ピアス

 

「ねぇ私、ピアスを開けようと思うの」

 

ある晴れた3月の朝に彼女はそういった。

「へぇ、いいんじゃない、大学デビュー?」

高校三年生の春休み、お互い大して勉強をしなくても余裕で入れる地元の大学の合格も決まって、小学校から続く僕らの腐れ縁がこれからも同じように続く、そう信じていた頃のことだ。

「そんなところ、今からピアッサー買いに行くから付き合ってよ。10分後に私の家の前でいい?」

当然僕は暇だったけれど、少し気になって尋ねてみる。

「暇だけど…ピアスのことなんて全然わかんないよ。一緒に行くの僕でいいの?」

「高校はピアス禁止だったでしょ。誰と行っても同じよ」

一理ある。僕は急いで服を着替えて家を出た。

 

          ◇

彼女の家の前まで行くともうすでに彼女は外に出ていた。見たことのない白い長袖のシャツに春の空を落とし込んだような淡い水色のスカートを着ていて、きっとこれも大学デビューの準備なのだろうな。と思った。

「遅刻じゃない?」と彼女は言ったけれどまださっきの連絡から8分しか経っていない。「遅刻じゃないよ、ギリギリセーフ。それじゃ行こうか」

桜はまだ咲いていなかったけれど、オオイヌノフグリのちいさな青い花や菜の花の鮮やかな黄色が所々で眩しかった。どこまで買いに行くのかと聞くと駅の近くの大きなスーパーで取り扱っているのを見たという。僕もよく行くけれど、今までそんなものを売っていることには気が付かなかった。きっと僕の周りにはこんなふうにしてあるけれど気がつけていないものが溢れているのだろう。ふと、そんなことを考えた。

 

         ◇

 

片道15分の春を楽しみながらスーパーへたどり着く。ピアッサーというのは片耳ずつ使い切りのもので、そこにセットされているピアスをしばらくの間はつけていなければならないらしい。

「どの色が私に似合う?」と彼女が聞いてくる。「この紫色とかどうかな、大人っぽいと思うんだけど」「ふーん、紫か…どう?似合う?」そう言って耳元に紫の石を彼女が寄せる。「うん、似合うよ」「かわいい?」「可愛いっていうよりは綺麗かな」そう答えると彼女は満足したようで、紫の石のついたピアッサーを2つ手に取りレジへと向かっていった。

 

         ◇

大学はどんなところか、サークルは何に入るつもりか、今年はあの先生が離任するらしい、そんな話をしながら彼女の家の前まで戻ってくる。帰るのは少し名残惜しい気がしたけれど、用が終わったのに引き止めるのも不自然かな、と思い、じゃあ僕はここで、と彼女に告げる。

すると彼女は長い付き合いの僕も見たことのない恥ずかしそうな顔をして途切れ途切れにこう言った。

「そ…の、ピアス開けるの怖いから、よかったら開けてほしいんだけど。…うち今誰もいないし、ダメかな…?」

その表情がやけに可愛らしく見えて僕は不覚にもドキドキしてしまってよく考えないままに頷いてしまう。

 

          ◇

彼女の部屋に入るのは小学生のころ彼女の家に遊びに来たとき以来だろうか?

女の子の部屋でどう過ごしたらいいのかよくわからず座って待っていると、消毒用のウェットティッシュを取りに行った彼女が戻ってきた。

「それじゃあ、お願い」

彼女が僕の前に座り髪を掻き上げる。形のいい耳が顕になる。耳をウェットティッシュで拭き、ピアッサーをあてがう。耳に触れるたびに彼女の体が小さく跳ねる。おかげでこっちまでなんだか変な気分になってくる。

「いくよ」と小さな声でいうと、彼女は目だけでうなずいた。

 

ぱちん、と小さな音がして、僕は彼女の躰にささやかだけれど確かな跡を残した。

 

         ◇

 

 

