それは枯れた花束のように

 テレビの横に置かれた萎びた花束が目に入る。時間に洗われて、飾られた当初の鮮やかさは抜け落ちつつある。俺には、うなだれる花が何かに謝罪し続けてているように見えた。
 女に花を贈ったのは初めてだった。今まで母の日にでさえ、俺は花を買った記憶がない。年下の女を喜ばせるために花を買う男。改めて言葉にしてみるとそれはひどく滑稽に聞こえた。   
 
 ベッドに残された女の昨日の抜け殻を床に落として寝転がる。夕暮れの薄暗い部屋の中に冷蔵庫の唸る音だけが響く。女が今、何をしているのかはわからない。おそらくは講義だろう。時間割も何度か見せられていたが、未だに覚えられていない。もう今学期も終わりだというのに。
 
                ◇

 

 俺は女に花を贈った夜のことを思い返していた。成人式に出るために地元に戻っていた女を駅まで迎えに行く前に、花屋に寄って買ったそれを、俺は机の上に置いておいた。二人で俺の部屋に戻る。玄関先で激しくキスをして靴を脱ぎ、部屋の電気をつけて、女は花束に気が付いた。
「凄い!もしかしなくても私にプレゼント?」
という弾んだ声を聴いて、俺はこっぱずかしさを堪えて花屋に行った甲斐があった。と、そう思う。「凄い凄い」と言いながら携帯電話で花束の写真を撮り、SNSに投稿する女の横顔や、頭を撫でたときに指先に感じる髪の艶やかさ、そしてベッドの中で抱きしめたその懐かしい体温を通して、俺は幸せのすべてが理解できたような気がした。


                ◇
 不意に部屋の電気が付いて、微睡から引き戻される。どうやら眠ってしまっていたらしい。
「あ、ごめんね。寝てた?」
帰ってきた女がそう笑いかける。コートを脱いでハンガーにかけながら、女は俺が床にけり落した彼女の服を見て口を尖らせる。
「あ、蹴って落としたでしょう。まぁ脱ぎっぱなしにしてた私が悪いけど。」
「あぁごめん。」
女が近寄ってきて、俺の乾いた唇にキスをする。真っ赤な口紅のべたつきがかすかに残る。
女は花束にはもう目もくれない。きっと、いない間に片づけておいても気が付きはしないのだろう。
俺は愛しい女の唇に今度は自分からキスをする。女は俺の手を取り、指を絡める。花の枯れていく、音が聞こえた。そんな気がした。

ひなげし

成人式で見た彼女は僕の知らない女になっていた。

 

ダサい丸メガネをアイラインに、野暮ったい三つ編みを明るい茶髪のふんわりした髪型に、揃いの修道女みたいな制服を派手なドレスに変えた彼女が誰なのか、僕にはわからなかった。

 

 彼女のほうから声をかけて来なければ、おそらくそれが彼女だと気が付かなかっただろう。立食形式のパーティー会場で目が合うと、彼女はまっすぐ僕に近づいてきた。

「おい、あれ誰だ?」

「あんな垢ぬけた子、俺らの学年にいたか」

「おいこっち来るぞ」

僕の周りの男たちのそんな声を無視して、いささか近すぎるくらいにまで近づいて彼女は口を開く。大学でよく見る、僕からするといまいち顔の区別もつかない女が纏うような甘い匂いがする。それが鈍い頭痛を誘った。

「久しぶり。私が誰だかわかる?」

その懐かしい声で目の前の見知らぬ女があのころ一番長い時間を過ごした君なのだとわかる。

 

あぁ、彼女も変わってしまったのだ。僕がそうであるように。

 

             ◇

 

「あ、ねえ、あの花知ってる?」

隣を歩く彼女が花壇を指さす。そこに咲いていたのは薄い花びらを持つ赤い花だった。

「いや、知らないな。見たことはあるけど名前までは…」

「あれはね、ひなげし。私の名前と似てるでしょ。」

これで覚えたでしょう?と言いたげに彼女はにっこり笑う。そのあどけない笑顔はどちらかといえば「可愛らしい」と称されるのがふさわしいもので、ひなげしのどこかグロテスクな美しさとは対極であるように思えた。

 

              ◇

 

