鍋 sideA

 

「鍋が食べたいな、今夜どう?」
と君が言う。季節は秋。木々は色鮮やかに葉を染めて、夜になれば虫の鳴き声が空に響く。そんな季節だ。


君はお気に入りの燕脂のマフラーを首に巻きつける。白いセーターを着ているせいで、一瞬君が季節外れの燕に見えた。ちなみに僕は、白いセーターの下からささやかに自己主張をする君の胸がどれくらい柔らかいのか、まだ知らない。

 

「鍋か、いいね。どっちの家でやろうか。僕の家は散らかってるから、出来れば君の家がいいんだけど…」
「……下着干しっぱなしなんだけど、持って帰ったりしない?」
「……外で待ってるから隠してくれよ」
そんな軽口を叩きながら、構内を歩く。君の隣を歩くのも、随分と慣れた。君の歩幅を覚えたから、「歩くのが早い」と文句を言われることも随分減った。


「今日も何か映画を借りて行こうか」
と君が言う。
「映画サークルの対面を保つためにもそうしようか」
「たった二人しかサークル員はいないけどね」
「新歓でもすれば誰か来るかもよ」
「…それはちょっと面倒くさいなぁ」
こんな僕らだから、先輩には申し訳ないとは思うけれど、たぶんこのサークルは僕らの代で終わりだろうと思う。それも、まぁ悪くはない。

 

                                ◆

 

駅前のDVDショップで映画を借りたあと、鍋の材料を彼女の家の近くのスーパーで買い込む。
人参、大根、ネギ、白菜、きのこをカゴに入れて、肉を牛肉にするか豚肉にするかでじゃんけんをして、結局僕が負けて牛肉を買うことになった。
二本の缶ビールと「鍋には絶対日本酒だよ」と言う君の言い分によってカゴに入った日本酒も買って店を出た。

 

店を出ると空はすっかり橙に染まっていて、電灯が僕らの帰り道を照らしていた。
「日が短くなったねぇ」
「もうすぐ冬だからな」
「私寒いのは苦手なんだよなぁ…冬眠しようかな」
「冬眠すると動物は脂肪が落ちて痩せるらしいぞ、ちょうどいいかもな」
「……嫌い、しばらく外で凍えてて」

 

彼女が部屋に散乱した女の子の秘密を隠す間、僕は橙から紫に変わりゆく空を一人ぼんやりと眺めていた。


                                ◆

 

鍋が出来上がるのを待ちながら、ビールを飲んで、映画を見る。鍋から出た白い煙が天井に吸い込まれて消える。大したストーリーのない、有りがちなB級アクションだったけれど、ヒロインは可愛かったし、ビールも美味しかったので、なかなか良かった。ヒロインがピンチに陥ったあたりで鍋が完成して、B級にふさわしいサービスショットを見ながら鍋を食べた。
「美味しいねぇ」
「うん、なかなかだ」
「サービスシーンもなかなかだねぇ」
「かなり見応えがあるな」
そう答えたら、わき腹に肘を入れられた。

君が言った通り、鍋には日本酒が合う。弱いくせに酒が好きな君はすぐ酔っ払って、ふへへだとかうふふだとか奇妙な笑い声を上げてすごく楽しそうだった。

                               ◆

 

「鍋、ごちそうさま。もう遅いし、そろそろ帰るよ」
そう伝えると君は「もう帰っちゃうの…?」とすごく悲しそうな顔をする。お酒を飲んだ時の君は簡単に素直になれて、本当にずるいと思う。
「……じゃあもう少しだけ飲んでいくよ」
「ふふっ、本当に私に甘いね」
君はとても嬉しそうに笑う。お酒を飲んだ時の君は、本当にずるい。

 

                               ◆

 

結局三十分もしないうちに床で眠りこけてしまった君を抱きかかえてベッドに運ぶ。僕も酔っ払っていたしーおそらくは僕を信用してー眠っている君の寝顔は大変魅力的でなかなか危ういところだったけれど、なんとか理性で押さえ込んで、その代わりに寝ている君の黒くて柔らかな髪を撫でるという小さな罪を犯す。
聞こえないであろう「おやすみ」を呟いて、君の家を出る。

夜空には大きな月が浮かんでいて、僕の後をついてきた。僕は君の前では吸わないようにしていた煙草をポケットから出して火を付ける。

 

僕が君に抱くこの感情に、恋と名前を付けるのはまだ早い。まだもう少し、僕はこの気持ちを一人心の中で暖めていたい。僕の吐いた煙草の白い煙は空に昇って、秋風にかき消されて、夜空に消えた。