「もう、耳はくすぐったいってば」頭を撫でながら耳に触れると彼女は猫のようにふるふると頭を振る。それでも懲りずに耳に手を伸ばして優しく撫でる。そこには僕が三年前に開けたほんの少し斜めに空いてしまったピアスの穴があって、彼女の躰に僕の印がついているような気がして嬉しくなる。

それをしたら、くすぐったがって怒ることはわかっていたけれど、僕はほかにどうすればこの気持ちをうまく伝えられるのかわからなくて、その小さな耳にそっと口づけをした。

 

夜空一杯の星を集めて

ひどく雨が降っていた。春なのに、すごく寒かった。
透明なビニール越しに見える滲んだ街明かりがひどく昔に忘れられた宝石箱のように光っていた。

ずっと好きだった女の子に思いを伝えようとした矢先の出来事だった。
彼女は去年からのクラスメイトで、今年も幸運なことに同じクラスになれた。
二人とも本が好きで、良く休み時間や放課後に自分の好みの作品について語り合った。話が合うということも、もちろんあったけれど、それよりも事あるごとに恥ずかしそうに笑うその顔がどうしようもなく好きだった。 
彼氏がいるなんて、そんな素振りは少しも見せなかったのに。僕と同じ紺色の制服を着た、見しらぬ男と手を繋いで、僕の大好きなはにかんだような笑顔を浮かべながら君は雨に煙る街を歩いていった。

消えてしまいたかった。雨に溶けて汚い泥水と混ざって排水口に流れ込んで、見たことのない道を通って遠く遠くの海にまで運んでほしかった。

街を歩く僕以外のすべての人が幸せに見える。信号待ちをするカップルも、母親と手を繋いで歩く小さな女の子も、誰かと親しげに電話をするサラリーマンも。

相手の男に妬ましさを覚えなかったといえば嘘になるけれど、彼女があんなに幸せそうな笑顔を向けるのだから、きっと素敵な人なのだろうと思う。そう思うと少し気が楽だった。けれど、彼のその素敵さがどんな素敵さか、僕はこれっぽっちも知りたくはなかった。

誰も知らないような深い森の奥に独りで取り残された言葉のように僕は震えていた。
聞こえてくるのは、雨の音と車が水しぶきを巻き上げる音だけ。

…本当にそれだけだろうか?それらの静かな音の暴力の中に何か意図を持ったメロディーが混じっていることに僕は気がついた。
それはピアノの音だった。
ピアノという楽器について僕は詳しいことはわからないし弾くことももちろんできない。それでも僕はあのどこか郷愁の念のようなものを含んだ音が好きだった。もし、雨に混じっていたのがビオラの音だったとしたら、僕がその音に気がつくことは無かっただろう。もちろん、ビオラに何かの恨みがあるわけではないけれど。

なんとなく気になってその小さな音を追いかけてみる。
それは今まで何度も通っていたのに、その存在にすら気が付いていなかった細い路地の奥から聞こえているように思えた。

やっと一人通れるほどの薄暗く細い路地を進んでいくと、小さな赤い屋根に古ぼけた焦げ茶色の木のドアが付いた一軒家がポツンと立っていた。ピアノの音はさっきよりもずいぶんしっかりと聞こえてくる。
導かれるようにしてその焦げ茶色のドアに手をかけると、その戸はまるで僕が来るのを待っていたかのように開いた。

家の中では小さな白のテーブルと大きな黒のグランドピアノ、そして壁一面の本棚が橙色の明かりに照らされていた。
ピアノを弾いていたのは、5月の空色のドレスを着た、僕よりも少し年下の女の子だった。女の子が音を奏でるたびに、高い位置で結んだ細いポニーテルが楽しげに揺れていた。

