ドライブ

「俺はあの子に、俺以外と幸せになって欲しくないんだよ」
運転席の友人がそう呟く。やれやれ、全く身勝手な話だと僕は思う。別れた恋人の幸せを願うのが、元彼氏が唯一示せる愛情じゃないか?
さっきから渋滞は少しも進まない。日はすっかり沈んで、空の縁はオレンジから紫色に変わり始めている。


「そんなこと言ったって、お前は早々に別の女の子と付き合ったじゃん」
僕は、前の車の赤く光るブレーキランプを見つめながら言う。ナンバーは「8191」どう足し引きしても10になりそうもない。外れだ。


「今付き合ってる女の子がいないのに、好意に応えないのは不誠実じゃないか?」
友人が僕の目を見て言う。渋滞とはいえ、運転中にこちらを向くのは危ないから止めてほしい。そもそもこいつはこんなに人の目を見る人間じゃなかった。就活のせいだろうか。恐ろしい話だ。


「……まぁ、そういうこともあるのかもしれないな」
人には色々な誠実さの発揮の仕方があるのだと僕は思う。たぶん、世界に存在する犬の種類くらい。マンチカンは犬の種類だったか、猫の種類だったか。少しも思い出せそうにないので、考えるのを止めて4桁の数字を四則演算でなんとか10にできないか挑戦しなおす。


「そもそもとっくに別れてるわけだし。お前が本気でその子を好きなら僕から言うことは何もないよ。元恋人に『俺以外と幸せにならないで欲しい』ってのは最高にエゴイスティックだと思うけど」と僕は言う。
実際のところ、友人が誰と付き合っても知ったことではない。19歳を好きになってもサボテンに恋をしても、55歳と結婚しても友人であることは変わらない。
友人はしばらく黙ったあと、遠く夕焼けに染まる小さな入道雲もどきを見ながら言う。もうすぐ雨の季節が訪れて、それが終われば夏が来る。


「好き……だけど、それは前の彼女の好きとは違うんだよ。俺の人生を賭けたいと思えるかどうかってところで。寂しがり屋の女好きって言われたらそれまでだけど、それでも俺は、あの子に俺の人生を賭けたかったんだよ」
僕は、それを聞きながら、何度かあったことのある友人の元恋人のことを思う。綺麗な女の子だけど悪い男とか駄目な男に弱そうだった。どうやら見た目通りだったらしい。


「お前は違うのかよ?クールぶってるけど、そういうふうに少しも思わないって言えるのか?」
こいつは、とっくにエンドロールまで終わってホールの電気までついた映画の結末に、いつまで不服申立てをするつもりなのだろう?


いつの間にかあたりは暗くなっていて、友人の顔は見えなくなっている。
「本当に俺以外と幸せになってほしくないな」と呟く友人の声が、自分のそれになんだか似ているように思えて嫌気がした。その後に続くのはたぶん、「俺と幸せになってほしかった」だ。聞かなくてもわかる。

 

渋滞は、まだ少しも前に進まなかった。僕は、永遠に10にできないナンバープレートを見つめる。 

ひどい話

「ねえ、煙草吸うのやめなよ」

 待ち受け画面に表示されていた着信メッセージの意味が一瞬分からなくて、元々ほとんど機能していなかった寝起きの頭が完全に止まる。

 青白い携帯電話が示す時刻は23時45分。僕がシンデレラだったとしたら、卒倒するところだ。

 昨日、仕事を片付けるために徹夜をしたせいだろう。帰ってきてスーツも脱がないままで眠ってしまっていたらしい。ネクタイがまるで死んだ蛇みたいに首に纏わりついていた。

「タバコ・スウノ・ヤメナヨ」

僕は頭の中でその言葉を反芻してみる。親以外の人間にそんな風に言われるのは久し振りだった。

 「煙草を吸うのがカッコいい」そんな時代は、僕が生まれてくるよりも遥か昔(鎌倉時代くらい遠い昔だ)に終わっている。未だにそれを吸ってるやつは、都会の蛍を気取っている馬鹿かニコチン中毒のどちらかだ。

 けれど、僕らが馬鹿で中毒者なことをさておいて、これまで僕の取ってきたスタンスは「あなたに迷惑はかけないので、放っておいてください」というものだった。だってそうだろう?僕らは基本的に友人の人生に(あるいは恋人の人生にだって)責任を取る必要なんて少しもないのだ。お互いに言いたいことを無責任に言いあって、無責任に受け止めあう。それが友情の良いところだ。あなたが僕に「煙草を吸うのをやめろ」という自由があるように、僕には「はいはいそうですね」と聞き流す自由がある。そして僕は今までそういう自由を僕なりに正しく行使してきたと思う。

 メッセージの送り主はそれなりに長い付き合いのある友人だった。「余計なお世話かもしれないけど、さっきニュースを見てて、なんとなく思って」とそんな話が書かれていた。「この前会った時に煙草臭くて、嫌な思いをさせたかな」。そんなことがふと脳裏を過ぎる。それを遠回しに伝えているということも、大いにあり得ることだった。何しろ、彼女はよく気を遣うタイプなのだ。