よるがくればまた

夜になると、貴方を思い出す。それが私にかけられた呪いだ。

 

                             ◆

   

私が貴方に関する思い出を引き出せるのは、日が沈んだあと、仄暗く光る夜が世界を包んだあとだけだ。太陽が空を支配する間は、何度も呼んだその名前も、いつも私を抱きしめてくれた優しい腕も、男のくせに驚くほど柔らかな唇の感触も、どんなに強く覚えていようと思っても、掌の中のねこじゃらしのように、するすると抜け出して私の中から消えてしまう。

 

私にかけられたこの呪いには、小難しい病名が付いていて、なんでも大きな精神的ストレスに伴って発症する精神疾患の一つであると、医者は言う。でも、やっぱり私は、これは貴方が残した呪いなのだと、そう信じていたい。貴方はとても寂しがり屋で優しくて、不器用だけれど、確かに私を好きでいてくれたから。

 

この呪いのおかげで、私は今日も元気に生きていられる。もしも私が、昼間も貴方のことを思い出せたとしたら、きっと、もっとずっと前に私は壊れてしまっていただろう。
そう、私は今日も生きている。貴方がもうどこにもいない、この世界で。しっかりご飯を食べて、きちんと息をして、ちゃんと笑って生きていく。

 

「もし俺がいなくなったら俺のことは忘れて、幸せになってほしい」
と、あの頃よく貴方は言っていた。この大嘘つき、とまた貴方に会えたら、そう詰るつもりだ。本当に心からそう思っていたのだとしたら、こんな中途半端な呪いをかけないで欲しかった。貴方を忘れることを、幸せだなんて言って欲しくはなかった。
私はどんなに夜が寂しくても、貴方を忘れてしまいたくはない。たとえそれで私が壊れてしまおうとも、二度と貴方に会えないとしても、貴方を忘れてしまいたくはない。私は貴方がいなくなってしまったからと言って、貴方を好きであることを決して止めたくはない。
私は、朝が来ないままで息をして、貴方の思い出と、生きて行きたいのだ。

 

                            ◆

 

そうして、今日も貴方を想う夜は明け、新しい朝が来る。大切だった誰かのことを忘れて私は目覚める。

10枚で1000円のアルバムの8枚目

僕が愛してやまないTSUTAYAで時折「旧作のCD十枚で千円」というキャンペーンを行っているのを見かける。僕も度々この企画の恩恵に預かってというか、見事に彼らの策略にハマってというか、CDを借り込むのだけれど、この「十枚」という枚数が案外に難しい。

 

大抵、七枚目くらいまではあっさりと借りたいCDが見つかるのだけれど、それ以降がなかなか決まらない。結局、仲の良い誰かが好きなアーティストやなんとなく名前だけ聞いたことがあるようなアーティストのCDを借りることになる。
そして、いざ聞いてみると狙っていたCDよりも数合わせで借りたものの方が、なんだか自分にしっくりくるような気がして、そんなとき、誰に対してかはわからないけれど、僕は確かな優越感と幸福感を抱くことになるのだ。

 

人生における大切な出会いには「数合わせで借りた九枚目のCD」のようなものが割に多い。(もちろん1枚目の狙ったCDが素晴らしい場合も多々あるが)それは偶然と気まぐれによる産物であり、数合わせに呼ばれた合コンで出会う女の子であり、たまたま隣の席に座った女の子であり、またあるいは喫煙室で火を借りた少し歳上の男かもしれない。
そして結局のところ、その価値は後になってからしか、知ることができない。

それはちょうど、僕らがTSUTAYAで借りた数合わせのアルバムの良し悪しを、聴いた後でなければ知ることはできないのと同じだ。

 

そうして僕は、今日もTSUTAYAに向かう。返却とレンタルの輪廻から、逃れられないままで。

 

 

夏の終わり、秋の始まり

波の音で目が覚める。

 

見なれない天井とあたりに散らばる僕の残骸を見て、自分が海沿いのコテージにいて、昼食の後、何度か彼女と交わって、そのまま寝入ってしまったのだと言うことを思い出した。
隣を見ると、真白なシルクのシーツに身を包んだ裸の君が無邪気な寝顔を晒している。枕元に置いた腕時計を見ると、時計の針は午後六時過ぎを指していた。ベッドから身を起こして窓際まで歩いて行くと、空は既に紫と橙色に染められていた。
彼女が目を覚まして、ベッドが硬いせいで、腰が痛くなったと不満を訴える。もうすっかり夕方だよ、と告げると、彼女はベッドから起き上がって、もう少し暗くなったら、花火しよっか、買ってきておいたんだ。とそう言った。