ドアの横には、僕のために黄緑色の木製のチェアが一脚だけ、ポツンと置いてあった。
その椅子に座り、ピアノの音に耳を澄ませる。題名はわからなかったけれど、その曲は満天の星を湛えた深い紫の夜空を思わせた。
こんなにきれいな曲を弾く女の子がどんな子なのか気になったけれど、なんとなく、彼女の顔を見てはいけないような気がした。ただ白く細い指と、音に合わせて揺れる髪と、それに合わせて見え隠れする首筋だけで、その女の子は完結していた。

何か絶対的なものに赦されているという感覚に支配されて、僕はコーヒーに落とした2つ目の角砂糖のように夜空に溶けていった。

あの夜以降、赤い屋根の家を何度か訪れようとしたけれど、夜空を聞くことはできていない。

 

彼女は夜空を背負ってた

 

彼女は夜空を背負っていた。
僕は、彼女のきめ細やかで白い肌に浮かぶ黒子をつないで、夜空に星座を見出した。

 

首筋に浮かぶ北極星を中心に二人だけで星座と神話を紡ぐのが、僕らが一緒寝た夜の決まりごとだった。


「今日は何が見つかった?」

「『電気羊の夢を見るアンドロイド座』かな」

「本気で言ってるの?人の背中で遊ばないでよね…」


本当にある星座を紡ぐ代わりにそんなくだらないオリジナルの星座を紡いだりもした。

 

          ◇

 

まだ僕が中学生だった頃、高校生だった兄が天体望遠鏡と星座図鑑を買った。
高校生というのは、なんだかよくわからないものに熱意を注ぐ生き物だと、自分も高校生を通り過ぎた今となってはわかる。僕も読めもしない洋書を集めるのに熱中した。
兄が飽きたあと望遠鏡と図鑑を譲り受けた僕は決して僕の手が届かないその世界に憧れた。実際に遠く文字通り幾星霜もの時を越えて、たった一瞬僕の瞳を通り過ぎる光に、中学生のセンシティブな僕の心は確かにある種の形で救いを与えられていた。

その頃覚えた、古き人々の産んだ物語を僕は彼女の背中に幾夜も超えて語り継いだ。
多くの怪物を打倒し、数々の試練を乗り越えた果てに非業の死を遂げた英雄の話、英雄に踏み潰された蟹の話、美女を攫うため、雄牛に化けた神様の話。そして、僕が一番好きだった腕のいい狩人、オリオンの物語。

 

          ◇


永遠に続くような気がした夜も気がつけば朝日の中に薄く消えていって、君の夜空は見えなくなってしまった。星に込められた物語を誰にも語らなくなって随分と長い時間が経つけれど、僕は今でもたまに独り思い出す。君の目元に輝く北極星を。君の背中に浮かぶ無数の星座を。

バレンタインデー

「ねぇ、チョコレート欲しい?」そう声をかけられて顔を上げると、想像していたよりもずっと近くに千鶴の顔があって、改めて近くで見るとこいつホントに鼻筋が通ってて肌白いしまつげも長いなーとかなんとか考えて、小っ恥ずかしくなって、気がつけば「いらないよ、腐れ縁からのチョコレートなんか」と笑い飛ばしていた。

 

これは男子高校生にしかわからない話だけれど、バレンタインチョコは母親からしか貰えなきゃそれはそれで切ないし、女の子から貰ったら嬉しいけどなんか気恥ずかしくて少しぶっきらぼうな対応になる。それが昔はなんとも思ってなかったのに、高校に入ってからやたらと女の子らしくなった隣に住んでる幼馴染からの義理チョコだったら尚更だ。

 

「……ふーん、そういうこと言うんだ……せっかく作ったのに。じゃあ、本当にあげないから。」そう言うと千鶴は不機嫌そうに踵を返して女子の輪の中に戻っていってしまった。鼻で笑われると思っていたのに、それが予想ずっと冷たい対応で少し、悪いことをした気もしたけれど、気になる女の子から義理チョコを貰うのは何も貰わないよりむしろ惨めかもしれない。そんなふうに自分を納得させた。それにどうせ手作りと言っても、去年のように部活の友人に配るついでに作ったものだろう。