 正直に言うなら、煙草をやめるように言われて、僕は大いに戸惑っていた。成人男性が全くの他人から心配を受けることはほとんどない(と思う)。飲みすぎて目の前で暴れているときか毎日カップラーメンを食べている画像をSNSに投稿しているときくらいじゃないだろうか。

 僕は、いつも通り「はいはいそうですね。でもあなたには関係ないんだから放っておいてください」と返すか、「心配してくれてありがとう」と返すべきかたっぷり三十秒迷った後で、「善処します」という短い返信を返した。自分自身に誠実で、嘘を吐くのが下手なところが、僕の持っている数少ない美徳だと思う。

 返信して、しばらくしたら目が覚めてきた。煙草を吸おうと思って、ベランダに出るためにサンダルを履いた。ライターで火を点けたところで、やっぱり止めにしてそれを灰皿代わりの空き缶に落とした。「彼女の、喫煙を吸う身内に何か不幸があったのでなければいいな」と真っ白な丸い月を見上げてそんなことを考えた。

 やれやれ、こんなのって本当にひどい話だ。彼女にもなにか僕から呪いを掛けられたらいいのに、と思った。

自由とウミガメ

「君は、自由でいいね」

そんな彼女の言葉がここ何日か頭から離れない。
どうして古い友達である彼女と電話をすることになったのか、よく覚えていない。たぶん、ビールを飲みすぎたんだと思う。

久しぶりに聞く彼女の声はあの頃と何も変わっていなくて、そのことが僕をひどく懐かしい気持ちにさせた。

「君は今、東京にいるって、話に聞いたよ」

彼女は言う。僕は缶に三分の一くらい残ったビールを飲み干しながらそれを聞く。何本飲んだか、4本目から数えるのはやめてしまった。

「うん。東京に来てみたくなって。」

「大学が北海道だったから、そのままずっと北海道にいるか、地元に帰るのかと思ってた。」

なんで東京に行くことにしたの?と改めて聞かれて僕はそのことについて考えてみる。どれだけ考えてみても、僕が東京に「来なければならなかった」理由は一つも見当たらなかった。僕は東京に「来たかった」のだ。別に大学のあった北海道や地元が嫌いだったわけではない。むしろ土地も、そこに住む人たちのことも僕は好きだった。

「僕は、なんとなくだけど、自分の能力とか、そういうものがちゃんと世界で通用するのか試してみたくなったのかもしれない。どこにいたってそういうことはやり方によってはできるんだろうけど、東京に来るのが一番手っ取り早く思えたんだな。」

考えると同時に、口をついてそんな言葉が出る。自分で口にした言葉を聞いて「なるほど僕はそんな風に考えていたのか」と気が付く。

彼女はしばらくの間、何も言わなかった。開けっ放しの窓からは、どこか遠くの夜を駆ける救急車のサイレンが聞こえてきた。昼間あんなにうるさく鳴いていた蝉の声はいつの間にか止んでいた。

「君は自由でいいね。それはすごく恵まれたことなんだよ。」

彼女がどんな思いでその言葉を口にしたのかはわからない。僕は彼女の誕生日も知らない。どんな過去を生きてきて、その言葉を口にしたのかはわからない。きっと、これからも知ることはないだろう。

ただ、彼女がとても優しい女の子じゃなかったとしたら、きっとものすごく怒っていたであろうことが僕にはわかった。

彼女がそういうことを言ったのはそれきりで、そのあとはなんのことはない世間話をして電話は終わった。

僕はアルコールで酩酊した回らない頭で、彼女の言葉について考えてみる。僕は自由で、恵まれていて、そのことに気が付いていないのだろうか?

毎日決まった時間に起きて、決まった手段で決まった場所に行って、決まった仕事をする僕が自由だとは思えなかった。

火を点けたばかりの煙草の煙が、無駄に高い部屋の天井に向かって消えていくのを見ていた。敷金が戻ってくるといいな、とそんなことを考えた。

      ◇

大学生の休みが長すぎるのか、あるいは社会人の夏休みが短すぎるのか、それは分からないけれど、とにかく社会人の夏休みは短かった。土日を含めて5日間。しかも平日に被る分は有給で消化した。やれやれ、あと何十年もこんな調子なのだろうか?気が滅入る。

ただそれはそれとして、僕は夏休みが夏休みであるというそれだけの理由でそれを愛することができた。それはたぶん、恋心に似ている。好きな相手が変わってしまったからと言って簡単には嫌いになれないものだ。僕は5日間になってしまった夏休みのこともそれなりに好きだった。

特に予定もなかったから、海沿いの街に行って何日間か過ごした。夏休みに海に行かないでどこに行くというのだろう?毎日昼前から海岸に行ってビールを飲んだり、古本屋で見かけた分厚い小説を読んだりして過ごした。