 

                              ◆

 

 

僕はズボンを履いて、彼女は生まれたままの姿でコテージの庭に出る。そんな格好で、外に誰かいたらどうするんだ、と彼女にふざけて聞くと、それはそれでいいと思うわ。と軽くあしらわれた。ここは、僕が死んだ父から譲り受けた寂れた海岸にぽつんと建つコテージで、ここに来てから三日、僕らの他には誰にも会っていなかったから、まぁ、今夜に限って誰かが通りかかることもないだろうとは思う。

彼女が一本目の花火に火をつける。紅い光が弾けて、彼女の横顔と滑らかな白い肢体を照らす。僕は煙草に火を付け、大きく息を吐き出した。花火の白煙と煙草の紫煙が絡み合って空へ消えて行く。
柔肌に火花がとんで熱いのだろう。時たま胸の蕾を摘んだ時のように、背中が小さく跳ねる。それがなんだか可愛らしく思えて、彼女の肩まで伸びた髪を指で漉く。
中空に浮かんだ満月が僕らを見下ろしていた。その月が、海の彼方で秋が目覚めたことを僕に知らせる。涼しい風が僕らを撫ぜる。寒いね、と彼女が呟く。僕はその頼りない細い肩を壊れるくらい強く抱きしめた。

 

                             ◆

 

昼間あんなにしたのにすごいね。そう笑っていくつか小さな袋詰めの僕の残骸を増やした後、子供のような顔をして眠ってしまった彼女のツルッとした陶器のような腹部を月明かりが照らす。夏が終われば、僕らはまた離れ離れだ。僕はそれが悲しくて堪らなくて、でもどうしようもなくて、腕時計の針を巻き戻す。何周も何周も、夏が終わらないようにとも必死に願って。

 

波はそんな僕の努力を嗤う様に淡々と砂浜に打ち寄せ続けていた。

チェリー

 

それは春というにはまだ早く、冬と言い切るには少し遅い季節のことで、大学入試の二次試験も終わり、あとは卒業式と結果発表を待つだけのなんだか地に足がつかないような、そんな時期だった。

授業はとっくに終わっていて自由登校だったから、どうしてあの日僕が教室に行ったのか、今ではもう思い出せない。でもおそらく、たぶん僕は学校へ行くという習慣をなぞることで、一週間後には決まる進路や、もっと先の将来への漠然とした不安を沈めようとしていたのだと思う。人格とは幾つかの習慣と常識によって形作られるものだと何かで昔読んだ。つまり僕を僕たらしめているのはおそらく、ちっぽけな縁起を担いで右足から家を出たりするそんなささやかだけれど確かな習慣たちだ。

 

教室には誰もいなかった。柔らかな午前の日が射し込む、手作りのお菓子のような暖かさがそこには溢れていた。
窓際の自分の席に座り、イヤホンを付けて、文庫本を開いてはみたものの、ページをめくる手は進まず、すぐに抗いがたい睡魔が襲って来て、僕はそれに身を委ねた。

 

                              ◆

 

どれくらい寝てしまっていたのだろうか、ドアが開く音で目を覚ますと、陽射しは窓の外の僕が暮らす見慣れた街も僕も黄金色に染めていた。
机の上には読みかけの文庫本が横たわっていて、イヤホンはいつの間にか耳から抜け落ちていた。

「随分気持ちよさそうに寝てたね、どんな夢を見てたの?」
吸い込まれるような透明な声が僕に問いかける。なんだかとても幸せな夢だったことは覚えているけれど、どんな夢だったか思い出せない。そう答えると、彼女は、起こしちゃってごめんね、懐かしい背中が見えたから、久しぶりに話がしたくって。と言って零れるように笑った。僕は、彼女の笑顔を近くで、二人きりで見られる以上に幸せな夢があるのなら、是非とも僕は見て見たいと思う。

 

「受験、どうだった?」
「人事は尽くした。あとは天命を待つのみって感じかな。君は?」
「私は君のところほど難しい大学じゃないからね、余裕だよ余裕」
僕は東京の、彼女は地元の大学を受けていた。受かっても落ちても、卒業したらしばらくはーもしかしたら二度とー会えないだろう。
「懐かしいね、去年は毎日こうして毎日後ろの席に君が座ってた」
「そうだね、こうしてゆっくり話すのは本当に久しぶりだ」
去年は同じクラスだったから、話す機会もあったけれど、三年生になってからは廊下ですれ違った時に、世間話をするくらいしか、話しかけることができなかった。

 

 