 

アイツはいつもそうだ。僕の気持ちも知らないで昔のままの距離感で近づいてきて、その度に僕は「男として見られていない自分」と向き合うハメになる。かといって、今の無条件に側にいられる関係を自分から変えられるほど、僕は勇敢じゃなくて、そのことも苛立たしい。

だから、義理チョコなんて、受け取らなくて正解だと思った。

 

          ◇

結局、高校二年生のバレンタインに貰えたのは所属している陸上部のマネージャーからと男子全員に10円チョコをくれたクラスメートからの支給品だけだった。放課後体育館の横を通ると呼び出された男子と呼び出した女子がいい雰囲気になっていたりして、石の一つでも投げてやろうかと思った。

 

「おぅ今終わり?一緒帰ろうぜ」

ちょうど体育館から出てきたバレー部の悪友が言う。

「バレンタイン、何個もらえた?」

そう尋ねると「8個かな…半分は義理だけど」等とのたまうのでコイツとは縁を切ろうかなと半ば本気でそんなことを考える。

「そうそう義理チョコと言えばさ」

「ん?」

「千鶴ちゃん、今年部員にくれたチョコ買いチョコだったんだよな…去年までは手作りだったのに」

 

僕はその話に小さな疑問を覚える。確かに朝、千鶴は義理チョコを"作った"と言っていた。

 

「でさ、今年は手作りじゃないのか〜って言ったらさ『今年は手作りは本命だけなの、ゴメンね』って。しかも渡しに行くからって部活が終わったらすぐ帰っちゃってさ。お前仲いいだろ?千鶴ちゃんの好きな人、誰だか知らない?」

 

モテる悪友に適当に別れを告げて走り出す。

 

追いついた時にはちょうど千鶴は家の鍵を開けたところで、その背中になんて声をかければいいかわからなくなって、一瞬躊躇って大きな声で名前を呼んだ。

「何だ、君かい。チョコなら無いよ。結局誰にももらえなくて、私みたいな腐れ縁に縋りに来たんだろうけど、そんな奴にあげる義理チョコなんて、ほんとに一つも…!」

 

今にも泣きそうになっている瞳を見て、僕は自分の独りよがりを知る。よく見れば目元を拭う人差し指には絆創膏が巻いてある。

 

「……僕は、好きな女の子から義理チョコ貰うなんて惨めになるだけだから、千鶴からの義理チョコは受け取りたくなかったんだ」

 

「そんな嘘までついて、そこまでしてチョコが欲しいの?君なんてだいっきらいだ。」

 

「嘘じゃない。気持ちを口に出して、関係が壊れるのが怖くて、今まで言えなかったけれど、僕は千鶴が好きだ。」

 

僕達の間に、冷たい2月の風が吹く。空は鮮やかなオレンジから紺色に移り変わってきていて俯く彼女の顔は近くにいるのによく見えない。

「……倍で…して」

何かを千鶴が呟くけれど、声が小さくてよく聞こえない。

「3倍で返して、ホワイトデー。約束するなら、あげる」

「…わかった。量も想いも、三倍にして返すよ。」

「私が、どれだけ君を好きか、知らないでしょう。三倍返しなんて無理なんだから。だから、これは前払い分ね」

僕がその言葉を噛み締め終わる前に、唇に柔らかなものが押し付けられる。それが千鶴の小さく形のいい唇だと気がつくのに数秒かかって、これが前払いならホワイトデーには破産しそうだな、なんて考える。

あたりが暗くなっていて助かった。真っ赤になった顔を、誰にも見られずに、済むから。

 

 

 

