la petite mort


腰に回された硬い腕の感触で目が覚める。枕元の彼の好みで買った深緑の目覚まし時計は午前二時半を指していた。彼の腕をそっと外して気怠い身体を起こす。シングルベッドが小さく鳴いた。

 

彼とこうして寝るのは何度目だろうか。初めのころは手帳に小さくハートマークを書いたりしていたものだが、今思い返すとあまりに可愛らしくて笑えてしまう。きっと数ヶ月前の私はポイントカードのようにハートマークを集めていれば、自動的に「恋人」という景品が手に入ると勘違いしていたのだろう。

 

布団から出るとむき出しの肢体に冷たい空気が絡みついてくる。私はベッドの下に無造作に投げ捨てられたパジャマと下着を身に着ける。明日の朝、彼は私の下着の色を覚えているだろうか?

 

 

蛇口を捻るとワンルームの部屋に水音が響く。そういえば今夜は酷く静かな気がする。いつもなら聞こえてくる車の音も、歩行者用信号から流れる鳥の鳴き声も、酔った大学生の楽しそうな話し声も聞いていない。

 

透明なガラスのコップをシンクの上に置き、ベッドの横の大きな窓にかかるカーテンを捲る。

窓の向こうでは深々と雪が降っていた。そっか、雪は音を吸い込むって昔何かで読んだな。何時の物かわからないそんな朧げな知識がどこかから顔を出す。


堕ちる雪をできればずっと見つめていたかった。美しいものは、孤独や哀しみや虚しさのうち幾分かを肩代わりしてくれる。

 

でも、五分もたったころだろうか、寒さと眠気が美しさに勝った。私たちは映画の登場人物ではない。美しい雪を見つめていても画面はフェードアウトしない。連続性の持つ俗っぽさと様々な雑事をこなして、私は生きていかなければならない。

 

彼の体温で温まった布団に潜り込む。男の人は冷え性になったりしないのだろうか。暖かな彼の足先に自分の足先を絡めながらそんなことを考える。

横になって彼にくっつくと、すぐに大きな腕が伸びてきて私を包み込んだ。寝ていても自然にこういうことをするあたり女たらしだよなあと思う。

 

 

ねぇ、あなたは誰を想って私を抱いているの?あなたの瞳に私はちゃんと映ってる?

 

 

いつまで経っても「好きだよ」の一言も言ってくれない唇を見上げて私は不満を小さく口にしてみる。

当然、幸せそうに眠る君は何も答えない。

 

明日、目が覚めたら、私の下着の色を覚えているか聞いてみよう。
そしてもし覚えていたら、私から好きだと言ってみよう。


あなたが夢の中で抱きしめている女の子も私だったらいいのに。そんなささやかな願い事をしながら、私もそっと目を閉じた。

渇いたキス


行為が終わった後、ベッドに腰かけてサイドテーブルの上の煙草に手を伸ばす。オイルライターのひんやりとした温度が火照った手のひらに心地よく伝わる。手入れの手間はあるが、僕は使い捨てライターではなく、オイルライターで煙草を吸うのが好きだ。それが魅力的な女の子と寝た後ならなおさら。

必要以上の手間をかけて煙草を吸うことは、儀式的な要素がその行為をより高尚に見せるという点においてセックスと通じるものがある。

 

洗濯したての白いシーツの上に寝そべってスマートフォンをいじる彼女の顔が青白いバックライトに照らされている。初めてのころは終わった後もお互い何だか気が張っていたが、最近は心地よい倦怠感と安堵が少しだけ甘い雰囲気の残る部屋を満たすようになった。

 柔らかな彼女の背中越しにスマートフォンの画面を覗き見る。僕の知らない女優が結婚したニュースで画面の向こう側は賑わっていた。

 

起き上がって煙草の灰を発泡酒の空き缶の中に落とす。締め切った部屋の天井に半透明の煙が吸い込まれていく。

「ねぇ、煙草っておいしいの?」

半分身を起こして足元に脱ぎ捨てられた水色の可愛らしい下着を身に着けながら彼女がそう尋ねる。

「おいしいよ。吸ってみる?」

僕はそう言って半分ほどの長さになった煙草の吸い口を彼女に差し出す。

彼女はしばらくその吸い口と差し出した僕の指を見つめていた。常夜灯が付いただけの薄暗い部屋の中に煙草の紅い火が泳ぐ。

 

