赤い糸

ある晴れた木曜日の午後、気まぐれな神様のいたずらのせいで僕らの小指には赤い糸が結ばれた。うまく夫婦や恋人同士が繋がっていた人は良かったけれど、そうじゃ無かった人たちも結構多くて、世の中は最初結構混乱したらしい。

それでも、不確かな「恋心」ではなく明確な神の意図(皮肉なことにそれは糸だった)で自分が付き合うべき相手が決まっているというのは案外楽だった。例えば喧嘩をしたとしても、「まぁ運命の相手だから…」と思えば許すことができたし、叶わぬ恋に焦がれて眠れぬ夜を過ごすこともなかった。

 

僕が生まれた頃には当初の混乱もだいぶ収まってみんな赤い糸に従って将来の伴侶を早いうちから決めることにあまり抵抗を持たなくなっていた。実際僕の両親も赤い糸に海を跨いで結ばれて、それを道しるべに出会い、結婚したと聞いた。二人共それぞれ当時付き合っていた相手がいたらしいけど、あいにく、赤い糸では結ばれていなかったらしい。

 

〈木曜日のいたずら〉のあとに生まれた世代では自分と運命の相手が共に18になると、小指同士が結ばれる。18になる夜、一人真っ暗な天井に左手をかざしていたら、赤い糸が人馴れしたふわふわの猫のようにどこからか忍び寄ってきて僕の小指に結ばれた。

どうやら、僕の運命の相手はもう18になっていたらしい。僕は少しホッとする。聞いた話では20歳差で結ばれる二人もいるらしい。1年や2年ならまだしも20年も小指が空いていたのでは落ち着かない。もしかしたら僕の運命の相手が20歳年上ということもあり得るけれど、とりあえず僕が待ちぼうけを食らうことは無いみたいだった。

 

僕の運命の相手は、クラスで一番かわいい女の子だった。次の日の朝教室に入ってすぐ、糸が緩んだような感覚がして糸の先を辿ってみてわかった。自由恋愛の時代は身近な人と結ばれることが多かったらしいけど、それは単純に機会が与えられないからであって、几帳面な神の采配で七十億分の一(日本人に限っても一億何千万分の一だ)を選んだとき、知り合い同士が結ばれる確率は限りなくゼロに近い。だから、クラスメイト同士、というか同じ学校内ですらで結ばれることはものすごく珍しくて一日学校中から注目された。

 

そんな状況じゃ彼女とまともに話すことも難しくて、「これからよろしく」の一言も言えないまま、僕は家へと帰った。

きれいな女の子と結ばれて嬉しくないといえば嘘になるし、実際彼女は友だちとしても一緒にいてとても素敵な女の子だった。明日は、話ができるといいな、と思いながら目を閉じる。何も、夢は見なかった。

 

 

それからしばらく経つと噂が他の学校にまで広まって、なかなか彼女と二人で話す時間は取れなかった。そんな矢先だった。

日曜の夕方、風呂に入っている時、赤い糸が不意に切れてしまった。糸は物理的なものじゃなかったから、今まで切れたなんて話はほとんど聞いたことがなかった。

次の日学校に行くと、下駄箱には小さなメモ帳が入っていた。極めて全時代的な呼び出しには彼女の名前があって、部活が終わったあとに音楽室に来るよう書かれていた。

彼女は授業には出ていなかった。小指の糸がなくなったことに気づいた友人がいて、結構な騒ぎになったけれど、僕はほとんど他人事のようにその喧騒を聞き流していた。

 

        

放課後夕日の差し込む音楽室に行くと彼女は真っ黒なピアノの前に座って待っていた。

「待った?」そう聞くと彼女は小さく「ううん、今来たところ。来てくれてありがと」と言った。

「君との赤い糸、切れちゃったんだけど君の方はどうなってる?」どこかに連れて行かれそうなほど美しい夕焼けが窓の外には広がっている。そこで僕ははじめて彼女が左手に 白い手袋をしていることに気がついた。

「ごめんね、私が小指を切り落としたから、赤い糸、解けたの」彼女がそう言って白い手袋を外し床に落とす。たしかに彼女の小指があるべき場所には何も無くて、そこから彼女の宝石のような目が見える。

なるほど、確かに僕が女に生まれて、僕と赤い糸で結ばれたら小指を切り落とすかもしれない。僕と結ばれるくらいなら一人で生きるほうがいいのかもしれない。

「それでね」彼女が話し出す。「話があるの」今更、なんの話があるというのだろう?いろんな思いがこみ上げてきて、なんだか泣きそうになって、それでもなんとか堪えて彼女を遮ってこう言った。

「……確かに僕も僕と赤い糸で結ばれたら小指を切り落とすかもしれない、けど、迷惑かもしれないけれど、僕は君のこと好きだよ。この気持ちが神様の采配の残り香なのか、僕自身の気持ちなのかわからないけど、赤い糸が無くても僕は君が確かに好きだよ。」

それじゃあ、また明日教室で。そう言って踵を返し憂鬱な音楽室を出ようとしたとき彼女が話し出した。

「誤解させちゃってごめんなさい……あのね、私、嫌だったの。結ばれるずっと前からあなたを好きだった気持ちが赤い糸によってもともと決められたものだったなんて。だって私は神様に決められたから、あなたを好きになったわけじゃないもの。真面目なところも優しいところも、笑うと八重歯が覗くところも、少しハスキーな声も、勉強しているいる姿も 、私が見つけて、私が好きになったんだもの」

「だから、証明したかったの。私は赤い糸なんて無くても、あなたを好きでいられるって。赤い糸を切ってそれでも本当にあなたを好きって知って、それから想いを伝えたかったの…先に言われちゃったけど。」

「ねえ、私、あなたが好き。赤い糸なんて無くたって、あなたが運命の人じゃなくたって好きよ」

僕だってそうだ。彼女の側に行き小指のない左手を右手でそっと握る。これから、側にいても離れても僕らは繋がっていけるだろう。赤い糸が繋ぐよりも、ずっと強く。ずっと長く。