ポケットの中の恋愛


僕と彼女がつながったのは、二ヶ月前のことだ。十月のある晴れた朝、ポケットの中に君の手が潜り込んできた。

何も入れていなかったはずのポケットの中に、突然柔らかく冷たいものが入っていて酷く驚いた。驚いて手を引き抜いて、恐る恐るもう一度手を差し入れる。すると、そこに入っていたはずのそれがなくなっていて、何だやっぱり勘違いか、なんて思っていると指先に先程の柔らかさが触れて、戸惑いがちに僕の手の上を這い回り始めた。それが人の手だと気がついたのは少しした後で、一体何が僕のポケットに起きたのか、全くわからなかった。

駅前の人通りの多い朝の歩道で自分のポケットを覗いて見るわけにもいかず、どうしたものかと手を撫でられるこそばゆさに耐えていると、不意に相手の手が引き抜かれた。

やれやれ、後でこのポケットは縫いとめて使えないようにしてしまおうか?

引き抜かれた手が再度ポケットに入ってきた感覚があって、少し遅れてカサカサと音のしそうな、小さな紙片が僕の手の中に押し込まれた。取り出して広げてみる。小さな花の模様があしらわれた可愛らしいメモ用紙が2つに折り畳まれて入っていた。

この花は何という名前なのだろう?小さな白色の優しそうな花の模様だった。

メモには「あなたは誰ですか?なぜ私のポケットの中にいるのでしょう」と几帳面そうな少し小さい文字で書かれていた。

そんなこと、こっちが聞きたい。なぜ、僕のポケットは十月のある晴れた朝にどこかにつながってしまったのだろうか。

とりあえず学ランの胸ポケットからペンを取り出して花柄のメモの裏に「僕は高校生で、どうしてこうなってしまったのかはわかりません。このポケットをどうすればいいのでしょう?」と書いてつながったポケットに押し込んだ。幸いにも向こう側の彼女はポケットに手を入れていなかったらしく、手が触れて気まずい思いはしなくて済んだ。

 

          ◇

 

一時間目の体育を終えて教室に戻って汗臭い運動着から制服に着替えなおして、慎重にズボンのポケットを弄ると、小さな文字で書かれた返事が来ていた。

「学生さんなんですね、私は社会人一年目です。勉強頑張ってください、私のポケットはスーツのものなのですが、スーツを一着しか持っていないのでしばらくポケットはこのままにさせていただいてもよろしいでしょうか…?ご迷惑はおかけしません。」

当然僕も学ランは一着しか持っていないし、それで問題はなかった。右のポケットに携帯や財布を入れないように気をつければそれで事は済む。

「ありがとうございます。お仕事頑張ってください。僕も学生服はこれしかないのでそうしてもらえるとありがたいです。よろしくお願いします。」

こうして僕らの奇妙な繋がりが始まった。

 

         ◇

初めてつながってから2日後、少し肌寒い雨の日に右ポケットに違和感を感じて中身を取り出してみると金の包み紙のチョコレートとあのメモが入っていた。

「職場でもらったんですけど、実はチョコレート苦手なのでおすそ分けです。チョコレートは集中力アップ効果があるとか…!勉強頑張ってくださいね」

ありがたく金の包み紙を剥がしてチョコレートを口に含むと、ミルクチョコレートの甘い味が口に広がる。結構高級なやつなんじゃないだろうか。

「ありがとうございます、美味しかったです。雨も降っていて寒いですが風邪に気をつけてください」

それをきっかけとしてなんとなく会話が途切れることもなくて、ささやかな文通が始まった。

好きな映画のこと、仕事で怒られたこと、時には苦手な英語も教えてもらったりした。お互いに何となく、名前は聞かなかった。それでも、(はっきりと口には出さなかったが)天気の話題が合うことや、話題に登る街の風景が重なることから、おそらく同じ街にいるのだろうということはわかった。

 

ある帰り道、あまりに寒くてポケットに手を突っ込んで歩いていると、彼女の冷たい手が滑り込んできて、遠慮がちに僕の手を握った。手紙ではちょっとした厚みになるくらいやり取りしたけれど、こうして手に触れるのはポケットがつながったあの日以来だった。