少し不自然なくらい長い沈黙の後で彼女が口を開く。

「口移ししてみてよ、煙。」

「絶対むせるよ。それにたぶんおいしくない。」

普通に吸えばいいのに。と僕が言うと、彼女は気持ち悪いって言わないでねと前置きをした上でこう言った。

「私の吐息にもあなたの印を付けてほしいの。首にキスマークをつけるみたいに。あなたの煙で私に印をつけて。」

「それはちょっと気持ち悪いかも」

だから、気持ち悪いって言わないでねって言ったじゃない。そう言って膨れてそっぽを向いた彼女の顎に手を添えて振り向かせて唇を重ねる。もちろん口にはいつも吸い込むよりも少しだけ多くの煙を含んで。吸い込みすぎたせいか、それはいつもよりも尖った味がした。

案の定ひどくせき込んだ彼女がするなら言ってよ、と抗議の声を上げる。僕はそれを無視して煙草を吸い込む。背中から伝わる温度が心地よかった。

 

                 ◇

 

僕は今でもあの銘柄を吸うたびに僕の煙でむせていた彼女を思い出す。

結局僕らはうまくいかなくなってしまったけれど、決して険悪な別れ方をしたわけじゃなかった。もしかしたら、またいつか僕らの道が重なることもあるかもしれない。

 

どうかその日まで、彼女の肺が僕の煙でだけ汚れていますように。彼女があの煙草の匂いを嗅いで思い出すのが僕でありますように。

 


「髪、切ったんだね。」

僕は肩ほどまでもあった彼女のつややかな黒い髪に思いを馳せる。

「そうなの。彼、短いほうが好きだっていうから。」

そう言って彼女は柔らかそうなボブの毛先を指先でもてあそぶ。そういえばあいつは昔からショートヘアの女の子が好きだった。確か、中学の頃に好きだったテニス部のあの子も、高校で付き合っていた胸の小さな図書委員の後輩も髪の短い女の子だったような気がする。

 

もちろん僕は乙女心がわかる男なので、彼女の恋人の昔の女の話など持ち出さない。

彼女に話せないようなあいつの話なら、他にも山ほど知っている。中学から大学まで一緒なのだ。当然あいつも、僕が漫画の主人公に憧れて魔法の詠唱を練習していたことや、高校の卒業式にクラスのマドンナに告白して、手酷くフラれたことを知っている。

もっとも、僕があいつの秘密を洩らさないのは、友情からではなく、彼女の悲しむ顔を見たくないからだ。そもそも、僕らの間にあるのは友情というよりも、たぶんもう少しだけ雑な関係だ。まぁ、一般に男同士の友情なんてそんなものなのかもしれない。

 

今、僕の隣に座ってドーナツを食べている彼女が、いつの間にか僕らといるようになったのはいつからだったろうか。少なくとも彼らが付き合いだした大学一年の秋よりは前なのだろう。

たぶん、彼女のことを先に好きになったのはあいつじゃなくて僕だ。もちろんそれを二人に言ったことはないし、言うつもりもない。言ったところで一体どうなるというのだ?

彼らが付き合いだしても、僕らはよく三人で遊びに行っている。早くお前も彼女作って、ダブルデートしようぜなんてあいつは言うけれど僕の心はお前の隣のその子にとっくに奪われている。

僕は彼女の夜を映したような黒い髪も、春の生え始めのつくしのような可愛らしい笑顔も好きだった。あいつの好みに合わせてバッサリと切ってしまったのを本当に勿体ないと思う。

 

なぁ、親友、お前がもっと嫌な奴だったら、どれだけよかったろう。

僕と彼女は駅前のドーナツ屋で座ってドーナツを頬張る。

あいつの乗った電車はまだ着かない。

 