波打ち際で寄せては返す波と戯れたりもした。夜は宿に帰って浴びるようにビールを飲んで、泥のように眠った。

その間僕はずっと「君は自由でいいね。それはすごく恵まれたことなんだよ。」という言葉について考えていた。あるいは、僕はその僕の持っている自由さを実感したくて海沿いの街で夏休みを過ごしたのかもしれなかった。

そんな風に何日かを過ごして、帰る日の夕方、砂浜で死んだウミガメを見つけた。あおむけにひっくり返って、くたびれたぬいぐるみのようになったウミガメの腹は、波で濡れて、西日を眩しく反射していた。

「どんなふうに生きて、ここにたどり着いて死んだのだろう。」

とウミガメの生について思う。

「こんなところで死んでかわいそうに。」

生きていた間、知りもしなかった癖に、僕はその死に悔やみを述べた。

「かわいそうじゃないよ。」

いつの間にか僕の後ろに二人組の中学生くらいの女の子が立っていて、僕にそう言う。

「かわいそうじゃないか。こんなところで野垂れ死んで。」

二人は小さく首を横に振る。その動きが二人ともぴったりそろっていて、僕はそのことに恐怖を覚える

「この子は、自分で生きるところを決めて、網にもかからず、ここで死んで海にかえるの。それは自由で幸せ。」

「僕にはわからないな。」

僕はやれやれと芝居がかった身振りを付けて首を振る。

「あなただって自由なのに。」

またそれかよ。と思わず舌打ちをしたくなる。なんだってみんな僕を自由だと思いたがるんだ。

気が付くと二人は消えていて、僕と死んだウミガメだけが砂浜に取り残されていた。

     ◇

宿に戻ると、テレビの映画チャンネルで北野武の「HANA-BI」を放送していた。僕はビールを飲みながらそれを見て、夕方の死んだウミガメのことを考えた。海で生きて海で死ぬことがウミガメの自由で、幸せなのだろうか。僕は生きる場所を自分で決めているのだろうか。

思えば、僕は「行きたいから」という理由で大学を選んで、自分の行ってみたい街でやってみたい仕事に就いた。そういう意味で僕は自由だ。ただ、それが彼女やあの二人組のいう「僕の自由さ」なのだろうか。僕にはわからなかった。誰も、僕に答えを教えてはくれない。


もしそうだとしたら、僕はそれを認めるのが怖くなった。すべて、今の現実ー毎日決まった時間に起きて、決まった手段で決まった場所に行って、決まった仕事をすことでさえ、僕の選択の結果で、それ以上でもそれ以下でもないことを認めることが怖い。

画面の中で乾いた銃声が二発響いた。

幸福のしっぽ/ハヌマーン

俺が初めてハヌマーンを聞いたのは友達のブログがきっかけだった。
そいつは高校の友達で、同じ大学に通ってはいたけれど、俺よりずっと頭が良くて「面白い」奴だった。
俺はたぶんそいつに嫉妬にも近い憧れを抱いていたのだと思う。
そいつが(確か)「ハヌマーンを聞け」とブログで書いていた。
憧れの相手好きなものは吸収したいし、知りたい。
それが憧れじゃなくて好意と置き換えてもいい。
恋人の好きなものとか、友達のお勧めしてるものはそれだけでいつか触れてみたいと思う。
みんながみんなそうだとは言わないけれど、少なくとも俺はそうだ。
愛は名前を知るところから始まるのだ。相手を知ることは愛なんじゃないか?友愛か博愛か恋愛かそれはケースバイケースだけれど。

 

そんなわけで、俺はハヌマーンを聞いて、そこからずっと好きなわけだけれど、いつの間にかあのブログも消えてしまった。本人とも疎遠になって、今はどこで何をしているのかわからない。
ただ、俺なんかよりいろんなことの本質をよく見ている男だったから、たぶん上手くやってるんじゃないかと思う。そうだといいな。
結局、ほとんどの人間関係は≪近づいていたつもりが、高速ですれ違っていただけ≫というだけの話なのだ。
それでもすれ違った彼らは俺の中に何かを残して行っていて、俺はそれをたまに引っ張り出して少し寂しい気持ちになる。

 

すっかり前書きが長くなってしまった。ハヌマーンの話をしよう。
ハヌマーンについて書きたいことはたくさんある。パチンコで負けた日に「Fever Believer Feedback」を聞いた話とか、「トラベルプランナー」を一時期目覚ましのアラームにしてた話とか。暗いニュースを見ると「リボルバー」を聞きたくなる話とか。


まぁ、でもどれか一曲について書くなら《幸福のしっぽ》かな、と思う。
これは、今まで一度で幸せに偶然手を触れてしまったことがある人、ハッピーエンドの向こう側に迷い込んでしまった人のための歌だと俺は思う。

「どんなバンドか」とか正確な歌詞とか書くのが面倒くさいのでその辺は検索してほしい。そういうのって実際のところ何も伝えないんじゃないか?と俺は思う。Wikipediaとあらすじを読んで内容を完璧理解できるような小説なら、読む必要が無いのと一緒だ。

 