ベッドの上で白い下着を剥ぎ取る。甘い官能的な匂いが強くなる。色めいた吐息が耳にかかる。変わってしまった女の変わらない声が僕の名前を呼ぶ。やめろ、彼女の声でその呼び方で僕を呼ぶな。僕はそうすればかつての彼女が帰ってくるような気がして、彼女の名前を呼ぶ。その呼びかけに応えるようにきつく締まる知らない女の中で僕は果てる。

 

だらしなく寝転がっていると女が微笑みかけてきた。一輪のひなげしがそこに咲いていた。

 

Simply having a wonderful Christmas time

先輩にクリスマスイヴに呼び出されたので、ほんの少しだけ期待に胸を膨らませて出かけていった先で俺はサンタクロースのコスプレをさせられた。なんでもケーキを売る単発バイトで一人無断欠勤が出てシフトに穴が開いたらしい。

断ろうと思ったが半泣きの先輩を見捨てるわけにもいかずいやいや俺はサンタクロースになった。

 

ファッキンクリスマス。そんな悪態を吐きながら俺は先輩と二人で粛々とケーキを売る。騒がしいクリスマスソングが耳障りだった。

ケーキを買っていく奴らはみんな揃いも揃って笑顔で一体何が楽しくてこいつらはこんなに浮かれているのだろう?と俺は不思議に思う。雀荘とコンビニと家を往復するだけの俺にはわからない類の楽しさがクリスマスにはあるのだろう。俺も子どものころはクリスマスを楽しんでいたっけ、毎晩飲んでいるアルコールで痺れた頭ではうまく思い出せなかった。少なくとも今は「イイ子」にしかプレゼントをやらないサンタクロースなんてただのクソジジイだ。俺はそう思う

恋人つなぎを会計の間も決して離さないカップルにケーキを売り付けた途端、なんだか急に働いているのが馬鹿らしくなった。先輩がミニスカサンタだったらやる気が出たかもしれないが、あろうことか先輩はトナカイの着ぐるみを着ていた。

トイレに行ってくると告げて売り場を離れる。先輩は何か言いたげな顔をしていたが、ちょうど客が来たおかげでうまく逃れられた。俺は煙草を吸おうとデパートの外の喫煙所へ向かう。店の中はどこもかしこもクリスマスクリスマスクリスマス正月クリスマス。まったく頭が痛くなる。

 

 

外では雪が降り始めていた。煙草を取り出そうとポケットに手を入れる。おかしい、出かける時、確かに入れた煙草が見当たらない。正確には、手触りはあるが箱が取り出せない。俺はそこで自分がまだサンタクロースの格好であることに気がついた。道理でさっきからすれ違う人がちらちらこっちを見てくるわけだ。クリスマスなんて糞喰らえと思っている俺が、街を歩く人たちの中で一番それに似つかわしい格好をしているのはあまりに皮肉で笑えた。

早くこの馬鹿げた衣装を脱ぎたい。そう思い、早足でトイレを探しているとふいに服の裾を引っ張られた。振り向くと予想よりもずいぶん低い位置に俺の裾を引いたそいつの頭があった。

「サンタさん…ママいなくなっちゃった…」

そういって小さな女の子は今にも泣きだしそうな顔をしている。それがなんだか俺にバイトを頼んできた先輩の顔と被った。

 

「迷子か。サービスカウンター行けばいいのか?こういうの…」そう独り言を口にしたものの、女の子がそんなことを知るわけがない。知っていたら俺を頼らない。

そのまま放っておくのもなんだか寝覚めが悪くて、俺はその子の面倒を見ることにする。クリスマスだろうと何だろうと、子どもは無条件に幸せであるべきなのだ。それは捻くれた俺に残った数少ない良心だった。何も悪いことをしてない奴が不幸になるような世の中はクソだ。

 

俺は「一緒に探してやるから泣くなって。」と女の子に言い聞かせて手をつなぐ。あぁ、迷子センターに連れて行けばいいのか。どこにあるかわからないけど。

手を引いて歩いていると、「サンタさん歩くの早い。」と文句を言われる。歩幅が違いすぎる相手と人は並んで歩けないのだ。それは大人同士でも。

 俺は手を繋いで歩いているのがめんどくさくなって手を放す。なぜ手を離されたのか分からないといった顔の女の子の前でしゃがんで、自分の背中を指さす。

「おんぶしてくれるの?」

「あぁ。早く乗れよ。サンタの背中に乗るなんて滅多にないチャンスだぞ。」

背中に恐る恐る、といった感じで重みがかかる。肩に手が置かれたのを確かめて立ち上がる。

 