僕はさっきからずっと、美容院の床に彼女が散らかした夜のことについて考えている。

ピアニッシモ

 

「それ」に気が付いたのは三日前のことだった。

 

彼の机に置いてある灰皿に入れられた一本の細い吸い殻。私は彼がその銘柄を買ったことすらないことを知っている。そもそもそれは一般的には若い女性が吸う銘柄で、そのことが私の中の疑念を大きく育てた。

「それ」はいったいいつからそこに入っていたのだろうか?一週間前ほど前、吸い殻の山を見かねて私が灰皿を掃除したから、少なくともそれよりは後であるはずだ。

一度彼の不貞に対して疑念が沸き起こると、途端に今までなんとも思っていなかった小さなことが気になりだした。

 

メールの返信はあるのに、電話に出ないことがある。今までは無造作に置きっぱなしにしていた携帯電話を常にポケットに入れている。急に新しい靴を買った。抱き合ったときに匂いが変わった気がする。先週末は突然に用事が入った。腰遣いが変わった気がする。


もしかしたら、小さな偶然が積み重なっただけなのかもしれない。それでも、人は偶然の中に関連性を見出して、ありもしない意図を見出そうとする悲しい獣だ。

彼に問いただせば一息に解決するのかもしれないが、私はそれをしなかった。それをしてしまうことで今までの楽しかった時間を壊してしまうのが怖かったのかもしれないし、浮気されているということを明らかにしてしまうことで私の中のささやかだけれど確かな誇りが傷つくのを恐れたのかもしれない。

 

ベッドに座り込んで一向に鳴らない携帯電話を眺めていると、外で雨音がするのに気が付いた。薄いカーテンを開けると秋の冷たい雨が町を静かに湿らせているのが見えた。
 
ふと思い立って私は部屋着のスウェットを脱いだ。露出した肌に湿気が染みてくるような気がした。買ったころよりも幾分か太もものところがきつくなった色あせた紺のジーンズに足を通し、上には古着屋で買った濃いグレーのパーカーを羽織る。部屋の隅に山になっていた洗濯物の山から適当に選び出した靴下を履いて、財布と携帯電話だけをもってスニーカーに足を入れる。飲み会帰りにお気に入りの傘と取り違えてきた誰のものかもわからない傘を開き私は玄関を出た。

 

            ◇

 

私はコンビニで十本入りの「それ」を買った。それが見て見ぬ振りも、問いただすこともできない、私にできる精一杯の抵抗だった。彼の灰皿に私自身の吸った「それ」を混ぜることで、なにも無かったことにしよう。そして、何事もなかったように私たちは付き合い続けよう。変わってしまった彼の香りを煙草の煙でごまかして。

 

あの日の僕らは花火を見てた

遠くの夜空に花が咲く音で目が覚めた。

 

それが実際の夜空に咲いたものだったのか、それとも僕の夢の中に咲いたものだったのかはよくわからない。

 

どうやら僕は研究室の机に突っ伏して、いつの間にか寝てしまっていたらしい。その証拠に暗い部屋で煌々と輝く、書きかけの文章を写したディスプレイは額で押したのであろうローマ字の「f」で埋め尽くされていた。

 

時刻はすでに午後七時を回っていた。

 

そろそろ花火大会が始まったころだろうか?

 

行く相手も予定もない僕にとっては、関係のない話だ。そもそも、それがある事すら後輩が話しているのを耳にして、つい5時間ほど前に知った。

 

最後に打ち上げ花火を見たのは一体いつのことだったろう?まだ毎年盆に祖父の家を訪れていた小学生の頃、連れて行ってもらった夏祭りで見たのが最後かもしれない。

 

中学に上がってすぐ祖父が死んで、あのどこか懐かしい田舎町を訪れることもなくなった。

 

僕の両親は悪い人間ではないが、夏祭りや花火大会、遊園地や動物園に連れて行ってもらった記憶はない。おそらく、出不精な人たちだったのだろうと思う。そして、その性格は僕にも色濃く受け継がれていた。

 

 

