

 「仕事が忙しくて、あんまり連絡できなくてごめんね。」
 そう言って電話を終えた彼女からそれでも「おはよう」と「おやすみ」だけは毎日律義にメールが来る。几帳面な彼女らしい。新社会人ってのは大変なんだろうな、とぼんやり考える。院生の僕にはうまく想像できない。二年後、あるいはもう少し経ってから僕も社会人になるのだろうけれど、その実感は全く湧かない。この間まで一緒に大学に通っていた彼女や友達が社会人をやっているのだって狐に化かされているような気分になる。
 彼女は連休中でも夜は日が変わる前に眠って、朝6時には起きていた。春休みまでは僕と同じ夜型だったはずなのに、すっかり健康的な生活習慣になっていて驚いた。
早く起きるのは構わないけれど、僕のことまで起こすのは勘弁してほしい。夜型に6時起きは苦行だ。
「だって休みの間しか一緒に居られないのに眠ってたら損じゃない?」
 そんな、わかったようなわからないような理屈に説得されて、僕も連休中は6時に起きていた。もちろん、連休明けにすぐ夜型に戻った。ちなみに今は午前1時15分だ。
 連休中は結局どこにも遠出はしなかった。人込みの多い場所は二人ともあまり好きではなかったし、どちらかの実家に二人で帰省するほどの関係ではない。近くの喫茶店カラオケボックスには行ったけれど、大体の時間学生時代みたいにワンルームの僕の部屋でだらだらと過ごしていた。
いつもそうだけれど、大体彼女が遊びに来た初日は部屋の片づけで午前中が終わる。僕は部屋が散らかっていても気にならないのだけれど、(腐るものは放置しないというたった一つのルールさえ守っておけばそんなに悲劇的なことにはならないのだ。)彼女に言わせれば「度が過ぎている」らしい。おかげでキッチンや布団の周りがきれいになるので、僕としても文句はない。
 「明日から仕事やだなあ。行かなきゃダメかな。」
そんな風に過ごした連休最後の日、彼女はそう言った。昼というのには遅すぎて、夕方というのにはまだ日が高かった。僕はパンツだけ履いていて、彼女は何も身に着けていなかった。部屋の中が蒸していて窓を開けたかったけれど、きっと彼女が服を着るまでは絶対に開けさせてくれないだろうなと思った。
彼女の「仕事に行きたくない」というぼやきを聞きながら、二人で使うと布団は狭いな。ベッドにはダブルサイズがあるけど布団にもあるのかな、あってもこの部屋じゃ置けないな。みたいなことを考えていた。
「晩御飯、食べに行く?奢るよ。」
「学生に奢ってもらうのは背徳感があっていいかも。……でも、明日もはやいし、今日は家で食べよっかな。一人で過ごす勘を取り戻さないとね」
 彼女はそう言って笑った。
「次会えるのはいつかなぁ。」
「いつだろ。僕はいつでも暇だけど。」
「いいなぁ、ずるい。」
「……ごめん。」
彼女だって忙しくしたくてしているわけじゃない。僕は自分の軽率な言葉を恥じる。
西日が部屋に差し込む。彼女は僕に背を向けていて、どんな顔をしているのかわからない。
「……わたし、蛍が見たいな。」
沈黙を破るように彼女が小さくそうつぶやく。
「蛍?」
「うん、蛍。それなら夏休みより前だし。見るために遊びに来る。」
「……わかった。どこで見られるのか調べておくよ」。
「本当?楽しみにしてるね。」
僕は彼女の笑顔と約束をやっと思い出す。

            □

僕らが誰かと未来の約束をするのは、それが「愛してる」なんて言葉よりもずっと雄弁に誰かへの愛を伝えるからだ。
僕は自分のやらかしたことの大きさを悟って、慌てて携帯電話で東京の蛍について調べる。
まだ、間に合うだろうか?