「俺は世の中とやれてないな」と感じたことがある人は多いと思う。というか大体の人はそうなんじゃなかろうか。
《また転んだ。日々が行く。なんで僕だけと呟く。運命って言葉が浮かぶ。手も足も出せずに笑う》そんな歌いだしが響くのはきっと俺だけじゃないはずだ。
みんな「なんで僕だけ」と不幸を嘆き、生きる。それは社会的に成功しているかどうかとか、他人から見て上手くやれてるかとか、そういうんじゃなくて結局は「俺はどう感じるか」の話だ。人は他人の悲しみや不幸について完全に理解することはできない。俺には山田亮一が詩を書いた時に感じた想いを完璧に知ることはできない。その他のすべての哀しみについてそうであるように。

 

人間でいるためには《明日もまた同じ場所へ同じ手段で行く》必要があると言う。これは社会人になってしばらく経って身に染みた。もう、寝ぼけていても家から職場にたどり着けるようになってしまった。《彼らの理不尽さも品性の無さも受け入れてかなきゃ》とまぁひどい話だとは思うけれど、生活するためには仕方がない。かなり自覚的に上から目線の詩だと思う。そもそも、俺とて、理不尽なことを人に強いるし、品性だってお世辞にもあるとは言えない。この間、土曜の朝に収集の燃えるゴミを金曜の夜に出しました。この場を借りて謝っておきます。

 

《地下鉄の窓越しに、いつかのあの娘に似た人。愛していたような、不安のはけ口にしていたような》「あなたが他人のことを、自分の寂しさを埋める道具くらいにしか見ていないということは、案外見抜かれてしまうものなんですよ」とは「三日間の幸福/三秋縋」の引用だが、まぁ、きっとそういうもんなんだろうなと思う。何が愛かなんて永遠に俺たちにはわからないんじゃなかろうか。愛だと思っているものが寂しさや独占欲や性欲でないと誰が証明できるのだろう?結局すべての恋人も友人も家族も≪近づいていたつもりが、高速ですれ違っていただけ≫なのかもしれない。それでも心の中にまだ残る物に、意味や価値や物語を見出して俺たちはエンドロールの向こう側を生きていくしかないのかもしれない。

 

≪明日どれだけ面倒でも、部屋の掃除をきちんとするよ。たまった洗濯物も干して、あなたを思って言葉を書くよ≫≪暮らしがどれだけみすぼらしくて、維持するだけで目が回っても、ただ受け入れる洗濯機と回り続ける洗濯機のように。≫≪好きな歌など聞けなくても、会いたい人には会えなくても行きたい場所には行けなくても、黙って全てを受け入れるから≫≪そしたらまだ、人間でいられるんかなぁ。母さん≫と逆説的な歌詞で曲は終わる。好きな歌を聞いて会いたい人に会って、行きたい場所に行かなきゃ人間でいられないんじゃないかなぁ。と考えてしまう。俺はまだ、人間でいられるだろうか?

 

山田亮一はとてもやさしいので≪駄作は全部置いてくから、死にたくなったら歌えよ≫と言ってくれる。少なくとも俺は好きな歌を聞くことができる。
ハヌマーンがサブスクを解禁してくれたので。まだ人間でいられるかなぁ。

 

社会人が二か月くらい過ぎて、仕事が嫌になってきたので書いたら、長くなった。やっぱり書くのはなんとなくストレス発散になる気がする。読んでくれた人がいたとしたらありがとう。ハヌマーン、一緒に聞こうな。

蛍・東京

 東京では一体いつどこで蛍が見られるのだろう。僕はそういうことについて全然知らない。
 まだ5月の中旬のくせにやけに暑い。寝転がっていると、うっすら汗ばんだ背中に服もシーツも張り付いてきて気持ちが悪い。冷房を付けようかと思ったけれど、起き上がって電気を付けてリモコンを探す手間を考えると、このまま暑さに耐える方がマシな気もした。
 「わたし蛍が見たいって言ったの覚えてる?」
 さっき電話で彼女は僕にそう尋ねた。そういえば連休中にそんなことを言っていた気がする。
僕がそれになんと答えたのか、よく思い出せない。正直な話をするなら、僕は暑い中、わざわざ光る虫を見に出かけたくはない。
 もちろん、そんな風には答えていないはずだ。正直さは美徳の一つに数えられていることが多いけれど、僕から言わせればそんなものクソ食らえだ。
 さて、「蛍が見たい」と言われて僕はなんて返したんだっけ。それはとても重要なことだと、本能が告げている。彼女が意味もなく僕にそれを覚えているかどうか確認するとは思えなかった。
小さな忘却が、知らない間に作っていた擦り傷のように煩わしく痛む。