と、そこまで考えて、高校時代に一度だけ、花火を見たことを思い出した。それも、女の子と。

どうして、そんなことになったのだったか思い出して気恥ずかしくなった。

そう、確か僕らは、僕らに優しくない青春に復讐に出かけたのだ。

 

         ◇

 

図書館から出ると空は薄紫に染まっていた。

 

夏至って何月だったかな、そんなことをぼんやりと考えながら、僕は自転車の鍵をポケットから取り出そうとして、それがそこにないことに気がついた。

 

そういえば、体育で運動着に着替えるとき、鍵を机の中に放り込んで、そのままにしていた。

ぎりぎり玄関を閉められてしまう前だったので僕は教室へと急いだ。

 

薄暗い廊下を抜けて教室に入ろうとしたとき、中に誰かがいることに気がついた。

窓際の席で寝ているその女の子が誰かと話しているところを僕は見たことがなかった。その子はいつも本を読んでいるか、窓の外をぼんやりと見つめていた。僕にはそれがこの教室という空間に居場所を見いだせなくて、「ここではないどこか」に思いを馳せる姿に見えて、いつも勝手な共感を感じていた。

 

彼女の二つ斜め後ろの自分の机から鍵を取り出して、彼女を起こすために後ろから右肩を叩いた。

 

眠そうに眼を擦った女の子は一瞬僕が誰だか、ここがどこだかわからなかった様だったけれど、すぐに意識がはっきりしてきたらしい。「これはこれは…恥ずかしいところを見られちゃったかな」と言ってはにかんだ。

 

「もうすぐ学校閉まるよ、もう六時過ぎだ」

「うん、起こしてくれてありがとう」

 

二人で校門を出るとさっきまでの空の紫はだいぶ紺色に飲み込まれていた。

 

「そういえば」僕の半歩後ろを歩く彼女が言う。「君は花火見に行かないの?」

そういえば今日は花火大会だったな、と昼間教室でイヤホン越しにでも聞こえて来たクラスメイトの大声を思い出す。意地の悪い質問だ。僕のクラスでの振る舞いを見ていたら、僕に花火大会に行く相手などいないことはすぐにわかるだろうに。

あるいは、クラスの誰も僕のことなど気にしていないのかもしれない。

ほんの少し捨ててしまったほうがマシなくらい小さな自尊心が傷ついたので、僕は彼女にも同じ質問をすることにした。

すると「意地悪だなぁ、花火大会なんて一人で行ったって面白くもなんともないし、一緒に行く相手がいたら教室で寝てたりなんかしないよ」と膨れられた。

 

自転車につけた鍵を外してカバンを籠に突っ込む。「僕は駅まで行くけど、君は?」と尋ねると、彼女は不自然なくらい考え込んだあとにこう言った。

「ねえ、このあと暇?」

「まぁね、家に帰ろうとしてたくらいだし」

「じゃあさ、私と私達のくすんだ青春に逆襲しに行かない?」

何を言っているのかよくわからなかった。

僕が困惑しているのを無視して彼女は続けた。

「私達の青春って、私達のこと見くびってると思うの。『こいつらに人並みの青春なんて送れやしないだろう。花火大会に行く相手もいないだろう』って。でもそれってなんか癪じゃない、だから私と君で、『私達だって花火大会に行く輝く青春を送れるんだぞ!』ってこと見せつけてやらない?」

無茶苦茶な話だった。けれど、そんなくだらない理論を本気で熱弁する彼女がなんだかおかしくて、その頃から十分に出不精だった僕はその誘いに乗る事にした。

 

          ◇

 

遠くで響く花火の音を聞きながら、彼女に電話をしてみようか、と思う。成人式で再開したときに、連絡先を教えてもらった。今は地元の大学の教育学部に通っているらしい。いつも教室ではないどこかに心を馳せていた彼女が教員になるというのは以外にも思えたけれど、もしかしたら、彼女は今も教室にいる「あの頃の自分」が少しでも居心地が良くなるように教員になるのかもしれない。

 

連絡帳から彼女の名前を開いて電話番号にカーソルを合わせたけれど、僕はその電話をかけることができなかった。

なんと言って電話を掛ければいいのだろう?花火の音を聞いていて、君を思い出したから?なんとなく声が聞きたくて?