「そういえば、何を聞いてたの?」
机に投げ出された僕の音楽プレイヤーを指差して彼女が問いかける。
「聞いてみる?きっと聞いたことあるよ」
そう言ってイヤホンを差し出すと彼女はそれを片方だけ着けて、もう片方を僕に返した。一緒に聞こう、と言うことなのだろう。
再生ボタンを押すと、聞き慣れたイントロが流れ始める。それは別れの季節に聞くには余りに爽やかであまりに哀しい曲だった。
窓の外をぼんやりと眺めながら曲を聴く君の横顔に見とれていると、ふと君がこちらを向いて、不意に目が合ってなんだか照れ臭かった。
『愛してるの響きだけで強くなれる気がしたよ。ささやかな喜びを潰れるほど抱きしめて』
君が小さな声でそう歌う。
多分僕の、君へのこの恋心なんて、大人になって見返したらきっと玩具みたいなものなんだと、そう思う。それでも、今僕は、やっぱり君が好き

 

 

次の愛してるの響きに乗せて、僕の思いを君に伝えよう。
僕は『いつかまた』じゃなくて、『明日また』この場所で君に巡り会いたいのだから。

僕は正しく厨二病なので。

僕は正しく厨二病なので、煙草やお酒やバイクみたいないかにも体に悪くて、PTAが顔をしかめるような、そんなものに心惹かれる。

もちろん盗んだバイクで走り出して、夜の校舎の窓ガラスを壊して回れたら、それは最高なんだけど、僕は尾崎豊の「15の夜」を聴くと「盗んだバイクで走り出す 鍵がない 走らない」という替え歌の方を思い出して笑い出してしまいそうになるので、たぶん盗んだバイクには乗れないだろうな、とも思う。

 

これらに心惹かれるのはもちろん僕が好んで見るような映画や本の影響だと思うんだけど、もしもバイクが安全な乗り物でお酒が生まれた時から飲めて、煙草が体に良かったとしたら、僕はこれほどには心惹かれなかっただろう。

たぶん僕は「体に悪いことをしている」という死の匂いが際立たせる、命の光が見たいのだ。痛みや寒さを感じる命の実感を、もっとお手軽に安全に味わいたいのだと思う。

 

もし、僕の身体を案じてくれる人が誰もいなくなったら、それらを浴びるほど味わいたいと思うけど、きっとその時は大した味じゃないんだろうな。

他の誰かが想ってくれているからこそ、人の命は強く輝くのだから。

 

特別寄稿:ワンピース

<今回のは僕が書いた作品ではないのですが、「書いたけど、発表の場がないから君のとこに載せてくれよ」と言われたので特別寄稿作品です。>

 

「私、ワンピースって嫌いなの」
なんの脈絡もなくいきなり彼女が話出した。彼女の話はいつも突然だ。
「ねぇ聞いてる?私ワンピースって嫌いなの」
僕が返事をしなかったせいだろう。彼女は繰り返した。僕は慌てて返事をする。
「どうして?」
「最初から1つでも着られるものなんて興味がないの。だって洋服って、1つじゃ着られないものを組み合わせるから楽しいんでしょう。」なるほど彼女らしい。

そういえばあの日、僕らの関係が始まった日も彼女は同じようなことを言っていた。
「母さんには、父さんなんか必要なかったのよ結局。あの人は1人で生きていけるの。」
「でも、それじゃダメだったのね父さんは。だからつい必要としてくれる人のところへ行ってしまったんだわ。」
普段強気な彼女が、珍しく僕にもわかるほどに落ち込んでいた。
僕は正直なところ、1人で生きられないような弱い人間が、誰かと共に生きていけるはずはないと思った。彼女の父さんはただ、今、この場所から逃げ出しただけに過ぎないと。
けれど、そんなことを言ったらきっと彼女は泣いてしまっただろう。彼女は、彼女の母さんのことも父さんのこともすきだったから。

彼女は1人で生きられるほど強くはなかった。胸にぽっかりと空いた穴を何かで埋めずにはいられなかった。

だから僕とこうして毎週のように関係を持つ。別な日は別な誰かとこうして過ごしているんだろう。そんな彼女を受け入れてしまっている自分でもどうかと思う。だがしかし、どんな形であれ必要とされていることを嬉しく感じてしまう僕がいるのだ。惚れた弱みってやつだろう。あの日寂しそうに笑う君を耐えられなくなって抱きしめた日に、僕はとっくに終わっていたのだ。

また今日も彼女は僕を求める。僕は求められるままに彼女に応える。

僕も、ワンピースは嫌いだから