 

「今日はね、ママとパーティーの準備しに来たの。今夜はパパも早く帰ってくるって。」

「そりゃよかった。」

「サンタさんは今夜大忙しだよね。準備できてるの?」

「…まぁぼちぼちかな。トナカイも今ケーキ捌いてるとこだろ。」

女の子はさっきまでの泣きそうな顔がまるでウソ泣きだったかのようにケロッとしてよく喋った。迷子センターに着く頃には俺は今夜のプレゼント配送の予定をすっかり想像するハメになったし、ありもしないプレゼント製造工場の話まででっちあげることになった。

 

 

迷子センターに少女を預けてその場を立ち去ろうとすると、また裾を引っ張られた。どうやら母親が来るまでここに居ろ、ということらしい。

「わたしいい子にしてたし、プレゼントもらえるかなぁ。」

「貰えるだろ。いい子にしかプレゼントやらないなんてケチくせぇ。どうせやるならみんなにやりゃいいんだ。」

「サンタさんなのにいい子じゃなくていいなんて、変なの。」

「うるせぇ。サンタクロースにもいろいろあるんだよ」

 

 

お決まりの迷子放送をかけて十分もしないうちに女の子のママは迎えに来て、ちょっと引くくらい俺は感謝される。バイバーイ、ありがとうサンタのお兄ちゃん。と手を振る後姿を見届けてから、すっかりサンタクロースになった自分を思って苦笑いする。

 

店内でかかっているクリスマスソングがいつの間にか流行りのJ-POPからポールのWonderful Christmas Timeに代わっていた。へぇ、なかなかセンスのいい曲をかける奴もいるじゃん。そう思いながらトナカイのところへ戻る。俺は今、サンタクロースなのだ。役目は果たさねばなるまい。

 

トナカイは戻ってきた俺を見つけると顔がぱっと明るくなってすぐ怒った顔になって最後に例の泣きそうな顔になった。

「よかったぁ、すっぽかして帰っちゃったのかと思った。」

「まさか。トナカイだけにプレゼント配りさせたりしませんよ。」

ところで何してたの?と尋ねる先輩に「ちょっとサンタクロースして来ただけです」と答える。それってどういうこと?あとできかせてね、という先輩をあしらって俺はケーキを売る。

 

ファッキンメリークリスマス。俺は久しぶりにサンタクロースという幸せな嘘とクリスマスというお祭り騒ぎが少しだけ好きになれたような気がした。

la petite mort


腰に回された硬い腕の感触で目が覚める。枕元の彼の好みで買った深緑の目覚まし時計は午前二時半を指していた。彼の腕をそっと外して気怠い身体を起こす。シングルベッドが小さく鳴いた。

 

彼とこうして寝るのは何度目だろうか。初めのころは手帳に小さくハートマークを書いたりしていたものだが、今思い返すとあまりに可愛らしくて笑えてしまう。きっと数ヶ月前の私はポイントカードのようにハートマークを集めていれば、自動的に「恋人」という景品が手に入ると勘違いしていたのだろう。

 

布団から出るとむき出しの肢体に冷たい空気が絡みついてくる。私はベッドの下に無造作に投げ捨てられたパジャマと下着を身に着ける。明日の朝、彼は私の下着の色を覚えているだろうか?

 

 

蛇口を捻るとワンルームの部屋に水音が響く。そういえば今夜は酷く静かな気がする。いつもなら聞こえてくる車の音も、歩行者用信号から流れる鳥の鳴き声も、酔った大学生の楽しそうな話し声も聞いていない。

 

透明なガラスのコップをシンクの上に置き、ベッドの横の大きな窓にかかるカーテンを捲る。

窓の向こうでは深々と雪が降っていた。そっか、雪は音を吸い込むって昔何かで読んだな。何時の物かわからないそんな朧げな知識がどこかから顔を出す。


堕ちる雪をできればずっと見つめていたかった。美しいものは、孤独や哀しみや虚しさのうち幾分かを肩代わりしてくれる。

 

でも、五分もたったころだろうか、寒さと眠気が美しさに勝った。私たちは映画の登場人物ではない。美しい雪を見つめていても画面はフェードアウトしない。連続性の持つ俗っぽさと様々な雑事をこなして、私は生きていかなければならない。

 

彼の体温で温まった布団に潜り込む。男の人は冷え性になったりしないのだろうか。暖かな彼の足先に自分の足先を絡めながらそんなことを考える。

横になって彼にくっつくと、すぐに大きな腕が伸びてきて私を包み込んだ。寝ていても自然にこういうことをするあたり女たらしだよなあと思う。

 

 

ねぇ、あなたは誰を想って私を抱いているの?あなたの瞳に私はちゃんと映ってる?