 

どれも格好をつけ過ぎているような気がした。

 

あの日、花火の下で見た彼女の美しさすら言葉にできなかった僕に、今更そんなきざな言葉は言えないような気がした。

 

それに、あの日と違って花火が上がっているのは「僕らの」夜空ではなく、「僕の」夜空だ。

 

携帯電話を閉じて机の上に投げ出す。研究室に置いてあるオンボロのソファに寝転んで目を閉じる。

 

遠くの花火の音の下で、二人乗りをしたせいで汗まみれになった僕と涼しい顔をした美しい君が今も二人並んでいた。

 

今なら嫌いな相手を花火大会に誘うわけがないことも、僕が君に感じていたように、君も僕にシンパシーを感じてたことがわかる。

けれど、きっとあのころの僕らはお互いに臆病で、今となってはすべてが過ぎ去ってしまった。

僕らがくすんでいて、それでいて眩しい青春を過ごしたあの街にも今夜花火が上がっていて君も僕が恋しくなっていればいい。

 

 

どこか遠い場所で電話がなっている、そんな気がした。

 

 

 

 

 

『「君の話」の話』

「三秋縋」という人は,僕にとって神様の一人みたいな作家だった。

「三日間の幸福」を読んだのは高校生のころだったと思う。あのころ(高校生がよく感じる)どこにも行けない・何者にもなることのできない閉塞感にとらわれていた僕はあの作品を読んで,「あぁ,世界をこんな風に見ても許されるんだ」と確かに救われたのだ。

 それはあの日の僕にとって,気が付かないうちに落ちてしまった深い深い井戸の底から見上げた遥かな青空と同じくらい特別な意味を持つ小さくも確かな道標だった。

 

「行き詰まりの不幸のどん底で,心から幸せになる二人の話」という彼の物語に共通するストーリーの大枠は今回の「君の話」でも用いられている。

この物語は「7月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」の物語であり「10月のよく晴れた朝に100パーセントの女の子を失うことについて」の物語だ。

僕らは誰だってほかの誰かのためだけの<ヒーロー/ヒロイン>になって,自分の生きていることの意味を噛み締めたいし,あなたがいてくれるだけで十分だよ,と言ってもらいたい。

この物語はそんな<ヒーロー/ヒロイン>になれなかった,正しい<ボーイミーツガール>を味わえなかった人に向けに調整された一つの作られた記憶,すなわち作中の表現を借りるならば「君の話」という<義憶>なのだと思う。(メタ的な視点でいえば,今までの彼の物語も全てある種の義憶であるといえる)

僕はそれこそ物語の持つ本質的な役割のひとつなのだと思う。救われなかった誰かを,出会えなかった女の子を,手に入らなかった青春を,すべてが終わってしまった後で救おうと,出会おうと,手に入れようと足掻くこと。それが僕が彼らから教えてもらった物語の意味だ。

 

「君の話」という<義憶>を入れられた後で僕らは,もしかしたら7歳の時に出会えたかもしれない,存在もしない幼馴染の姿を夏の小さな陽だまりの中に,遠くの花火の音の響きに,ふと耳にした「蛍の光」の旋律に探してしまうだろう。これは彼が僕らに仕掛けた一つの(「マトリックス」を見た後に,世界のリアリティを信じられなくなったのと同様の)呪いなのだ。

 

僕は今までも,これからも彼の世界で一番優しい嘘に騙され続けていたい。

 

         *

 

たった312ページのことだけれど,僕には幼馴染がいた

紫陽花

ここ数日雨が続いていて、僕はとても嬉しい。

いつだったか雨宿りを兼ねてたまたま入ったこの古びた小さな隠れ家のような喫茶店が気に入って、僕は空が泣いたときにだけここに来ている。

 

「雨の日にしかここに来ない」と行ったが、それは正確ではない。ここは「雨の日でなければ来られない」場所なのだ。

今まで何度か、晴れの日や曇りの日に訪れようとしたのだけれど、その度、どうしても入り口の重いダークブラウンの木の扉へと続く小道を見つけることができず、断念していた。