改めて触ってみると彼女の手は冷たくて、強く握っていたら折れてしまいそうに細かった。女の人の手なんて握るのは初めてだったから、手汗に気が付かれないか、強く握りすぎていないか、そんなことばかり気になった。そして僕らは、誰にも気が付かれないまま手を繋いで帰った。

この日から、僕は帰り道にはポケットに手を入れて歩くようになった。おそらく彼女もそうしているのだろうということは、手をつないで変える頻度が教えてくれた。

 

         ◇

 

今夜はクリスマスイブだけれど、受験生にはあまり関係ない。けれど、彼女にはなけなしの貯金を叩いてプレゼントを買った。苦手だった英語の成績が伸びたお礼という大義名分に頼って。

課外を終えた帰り道にプレゼントを仕込んでおこうと思ったら、ポケットの中に先客がいた。左手だけの手袋と小さなメモ。

「メリークリスマス!私からのプレゼントです。右手もあげちゃうと君の温度が感じられなくなるので左手だけだけど許してください」

マフラーで口元を隠して、にやついていることを悟られないように歩く。僕からのプレゼントをポケットに入れて帰り道で君が訪れるのを待つことにしよう。

 

         ◇

 

「ポケットから手出して歩きなさい、転んだとき危ないわよ」

なんて、さっき廊下で彼に言ったけれど、私に彼を怒る資格は無い。彼がポケットの中で待っているのは私の左手なのだから。それがなんだかたまらなくうれしくて、少しおかしくて、にこにこしてしまう。私が彼の正体に気がついたのは、英語の課題について聞かれたときだった。それが自分が授業で出した課題だとわかって、そこから突き止めることができた。早く気がついてくれないかなー、と思う半面、卒業の前には私からばらして告白しちゃおうかな、なんても、思う。彼が私の指にはまっている指輪に気がつくのはいつだろう。彼がプレゼントしてくれた指輪に。

完璧な日曜日

目が覚めた時、完璧な日曜日のお膳立てが整っていることに気がついた。

洗濯は一昨日したばかりだし、掃除機は昨日かけた。何より布団に包まっていた僕を優しく起こした午前10時の緑の風と黄色の日差しが僕にそれを告げていた。

大きく伸びをして布団を這い出る。顔を洗って寝癖を治す。パジャマを脱ぎ捨てて白のロングTシャツと黒のジーンズに着替える。誰に会うわけでもないけれど、しっかりと目を覚まさないで過ごすのは、完璧な日曜日に似つかわしくないように思えた。

 

          ◇

 

朝食を食べるにはあまりに遅かったのでブランチを食べることにした。「ブランチ」なんて休日的な響きの言葉だろうか?

いつか買ってそのままにしていたホットケーキミックスを引っ張り出してボウルに卵と牛乳を入れかき混ぜる。そこにホットケーキミックスを加えると菜の花色の海に白い島が浮かんだ。ダマがなくなるでかき混ぜた生地をお玉を使ってフライパンに落とす。プツプツと気泡が弾けるに従って甘い匂いが鼻腔をくすぐる。

世の中には幸せを内包した食べ物があって、ホットケーキは間違いなくその一つだ。他にはふわふわオムライスやタコの形に切られたウインナーや柔らかな桃も幸せの味がすると僕は思う。

こんがりと狐色に焼きあがったホットケーキを口に運ぶ。一枚目はバターで。二枚目はメープルシロップをかけて。

 

食べ終わった皿を片付けて、手挽きのコーヒーミルを棚から下ろす。自分でコーヒーを挽くのは少し手間だけれど、僕はその手間を愛する。それは音楽をわざわざレコードやカセットテープで聞くことやナイフで鉛筆を削ることと同じような楽しみであり、贅沢だ。

 