 

 

いつまで経っても「好きだよ」の一言も言ってくれない唇を見上げて私は不満を小さく口にしてみる。

当然、幸せそうに眠る君は何も答えない。

 

明日、目が覚めたら、私の下着の色を覚えているか聞いてみよう。
そしてもし覚えていたら、私から好きだと言ってみよう。


あなたが夢の中で抱きしめている女の子も私だったらいいのに。そんなささやかな願い事をしながら、私もそっと目を閉じた。

渇いたキス


行為が終わった後、ベッドに腰かけてサイドテーブルの上の煙草に手を伸ばす。オイルライターのひんやりとした温度が火照った手のひらに心地よく伝わる。手入れの手間はあるが、僕は使い捨てライターではなく、オイルライターで煙草を吸うのが好きだ。それが魅力的な女の子と寝た後ならなおさら。

必要以上の手間をかけて煙草を吸うことは、儀式的な要素がその行為をより高尚に見せるという点においてセックスと通じるものがある。

 

洗濯したての白いシーツの上に寝そべってスマートフォンをいじる彼女の顔が青白いバックライトに照らされている。初めてのころは終わった後もお互い何だか気が張っていたが、最近は心地よい倦怠感と安堵が少しだけ甘い雰囲気の残る部屋を満たすようになった。

 柔らかな彼女の背中越しにスマートフォンの画面を覗き見る。僕の知らない女優が結婚したニュースで画面の向こう側は賑わっていた。

 

起き上がって煙草の灰を発泡酒の空き缶の中に落とす。締め切った部屋の天井に半透明の煙が吸い込まれていく。

「ねぇ、煙草っておいしいの?」

半分身を起こして足元に脱ぎ捨てられた水色の可愛らしい下着を身に着けながら彼女がそう尋ねる。

「おいしいよ。吸ってみる?」

僕はそう言って半分ほどの長さになった煙草の吸い口を彼女に差し出す。

彼女はしばらくその吸い口と差し出した僕の指を見つめていた。常夜灯が付いただけの薄暗い部屋の中に煙草の紅い火が泳ぐ。

 

少し不自然なくらい長い沈黙の後で彼女が口を開く。

「口移ししてみてよ、煙。」

「絶対むせるよ。それにたぶんおいしくない。」

普通に吸えばいいのに。と僕が言うと、彼女は気持ち悪いって言わないでねと前置きをした上でこう言った。

「私の吐息にもあなたの印を付けてほしいの。首にキスマークをつけるみたいに。あなたの煙で私に印をつけて。」

「それはちょっと気持ち悪いかも」

だから、気持ち悪いって言わないでねって言ったじゃない。そう言って膨れてそっぽを向いた彼女の顎に手を添えて振り向かせて唇を重ねる。もちろん口にはいつも吸い込むよりも少しだけ多くの煙を含んで。吸い込みすぎたせいか、それはいつもよりも尖った味がした。

案の定ひどくせき込んだ彼女がするなら言ってよ、と抗議の声を上げる。僕はそれを無視して煙草を吸い込む。背中から伝わる温度が心地よかった。

 

                 ◇

 

僕は今でもあの銘柄を吸うたびに僕の煙でむせていた彼女を思い出す。

結局僕らはうまくいかなくなってしまったけれど、決して険悪な別れ方をしたわけじゃなかった。もしかしたら、またいつか僕らの道が重なることもあるかもしれない。

 

どうかその日まで、彼女の肺が僕の煙でだけ汚れていますように。彼女があの煙草の匂いを嗅いで思い出すのが僕でありますように。

 


「髪、切ったんだね。」

僕は肩ほどまでもあった彼女のつややかな黒い髪に思いを馳せる。

「そうなの。彼、短いほうが好きだっていうから。」

そう言って彼女は柔らかそうなボブの毛先を指先でもてあそぶ。そういえばあいつは昔からショートヘアの女の子が好きだった。確か、中学の頃に好きだったテニス部のあの子も、高校で付き合っていた胸の小さな図書委員の後輩も髪の短い女の子だったような気がする。

 