            □

 「仕事が忙しくて、あんまり連絡できなくてごめんね。」
 そう言って電話を終えた彼女からそれでも「おはよう」と「おやすみ」だけは毎日律義にメールが来る。几帳面な彼女らしい。新社会人ってのは大変なんだろうな、とぼんやり考える。院生の僕にはうまく想像できない。二年後、あるいはもう少し経ってから僕も社会人になるのだろうけれど、その実感は全く湧かない。この間まで一緒に大学に通っていた彼女や友達が社会人をやっているのだって狐に化かされているような気分になる。
 彼女は連休中でも夜は日が変わる前に眠って、朝6時には起きていた。春休みまでは僕と同じ夜型だったはずなのに、すっかり健康的な生活習慣になっていて驚いた。
早く起きるのは構わないけれど、僕のことまで起こすのは勘弁してほしい。夜型に6時起きは苦行だ。
「だって休みの間しか一緒に居られないのに眠ってたら損じゃない?」
 そんな、わかったようなわからないような理屈に説得されて、僕も連休中は6時に起きていた。もちろん、連休明けにすぐ夜型に戻った。ちなみに今は午前1時15分だ。
 連休中は結局どこにも遠出はしなかった。人込みの多い場所は二人ともあまり好きではなかったし、どちらかの実家に二人で帰省するほどの関係ではない。近くの喫茶店カラオケボックスには行ったけれど、大体の時間学生時代みたいにワンルームの僕の部屋でだらだらと過ごしていた。
いつもそうだけれど、大体彼女が遊びに来た初日は部屋の片づけで午前中が終わる。僕は部屋が散らかっていても気にならないのだけれど、(腐るものは放置しないというたった一つのルールさえ守っておけばそんなに悲劇的なことにはならないのだ。)彼女に言わせれば「度が過ぎている」らしい。おかげでキッチンや布団の周りがきれいになるので、僕としても文句はない。
 「明日から仕事やだなあ。行かなきゃダメかな。」
そんな風に過ごした連休最後の日、彼女はそう言った。昼というのには遅すぎて、夕方というのにはまだ日が高かった。僕はパンツだけ履いていて、彼女は何も身に着けていなかった。部屋の中が蒸していて窓を開けたかったけれど、きっと彼女が服を着るまでは絶対に開けさせてくれないだろうなと思った。
彼女の「仕事に行きたくない」というぼやきを聞きながら、二人で使うと布団は狭いな。ベッドにはダブルサイズがあるけど布団にもあるのかな、あってもこの部屋じゃ置けないな。みたいなことを考えていた。
「晩御飯、食べに行く?奢るよ。」
「学生に奢ってもらうのは背徳感があっていいかも。……でも、明日もはやいし、今日は家で食べよっかな。一人で過ごす勘を取り戻さないとね」
 彼女はそう言って笑った。
「次会えるのはいつかなぁ。」
「いつだろ。僕はいつでも暇だけど。」
「いいなぁ、ずるい。」
「……ごめん。」
彼女だって忙しくしたくてしているわけじゃない。僕は自分の軽率な言葉を恥じる。
西日が部屋に差し込む。彼女は僕に背を向けていて、どんな顔をしているのかわからない。
「……わたし、蛍が見たいな。」
沈黙を破るように彼女が小さくそうつぶやく。
「蛍?」
「うん、蛍。それなら夏休みより前だし。見るために遊びに来る。」
「……わかった。どこで見られるのか調べておくよ」。
「本当?楽しみにしてるね。」
僕は彼女の笑顔と約束をやっと思い出す。

            □

僕らが誰かと未来の約束をするのは、それが「愛してる」なんて言葉よりもずっと雄弁に誰かへの愛を伝えるからだ。
僕は自分のやらかしたことの大きさを悟って、慌てて携帯電話で東京の蛍について調べる。
まだ、間に合うだろうか?

世界の終わりに。

 目が覚めて携帯電話を開く。土曜日、午前8時24分。失敗した。と僕は思う。また燃えるごみを出し損ねた。これで三週間連続だ。

 燃えるごみは水曜日と土曜日。休日の8時までにごみを捨てるため早起きをする人間なんて存在するんだろうか? 

 存在するのだとしたら、ぜひ僕の分のゴミ出しも頼みたい。

 別に金曜日の深夜のうちに捨てておいたっていいんだけれど、それをしないのは僕が正義感や道徳心に満ち溢れた人間だからじゃなくて、そんなことを思い出すころにはとっくに酔っ払っていて外に出るのが面倒くさいからだ。

 携帯を枕元に適当に投げる。誰からも連絡は来ていなかった。いつものことだ。最後に僕に連絡をよこしたのは誰だろう。クレジットカード会社だったような気もする。

 何のやる気も起こらないし、昼くらいまで寝てやろうと僕は思って目を閉じる。どうせ誰も文句は言わない。ごみだって水曜日に出せばいい。

 目を閉じていると、音や匂いが良く感じ取れるようになる気がする。たぶん、探せばそういう研究結果もあるだろう。面倒くさいので探す気はないけれど、きっとあるはずだ。

 結局それは意識のリソースをどれだけ割くことができるのか、という問題に過ぎないのかもしれない。僕に提示されている情報はあまりに膨大で、そのほとんどをただ通過させることしかできないのだ。