コーヒーを飲みながら窓際のベットに座って買ったままになっていた古い小説を読む。夏休みに田舎町を訪れた少年が小さな冒険を越えて少し大人になる話だった。プロットに目新しいところは無かったけれど、ただ夏の描写が美しかった。夕立に煙る町も、人ではない何かが紛れ込んでいそうな夏祭りも、セミが喚くうだるような暑さも、そこにあった。

この街にまだ夏は来ない。けれど、もしかしたら、僕がその足音を聴き逃しているだけなのかもしれない。そんな気がした。

 

本を読み終わると午後3時を半分以上回っていた。完璧な日曜日の夕方に、何が必要だろう?ぼんやりと考えていると、ふと近くに銭湯があったことに思い当たった。駅に行くときに何度か見かけていたけれど、まだ一度も入ったことはなかった。

大きな風呂、帰り道の夕焼け、ついでにビールなんかも買って帰ろう。

 

         ◇

思っていたよりもずっと大きな浴場は貸し切り状態だった。はじめて入った銭湯は僕が思い描いていたとおり壁に大きな富士の絵が書いてあった。何かで読んだことがあるけれど、銭湯の富士の絵を描く職人は日本に三人しかいないらしい。いつまで、この景色は日本人の「原風景」の一つで有り続けられるだろうか。もし、天国があるのなら人々から忘れられたいつかの原風景のための天国があったらいい、僕はそう思う。 

風呂に入っていると何かに許されているような気分になる。僕の輪郭が溶けて、お湯と混ざっていくのを感じた。

 

          ◇

風呂を上がって今時絶滅危惧種になった瓶の牛乳を飲み終わって外に出ると、すっかり街は夕焼けに染まっていた。槇原敬之の「The Average man keeps walking」を口ずさみながら帰る。いつだったかラジオで聞いて以来、なんとなく忘れられなくて、ずっと好きな曲だ。僕はこの曲より日曜日の夕暮れにふさわしい曲をあれから何年もたった今もまだ、見つけられずにいる。

          ◇

スーパーに寄って缶ビール二本と焼き鳥とカツ丼を買った。

家に帰って、七時からのバラエティ番組を見ながらカツ丼を食べて、焼き鳥を肴にビールを飲んだ。初めて飲んだときは苦くて二度と飲まなくていいと思ったビールも、いつの間にか自分で買って飲むようになった。きっと僕はこうして少しずつ大人になっていくのだろう。もうすでに、高校生の僕が何を感じて生きていたのか、今の僕にはわからない。

 

テレビを消して、ベッドに寝転がってラジオを付ける。有名な洋楽がリクエストされて、それが流れる。あぁなんて言ったっけなこの曲、完璧な日曜日の終わりにはふさわしいアコースティックギターの弾き語りだった。

 

微睡みながら、心に広がる充足感を味わう。

 

「完璧な日曜日」は確かに世界に存在するのだ。僕はそれだけで満足だった。それがわかっていれば明日から再開する日常がどれほど酷いものでも、僕は世界を嫌わずに生きていける気がした。

 

ラジオから流れる弾き語りが終わるその前に、眠りに落ちた僕の完璧な日曜日は終わった。

それは確かに愛だった

「眠れないの。いつもの、弾いて」

君は今晩も僕にそう頼む。僕は君にこのお願いをされるたびに胸に小さく感じる痛みが決して顔に出ないように精一杯のにこやかな笑顔でそれに応える。そう、これは業務の一環で、それ以上の意味は何もない。

僕と君の間に雇用者と従業員以上の関係がないように。

ゆっくりと冷たい鍵盤に指を下ろす。静かなピアノの音が月夜に響く。君に触れられぬこの手の代わりに、この音が君の髪を撫でるように。君に口付けられぬ唇の代わりにこの旋律が君を濡らすように。君の白く細い身体が夜の重さに壊されぬように。そう祈って僕は音を紡ぐ。それは、確かに愛だった。