腕時計

 

 蝉が命を燃やす音が聞こえなければ、多分ずっと眠っていただろう。
 目覚まし時計が止まっていたせいで、その人のことを思い出した。

 彼女は僕が入社して一番初めに配属された部署の二つ年上の先輩で、とても軽やかにパソコンのキーボードを叩く人だった。僕は彼女ほど心地良い音でタイピングをする女性をまだ知らない。彼女の細い指先が奏でるリズミカルな打鍵音は、午後3時頃になると僕の眠気を誘った。
 それに気が付いたのは初夏のことだったと思う。彼女はいつも左腕に銀のベルトの緩い腕時計をつけていたが、時間を確認するときには必ず携帯電話を使っていた。
 「先輩って腕時計見ないですよね。」
 長い会議(長いだけで何も決まらない、本当に酷い会議だった)を終えて、二人で昼を買いに出掛けるため乗ったエレベーターの中で僕は何気なく聞いた。
 「実はこれ壊れてるの。」
 そういって、ワンフロア分ずつ減っていくデジタルの数字を眺めていた彼女は僕の方をちらと見て微笑んだ。眉をハの字にして少し困ったように笑うのが先輩の癖だった。
 その理由を尋ねようとしたとき、どことなく間抜けな音がしてエレベータの扉が開いた。一回のロビーは、冷房の効いた会議室やエレベーターの中とは違って蒸し暑かった。
 「わ、暑いね。」
 外に出ると、日差しが容赦なく僕らを突き刺した。先輩がそれを遮るために突き出した左手首で反射する銀の時計の輝きが太陽より眩しかった。



 腕時計の秘密を知ったのはその年の冬だった。
 職場の忘年会で、先輩は見事に酔いつぶれて2次会が終わるころにはほぼ半分以上眠っていた。上司や他の先輩は「ここから先は25にもなってない若者にはまだ早い」と言い残し、一番若い僕に彼女の世話を押し付けて夜の街に消えていった。
 僕は上司が残してくれた二次会の釣り銭とレシートを握りしめ、先輩を背負って駅に向かった。「コートに化粧がついちゃうかも、迷惑かけてごめんね」温かい塊が耳元でそう呟くのが聞こえた。迷惑ではなかったけれど、想像より2割増しで重い彼女のぬるい体温が僕を混乱させた。
 首から回された手首にいつかの腕時計が巻き付いているのを見て、それが止まっていることを思い出した。
 「なんで止まった腕時計着けてるんですっけ」
 背中にもたれる柔らかさから気をそらしたいのもあって、僕は彼女にそう尋ねてみる。
先輩は今にも溶けてしまいそうな、眠たげな声で話し始めた。
 「これね、学生時代に付き合ってた男の子に貰ったの。もうずいぶん前に別れたんだけど、なんだか捨てられなくてずっとつけてる。女々しいでしょう?」
 「別にいいんじゃないですか。『死んでしまったからと言って、それが好きでいることをやめる理由にはならない』って何かの小説に書いてありました。」
 「それってすごく有名な小説じゃない?……でもね、実際のところ私は彼のことがまだ好きとか、そういうわけじゃないんだ。多分私はずっと大人になりたくないだけなんだよ。何にも責任なんて取りたくないし、毎日昼まで寝てたいし、休みの日は散歩して野良猫を見かけたら構って生きていたいの。そういうことができてたあのころを忘れないように、青春の墓標として私はこれを外せないんだと思う。」
 「……そういうのわかりますよ」僕はしばらく間を置いてからそう答える。
 「ほんとうに?君って誰にでもそういうこと言うんでしょう?」と先輩は笑った。
 東京では雪が降らないから、僕は何も答えなかった。



 止まった目覚ましを八つ当たり気味に放り投げて、携帯電話で時間を確認するとどうしたってもう会社には間に合わなかった。僕は電話を一本入れて有給を取ることにする。
 先輩はあれから二年経った今年の春に会社を辞めた。僕はもう違う部署になっていて、話す機会もほとんどなかった。ただ噂に聞いた話では、結婚や転職といったそういう話ではないらしかった。 
 上司の嫌味を聞き流しながら、部屋の白い天井を見上げて先輩のことを思う。彼女はいつだったか地元が北海道だと教えてくれた。ここよりもずっと涼しくて広い街を歩く彼女があの腕時計を外せていたらいいな、と思った。