 どこか遠くで子どものはしゃぐ声が聞こえる。

 僕にもあんな風にはしゃいでた頃はあったろうか?そんなことを考えながら、一度目覚めた意識を睡魔にもういちど引き渡そうとした。

 8時半を告げる目覚まし時計のアラームがけたたましく鳴く。

 習慣とは恐ろしい。酔っ払った僕がいつも通りセットした目覚ましは、今日が何曜日かなんて知ったことは無いと言いたげに鳴り続けている。

 僕は舌打ちをしながらそれを止め布団から出る。弁解をしておくけれどこれは昨日の自分に対する舌打ちだ。深緑色のこの目覚まし時計は悪くない。こいつに機嫌を損ねられたら、たぶん僕は仕事に遅刻する。

 早起きしたって、何にもやることはないんだけどなあ、と思う。まぁいい。僕は休日を無意味に過ごすことにかけては結構才能があると思う。


                        □

 

 午前中のうちに洗濯機を回して、掃除機もかけた。悲しいことに誰も褒めてはくれなかった。僕は決してきれい好きなタイプではない。きれい好きは寝過ごしてごみを出し損ねたりしない。たぶん。

 1万円で買った2009年製の洗濯機(脱水を掛けると変な音がするポンコツだ)をセットしてから安い掃除機でほどほどに床を掃除する。僕は次はコードレスかコード巻取り式の掃除機を買おうと決意する。

長いコードが絡まって取り出すのも片づけるのも面倒くさい。

 お気に入りの音楽をイヤホンで聞きながら掃除機をかけると少し楽しい。実家の母親が家事をしながら鼻歌をよく歌っていたことをふと思い出した。

 「世界の終わりに君ならどんな音楽を聴く?」

 とっくの昔に解散したバンドが僕の耳元でそんな風に歌う。

 僕は解散したバンドが好きだ。完結した漫画が好きだ。死んだ小説家が好きだ。リメイクされない映画が好きだ。それはきっとこれから先もずっとそのままでいてくれるだろうという安心感がある。僕が変わり果てても、世界が終わってもそれは今の形のまま、決して変わらない。そんな気がしてきて安心する。 

 「世界の終わり」それについて僕は真剣に考えるべきなのだろうか?高校生くらいの僕は、嬉々としてそれについて考えていたような気もする。


                       □


 本というのは不思議なもので、買ったのに読まないで置いておくと増える。買ってすぐに読んでもなぜか増える。そんなわけで僕は今日も三冊本を買った。たぶん彼ら/彼女達も放っておくと繁殖するはずだ。コーヒーを淹れている間にも一冊増えた。お盛んなことだ。

 止まっていた洗濯機から湿った洋服を取り出して物干しざおにかけた。早く干して畳むところまで全自動でやってくれる洗濯機が出来るといいのになぁ、と僕は思う。もし仮にそんなものができたとして、洗濯機を一万円で買おうとする僕のような人間がそれを手に入れるのは一体いつになるのかわかったものではないが。

 ラジオも適当にかけてコーヒーを飲みながら買ってきた小説を読む。

 僕はテレビはあんまり好きじゃないけれどラジオはけっこう好きだ。ラジオはテレビほど押し付けがましくないし、それに何となく誰かと会話をしているような気分になれる。それはたぶんリスナーのお便りが読まれたりすることに関係しているのだろう。いつか僕もハガキかメールでも出してみようかしらと思う。

 ちょうどよく日が指してきて僕の背中をあたためて、僕はその心地よさに耐えきれず目を閉じる

 

                       □


 夢を見た。

 僕は見たことも無いけれど、訪れたことのある平原に立っていた。膝丈くらいまで細い茶色の葉が茂っていて、僕の脚を優しく撫でていて少しくすぐったかった。深い青色の空。ボロボロになった水色のミニバス。ところどころに咲いている濃い紫色の花。僕は、あるいは僕だった誰かにとってここがある一つの旅の終着点だったのだろうと、僕には本能的にわかった。そこで僕は旅をやめにして、一緒に旅をしてきた誰かを弔ったか、先に進むことを見送ったのだ。それは少年だった、どうしてか顔は思い出せないけど、僕は彼をよく知っていた。なんせ、僕らは長いことずっと一緒にいたのだ。

 草原には別れの気配に満ちていた。僕はそこにいるだけで立っていられないくらいの喪失感に襲われた。

 悲しい夢だ。

 そう思ったけれど、同時にもう少しここに居たいな、とも思った。

 あちこち穴のあいたバスに近づいて中を覗き込む。バスの中は雑然としていて、そこに脈絡のないものが置き去りにされていた。止まった腕時計。書きかけのノート。大きなぬいぐるみ。煙草とオイルライター。レンズの割れたカメラ。

 中に入ろうかとも思ったけれど、やめておいた。なんとなく、そのままにしておこうと思った。もしいつか、彼が帰ってくるときのために。


                         □


 本を読みながら、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。ソファで目を覚ますといつの間にかすっかり夕方になっていた。早起きをしたせいだな、と変な寝方をしたせいで凝った背中を伸ばしながら思った。