もちろん僕は乙女心がわかる男なので、彼女の恋人の昔の女の話など持ち出さない。

彼女に話せないようなあいつの話なら、他にも山ほど知っている。中学から大学まで一緒なのだ。当然あいつも、僕が漫画の主人公に憧れて魔法の詠唱を練習していたことや、高校の卒業式にクラスのマドンナに告白して、手酷くフラれたことを知っている。

もっとも、僕があいつの秘密を洩らさないのは、友情からではなく、彼女の悲しむ顔を見たくないからだ。そもそも、僕らの間にあるのは友情というよりも、たぶんもう少しだけ雑な関係だ。まぁ、一般に男同士の友情なんてそんなものなのかもしれない。

 

今、僕の隣に座ってドーナツを食べている彼女が、いつの間にか僕らといるようになったのはいつからだったろうか。少なくとも彼らが付き合いだした大学一年の秋よりは前なのだろう。

たぶん、彼女のことを先に好きになったのはあいつじゃなくて僕だ。もちろんそれを二人に言ったことはないし、言うつもりもない。言ったところで一体どうなるというのだ?

彼らが付き合いだしても、僕らはよく三人で遊びに行っている。早くお前も彼女作って、ダブルデートしようぜなんてあいつは言うけれど僕の心はお前の隣のその子にとっくに奪われている。

僕は彼女の夜を映したような黒い髪も、春の生え始めのつくしのような可愛らしい笑顔も好きだった。あいつの好みに合わせてバッサリと切ってしまったのを本当に勿体ないと思う。

 

なぁ、親友、お前がもっと嫌な奴だったら、どれだけよかったろう。

僕と彼女は駅前のドーナツ屋で座ってドーナツを頬張る。

あいつの乗った電車はまだ着かない。

 

僕はさっきからずっと、美容院の床に彼女が散らかした夜のことについて考えている。

ピアニッシモ

 

「それ」に気が付いたのは三日前のことだった。

 

彼の机に置いてある灰皿に入れられた一本の細い吸い殻。私は彼がその銘柄を買ったことすらないことを知っている。そもそもそれは一般的には若い女性が吸う銘柄で、そのことが私の中の疑念を大きく育てた。

「それ」はいったいいつからそこに入っていたのだろうか?一週間前ほど前、吸い殻の山を見かねて私が灰皿を掃除したから、少なくともそれよりは後であるはずだ。

一度彼の不貞に対して疑念が沸き起こると、途端に今までなんとも思っていなかった小さなことが気になりだした。

 

メールの返信はあるのに、電話に出ないことがある。今までは無造作に置きっぱなしにしていた携帯電話を常にポケットに入れている。急に新しい靴を買った。抱き合ったときに匂いが変わった気がする。先週末は突然に用事が入った。腰遣いが変わった気がする。


もしかしたら、小さな偶然が積み重なっただけなのかもしれない。それでも、人は偶然の中に関連性を見出して、ありもしない意図を見出そうとする悲しい獣だ。

彼に問いただせば一息に解決するのかもしれないが、私はそれをしなかった。それをしてしまうことで今までの楽しかった時間を壊してしまうのが怖かったのかもしれないし、浮気されているということを明らかにしてしまうことで私の中のささやかだけれど確かな誇りが傷つくのを恐れたのかもしれない。

 

ベッドに座り込んで一向に鳴らない携帯電話を眺めていると、外で雨音がするのに気が付いた。薄いカーテンを開けると秋の冷たい雨が町を静かに湿らせているのが見えた。
 
ふと思い立って私は部屋着のスウェットを脱いだ。露出した肌に湿気が染みてくるような気がした。買ったころよりも幾分か太もものところがきつくなった色あせた紺のジーンズに足を通し、上には古着屋で買った濃いグレーのパーカーを羽織る。部屋の隅に山になっていた洗濯物の山から適当に選び出した靴下を履いて、財布と携帯電話だけをもってスニーカーに足を入れる。飲み会帰りにお気に入りの傘と取り違えてきた誰のものかもわからない傘を開き私は玄関を出た。

 

            ◇

 

私はコンビニで十本入りの「それ」を買った。それが見て見ぬ振りも、問いただすこともできない、私にできる精一杯の抵抗だった。彼の灰皿に私自身の吸った「それ」を混ぜることで、なにも無かったことにしよう。そして、何事もなかったように私たちは付き合い続けよう。変わってしまった彼の香りを煙草の煙でごまかして。