自由とウミガメ

「君は、自由でいいね」

そんな彼女の言葉がここ何日か頭から離れない。
どうして古い友達である彼女と電話をすることになったのか、よく覚えていない。たぶん、ビールを飲みすぎたんだと思う。

久しぶりに聞く彼女の声はあの頃と何も変わっていなくて、そのことが僕をひどく懐かしい気持ちにさせた。

「君は今、東京にいるって、話に聞いたよ」

彼女は言う。僕は缶に三分の一くらい残ったビールを飲み干しながらそれを聞く。何本飲んだか、4本目から数えるのはやめてしまった。

「うん。東京に来てみたくなって。」

「大学が北海道だったから、そのままずっと北海道にいるか、地元に帰るのかと思ってた。」

なんで東京に行くことにしたの?と改めて聞かれて僕はそのことについて考えてみる。どれだけ考えてみても、僕が東京に「来なければならなかった」理由は一つも見当たらなかった。僕は東京に「来たかった」のだ。別に大学のあった北海道や地元が嫌いだったわけではない。むしろ土地も、そこに住む人たちのことも僕は好きだった。

「僕は、なんとなくだけど、自分の能力とか、そういうものがちゃんと世界で通用するのか試してみたくなったのかもしれない。どこにいたってそういうことはやり方によってはできるんだろうけど、東京に来るのが一番手っ取り早く思えたんだな。」

考えると同時に、口をついてそんな言葉が出る。自分で口にした言葉を聞いて「なるほど僕はそんな風に考えていたのか」と気が付く。

彼女はしばらくの間、何も言わなかった。開けっ放しの窓からは、どこか遠くの夜を駆ける救急車のサイレンが聞こえてきた。昼間あんなにうるさく鳴いていた蝉の声はいつの間にか止んでいた。

「君は自由でいいね。それはすごく恵まれたことなんだよ。」

彼女がどんな思いでその言葉を口にしたのかはわからない。僕は彼女の誕生日も知らない。どんな過去を生きてきて、その言葉を口にしたのかはわからない。きっと、これからも知ることはないだろう。

ただ、彼女がとても優しい女の子じゃなかったとしたら、きっとものすごく怒っていたであろうことが僕にはわかった。

彼女がそういうことを言ったのはそれきりで、そのあとはなんのことはない世間話をして電話は終わった。

僕はアルコールで酩酊した回らない頭で、彼女の言葉について考えてみる。僕は自由で、恵まれていて、そのことに気が付いていないのだろうか?

毎日決まった時間に起きて、決まった手段で決まった場所に行って、決まった仕事をする僕が自由だとは思えなかった。

火を点けたばかりの煙草の煙が、無駄に高い部屋の天井に向かって消えていくのを見ていた。敷金が戻ってくるといいな、とそんなことを考えた。

      ◇

大学生の休みが長すぎるのか、あるいは社会人の夏休みが短すぎるのか、それは分からないけれど、とにかく社会人の夏休みは短かった。土日を含めて5日間。しかも平日に被る分は有給で消化した。やれやれ、あと何十年もこんな調子なのだろうか?気が滅入る。

ただそれはそれとして、僕は夏休みが夏休みであるというそれだけの理由でそれを愛することができた。それはたぶん、恋心に似ている。好きな相手が変わってしまったからと言って簡単には嫌いになれないものだ。僕は5日間になってしまった夏休みのこともそれなりに好きだった。

特に予定もなかったから、海沿いの街に行って何日間か過ごした。夏休みに海に行かないでどこに行くというのだろう?毎日昼前から海岸に行ってビールを飲んだり、古本屋で見かけた分厚い小説を読んだりして過ごした。

波打ち際で寄せては返す波と戯れたりもした。夜は宿に帰って浴びるようにビールを飲んで、泥のように眠った。

その間僕はずっと「君は自由でいいね。それはすごく恵まれたことなんだよ。」という言葉について考えていた。あるいは、僕はその僕の持っている自由さを実感したくて海沿いの街で夏休みを過ごしたのかもしれなかった。

そんな風に何日かを過ごして、帰る日の夕方、砂浜で死んだウミガメを見つけた。あおむけにひっくり返って、くたびれたぬいぐるみのようになったウミガメの腹は、波で濡れて、西日を眩しく反射していた。

「どんなふうに生きて、ここにたどり着いて死んだのだろう。」

とウミガメの生について思う。

「こんなところで死んでかわいそうに。」

生きていた間、知りもしなかった癖に、僕はその死に悔やみを述べた。

「かわいそうじゃないよ。」

いつの間にか僕の後ろに二人組の中学生くらいの女の子が立っていて、僕にそう言う。

「かわいそうじゃないか。こんなところで野垂れ死んで。」

二人は小さく首を横に振る。その動きが二人ともぴったりそろっていて、僕はそのことに恐怖を覚える

「この子は、自分で生きるところを決めて、網にもかからず、ここで死んで海にかえるの。それは自由で幸せ。」

「僕にはわからないな。」

僕はやれやれと芝居がかった身振りを付けて首を振る。

「あなただって自由なのに。」

またそれかよ。と思わず舌打ちをしたくなる。なんだってみんな僕を自由だと思いたがるんだ。

気が付くと二人は消えていて、僕と死んだウミガメだけが砂浜に取り残されていた。

     ◇

宿に戻ると、テレビの映画チャンネルで北野武の「HANA-BI」を放送していた。僕はビールを飲みながらそれを見て、夕方の死んだウミガメのことを考えた。海で生きて海で死ぬことがウミガメの自由で、幸せなのだろうか。僕は生きる場所を自分で決めているのだろうか。

思えば、僕は「行きたいから」という理由で大学を選んで、自分の行ってみたい街でやってみたい仕事に就いた。そういう意味で僕は自由だ。ただ、それが彼女やあの二人組のいう「僕の自由さ」なのだろうか。僕にはわからなかった。誰も、僕に答えを教えてはくれない。


もしそうだとしたら、僕はそれを認めるのが怖くなった。すべて、今の現実ー毎日決まった時間に起きて、決まった手段で決まった場所に行って、決まった仕事をすことでさえ、僕の選択の結果で、それ以上でもそれ以下でもないことを認めることが怖い。

画面の中で乾いた銃声が二発響いた。