 窓から見える街はオレンジに染まって燃えてるようにも見えた。

 ひとり用の冷蔵庫からビールを取り出してプルタブを引っ張る。小気味よい音がして蓋が開く。世間ではこれは発泡酒であってビールではないらしい。知ったことか、僕はこれをビールと呼んでいるし、ビールだと思って飲むことにしている。その方が幸せだと思う。

 ビールも三本目が開くころになると、外はすっかり暗くなっていて、それ相応に僕も酔っ払っている。

 僕は昼間からなんとなく世界の終わりについて考えていて、そしてなんとなく悲しい気持ちになる。高校生のころと違って、僕は結構この世界が好きなんだな。と思う。いままで訪れた場所が、出会った人が、過ごした時間が僕は好きだ。世界の終わりに少しもワクワクしないといったらそれは嘘になるれど、それよりも俺は好きだった場所に行けなくなることとか好きな音楽が聴けなくなることとか、好きな本が読めなくなることとか、好きな人たちに会えなくなることが悲しい。

 世界の終わりに僕が好きな人たちが悲しむのを見たくない。傷つかないでいてほしい。そんな風に思う。

 僕の膝の上にいつの間にか幼い日の僕にそっくりな少年が座っていることに僕は気が付く。

 「もし世界の終わりが来たってお前には何にもできないよ。」

 彼はそんな風に言う。その通りだ。僕には彼が泣いているのがわかる。

 「そうだね、だけど生きていくよ。そういうことに決めたんだ。」

 僕はそう彼に告げる。いつの間にか部屋の中には僕一人になっていて、それでも膝の上がまだ温かかった。

バンパイアの恋人

 
 僕の恋人はバンパイアだ。と言っても人間とのクォーターだという彼女は、永遠の命も持っていないし、日光に当たっても灰になったりはしない。たまに吸血鬼の片鱗をのぞかせることはあるけれど、概ねにおいて彼女は「普通の」可愛い女の子だった。僕だって言われるまで彼女にバンパイアの血が流れていると気が付かなかった。

 「気持ちは嬉しいんだけど……でも、きっとわたし、君に迷惑かけちゃうわ。わたし君が思ってるよりずっと面倒くさい女の子だよ。」

 恋人になってほしいと彼女に伝えたとき、彼女は僕にそう言った。その時はその意味がよくわかっていなかった。それは言葉通り、重かったり、わがままだったり、気分屋だったり、そういう面倒くささのことを言っているのだと思った。

 「いいよ、君がどんな面倒くさい女の子だったとしても、僕はそれも含めて君のこと好きになれると思うし、好きになりたいと思う。だから、ダメかな。」

 そんな風に僕は彼女をうまく言いくるめた。色白の頬を赤く染めて「……それじゃあ、不束者ですが、 お願いします」 そう言って小さく頭を下げた彼女のことがたまらなく愛おしかったことを覚えている。

 

           ◇

 

 実際、付き合っていく上で彼女がバンパイアであることはあんまり問題ではなかった。

 長い時間日光を浴びていると皮膚が赤く焼けてしまうから、デートは大体天気の悪い日か、夕方からだった。僕は基本的にインドア派で、どこかに出かていくよりはむしろ部屋で二人で映画を見たり、 音楽を聴いたりしている方が好きだったから、 天気のいい日曜日に出かけられなくても全然かまわなかった。

 彼女は朝がめっぽう弱くて、大学の一限目に出るのにも毎回苦労していた。朝から授業のある前の日にはいつも僕の部屋に泊まりに来ていた。寝起きで機嫌の悪い彼女を布団から引っ張りだすのは、なかなか根性のいる作業だった。

 「まだ八時じゃん。あと十分は眠れたのに。」

 「あのさ、僕は今日は授業昼からなんだよ。『 起こしてくれてありがとう』じゃないのか?」

 「……ありがとう。」

 毎度のようにそんなやり取りをして渋々布団から出ると、彼女は着替えを始める。日光が差し込まないように分厚いカーテンを取り付けた薄暗い部屋の中で、彼女が下着姿になる。薄く光を放っているのではないかと思うほど白い肌に、お気に入りだと言っていた真っ赤なブラジャーとパンツが映える。まるでイチゴの乗ったショートケーキだな。そんなことを僕は眠い頭でぼんやりと考えた。

 「やっぱりさぼってもう一眠りしちゃおっかな。」

 ばっちり化粧まで終えて、そんな気はさらさらない癖に彼女はそう言う。

 「はいはい行ってらっしゃい。俺の授業が終わったら連絡するよ。 」

 つれないなぁと口を尖らせる仕草がかわいらしい。 けれど以前一度、この表情に負けてキスをしたら結局そのまま一日僕まで学校をサボるハメになったので、それ以来朝のキスには気を付けている。隙あらば絡みつこうとする彼女の長い舌を何とか唇で塞いで玄関か ら送り出した。

 

         ◇

 