最近はもう、諦めて雨の日だけの楽しみと割り切っている。

 

優しそうな目と大きな口のどこかカエルを思わせるマスターが一杯一杯手挽きで入れてくれるコーヒーは酸味と雑味が少なく、とても飲みやすい。

カウンターで読みかけの文庫本を片手にコーヒーを飲んでいると隣に誰かが座る気配がした。

「また、お会いしましたね」

そう言ってスカイブルーのワンピースを着た、僕と同じか、もう少し年下の女の子が微笑みかけてくる。この前来ていた赤紫のグラデーションのかかったドレスのような服も少し背伸びをしたお嬢様といった様子で、よく似合ってあっていたが、このワンピースも少女の持つあどけなさを十分に引き出しているように思えた。

「やぁ、今来たところ?」

「そうです、雨強くなってきましたよ。」

彼女と出会ったのは三ヶ月ほど前だったろうか。その日は珍しく客が多く入っていた。(こう言うと失礼に聞こえるかもしれないが、僕はこの店のそういうところが気に入っている。)いつものこの席でコーヒーを飲んでいると「お隣、いいですか?」と彼女に声をかけられた。空いている席は僕の隣だけだった。

「あぁ、いいよ。全然、どうぞ」

高校生だろうか?平日の昼間だけれど、まぁ、学校なんてものは適当な頻度でサボる方がもしかすると健全なのかもしれない。現にその日、僕も大学をサボっていた。

「ありがとうございます、びっくりしちゃいました。こんなに混んでること、いつもは無いから」

「そうだね、僕もおんなじことを考えていたよ」

店内では静かなジャズが流れていた。僕はジャズには詳しくないけれど、ウイスキーとコーヒーにはジャズがよく似合うと思う。

「ここのコーヒー、すごく美味しいですよね。雨の日にしか飲めないですけど」

「そうだね。憂鬱な雨の日の数少ない楽しみだ」

「雨、お嫌いなんですか?」

「あんまり好きじゃないな。君は好きなの?」

「好きですね。もしかしたら私が雨の日に生まれたからなのかもしれません」

 

なるほど、関係があるのかもしれない。僕が生まれた日は晴れていたのだろうか?

そんなことを考えていると彼女の頼んだコーヒーが運ばれてきた。彼女はその芳ばしい香りを楽しむように飲んだ。若いのに珈琲の飲み方がわかっているな、そう感じた。

もちろん、僕も全然若いのだけれど。

 

その後もこの店のチーズケーキが実は隠れた名品であることや、お互いこの店を気に入っているが、一緒に来るような友だちはいないというようなことを話した。

「でも」

僕はその頃にはすっかり彼女の丁寧な話し方と柔らかな微笑み方が気に入っていたので、こう言った。

「君みたいな魅力的な女の子とだったら、同級の男の子はデートしたいと思うものじゃないかな」

すると彼女は一瞬驚いたような顔をして微笑った。

「そんなことを言っても、奢りませんからね。それに、私って実は心変わりが激しいんですよ」

「そろそろ行きましょうか、雨も上がったみたいです」

雨上がりの街はなんだかいつもよりも美しく見えた。

 

そうして僕らは雨の日に会うようになった。

憂鬱だった雨の日がいつの間にか待ち遠しいものになっていた。

「私、『その人の色』ってどんな人たちと関わったかによると思うんです。遺伝子やそういうのも大きいんでしょうけど」

その通りだ、と思う。多分晴れた日に生まれた僕も今では雨の日の虜なのだから。

 

もうすぐ、梅雨が終わる。関東では数日前に梅雨明けが宣言された。夏になればきっと雨は夕立のような降り方をして、今までのように連日降り続けることは少ないだろう。

 

もし、たった一人の女の子のせいで雨が好きになったのなら、それはきっと恋なのだ。僕はそう思う。

 

夏が来ないまま、いつまでも息をしていられたらいい。いつの間にかコーヒーをアイスで頼むようになった彼女を横目に、そう思った。