 基本的に彼女は人間と変わらなかった。そう、たまに吸血をしたがることを除けば。

 「嫌だったら全然断ってくれていいんだけど」

 はじめて僕が血を吸われた夜、ひどく申し訳なさそうに彼女は切り出した。

 「……血を吸わせてくれない?」

 そのころには彼女がバンパイアの血を引いていることは聞いていたのでそんなに驚きはしなかった。

 「いいけど、やっぱり吸いたくなるもんなの?」

 「うん、いつでもだれでもってわけじゃないんだけどね。」

 あとから聞いた話だと、吸血欲求に一番近いのは性欲らしい。君の血が吸いたくなるのは君のことが好きだからなんだよ? と僕の血で染まった唇を拭いながら彼女はそう言っていた。その微笑みがあんまりに艶やかで、 僕は彼女にもっと血を吸ってほしいと思った。

 はじめての吸血は少しだけ痛かった。 僕の鎖骨の少し上あたりに彼女が恐る恐るといった様子で柔らかな 唇をあてがう。私も直で人間から血を吸うのは初めてだから、 痛かったら言ってね。留め置きして、 尖った歯が僕の皮膚に当てられた。

 僕はといえば、間近で嗅いだ彼女の髪の毛のにおいにくらくらしていた。さっきまでしていたセックスでかいた汗のにおいと、女の子の匂いとシャンプーの匂いと他にもいろんな匂いが混ざって いて、それは僕を安心させると同時に興奮させた。さっき二回もしたのに。

 ぶちゅっと鈍い音がして、一瞬遅れて重い鈍器で激しく叩かれたような痛みが首筋に走る。思わず情けない声をあげそうになって、僕は慌てて自分の唇を強く噛む。自分の体内から血液が流れ出ていくのを感じた。一番近い感覚としては献血だろうか。しばらくすると、首筋の痛みが消えていて、得も言われぬ幸福感が胸に満ちてくる。それがバンパイアの持つ人を魅了する魔術的な魅力のせいなのか、それとも「捕食」されているという事実から目を逸らして、幸福な最期を迎えようとする被食者の脳の働きなのか、僕にはわからなかった。

 しばらく血を吸われて、だいぶくらくらし始めたころ、やっと彼女の口が離れた。傷口の血は止まっていて赤黒い所有印のようなキスマークだけが僕 の身体に残された。薄く血の混ざった唾液の糸を引きながら彼女の頭が僕から離れる。

 顔をあげた彼女は恍惚とした顔をして、強く噛みしめたせいで血が出ていた僕の唇にキスをした。むさぼられるような口づけの中で、僕の血はおいしかったかどうかが気になった。

 それから僕は度々彼女に血を吸われることになった。どうやら僕の血はバンパイアのお眼鏡にかなったらしかった。

 

 

         ◇

 

 彼女にはもう二週間も会っていなかった。最初は些細な口論だったように思う。だんだんとエスカレートして言わなくてもいいことまで言ってしまったせいでなんだか顔を合わせづらかった。いつの間にか首筋のキスマークも消えてしまった。彼女は朝の授業に出られているだろうか?僕以外の誰かの血を吸っているだろうか?僕から謝れば済むことなのかもしれないけれど、それはなぜだか負けた気がして連絡できなかった。

 飲み会帰りに、ほろ酔いのまま友人とラーメン屋に立ち寄る。

 「俺、ニンニクラーメン、チャーシュー抜きで。」

 酔っ払ってほんのり赤い顔の友人はいつも注文を決めるのがはやい 。

 「同じのにしようかな。」

 「あれ、お前の彼女ってニンニクの匂い駄目じゃなかった?」

 彼には付き合っているときの愚痴やら惚気やらをよく聞いてもらっていた。彼女にもあったことがある。人の恋人の苦手な食べ物まで覚えているなんて僕には無理だ。こいつの周りに人が絶えないのはこういう風に気が使えるのが理由なんだろうな、と思う。

 「いや、ちょっと喧嘩しちゃってさ。なんかしばらく会えそうもないから、別にいいかと思って。」

 僕がそう言うと、彼は珍しく眉を寄せて渋い顔をした。

 「そういうのって、俺はあんまりよくないと思うな。……なんていうかうまく言えないけどさ。 お前がここでニンニクを食べちゃったとしたら、それって相手を裏切ったような、そんな気がしないか?……いや変なこと言って悪い。忘れてくれ。」

 そういうものなのかもしれない。僕らが誰かと生きていくためにはほんの少しの思いやりとそれを忘れない努力が必要なのだろう。

 それはたぶん、本当に小さな思いやりで構わないのだ。バンパイアの恋人である僕が持つべき思いやりは、生活を彼女に合わせて夜型に変えるようなそれではなくて、彼女のためにニンニクを食べないみたいなほんの小さな思いやりなのだと思う。

 「……いや、なんとなく言いたいことはわかった。味噌ラーメンにするよ。 もちろんニンニクは抜きで。」

 ありがとう、と友人に告げてオーダーを取りに来てもらう。

 帰ったら、彼女に電話をしてみよう。夜更かしな彼女なら、 きっとまだ起きているはずだ。

僕はいつも彼女が噛み付く部分をそっと撫でてみる。 跡は無いのに、ほんの少しそこが疼いた。