あの日の僕らは花火を見てた
遠くの夜空に花が咲く音で目が覚めた。
それが実際の夜空に咲いたものだったのか、それとも僕の夢の中に咲いたものだったのかはよくわからない。
どうやら僕は研究室の机に突っ伏して、いつの間にか寝てしまっていたらしい。その証拠に暗い部屋で煌々と輝く、書きかけの文章を写したディスプレイは額で押したのであろうローマ字の「f」で埋め尽くされていた。
時刻はすでに午後七時を回っていた。
そろそろ花火大会が始まったころだろうか?
行く相手も予定もない僕にとっては、関係のない話だ。そもそも、それがある事すら後輩が話しているのを耳にして、つい5時間ほど前に知った。
最後に打ち上げ花火を見たのは一体いつのことだったろう?まだ毎年盆に祖父の家を訪れていた小学生の頃、連れて行ってもらった夏祭りで見たのが最後かもしれない。
中学に上がってすぐ祖父が死んで、あのどこか懐かしい田舎町を訪れることもなくなった。
僕の両親は悪い人間ではないが、夏祭りや花火大会、遊園地や動物園に連れて行ってもらった記憶はない。おそらく、出不精な人たちだったのだろうと思う。そして、その性格は僕にも色濃く受け継がれていた。
と、そこまで考えて、高校時代に一度だけ、花火を見たことを思い出した。それも、女の子と。
どうして、そんなことになったのだったか思い出して気恥ずかしくなった。
そう、確か僕らは、僕らに優しくない青春に復讐に出かけたのだ。
◇
図書館から出ると空は薄紫に染まっていた。
夏至って何月だったかな、そんなことをぼんやりと考えながら、僕は自転車の鍵をポケットから取り出そうとして、それがそこにないことに気がついた。
そういえば、体育で運動着に着替えるとき、鍵を机の中に放り込んで、そのままにしていた。
ぎりぎり玄関を閉められてしまう前だったので僕は教室へと急いだ。
薄暗い廊下を抜けて教室に入ろうとしたとき、中に誰かがいることに気がついた。
窓際の席で寝ているその女の子が誰かと話しているところを僕は見たことがなかった。その子はいつも本を読んでいるか、窓の外をぼんやりと見つめていた。僕にはそれがこの教室という空間に居場所を見いだせなくて、「ここではないどこか」に思いを馳せる姿に見えて、いつも勝手な共感を感じていた。
彼女の二つ斜め後ろの自分の机から鍵を取り出して、彼女を起こすために後ろから右肩を叩いた。
眠そうに眼を擦った女の子は一瞬僕が誰だか、ここがどこだかわからなかった様だったけれど、すぐに意識がはっきりしてきたらしい。「これはこれは…恥ずかしいところを見られちゃったかな」と言ってはにかんだ。
「もうすぐ学校閉まるよ、もう六時過ぎだ」
「うん、起こしてくれてありがとう」
二人で校門を出るとさっきまでの空の紫はだいぶ紺色に飲み込まれていた。
「そういえば」僕の半歩後ろを歩く彼女が言う。「君は花火見に行かないの?」
そういえば今日は花火大会だったな、と昼間教室でイヤホン越しにでも聞こえて来たクラスメイトの大声を思い出す。意地の悪い質問だ。僕のクラスでの振る舞いを見ていたら、僕に花火大会に行く相手などいないことはすぐにわかるだろうに。
あるいは、クラスの誰も僕のことなど気にしていないのかもしれない。
ほんの少し捨ててしまったほうがマシなくらい小さな自尊心が傷ついたので、僕は彼女にも同じ質問をすることにした。
すると「意地悪だなぁ、花火大会なんて一人で行ったって面白くもなんともないし、一緒に行く相手がいたら教室で寝てたりなんかしないよ」と膨れられた。
自転車につけた鍵を外してカバンを籠に突っ込む。「僕は駅まで行くけど、君は?」と尋ねると、彼女は不自然なくらい考え込んだあとにこう言った。
「ねえ、このあと暇?」
「まぁね、家に帰ろうとしてたくらいだし」
「じゃあさ、私と私達のくすんだ青春に逆襲しに行かない?」
何を言っているのかよくわからなかった。
僕が困惑しているのを無視して彼女は続けた。
「私達の青春って、私達のこと見くびってると思うの。『こいつらに人並みの青春なんて送れやしないだろう。花火大会に行く相手もいないだろう』って。でもそれってなんか癪じゃない、だから私と君で、『私達だって花火大会に行く輝く青春を送れるんだぞ!』ってこと見せつけてやらない?」
無茶苦茶な話だった。けれど、そんなくだらない理論を本気で熱弁する彼女がなんだかおかしくて、その頃から十分に出不精だった僕はその誘いに乗る事にした。
◇
遠くで響く花火の音を聞きながら、彼女に電話をしてみようか、と思う。成人式で再開したときに、連絡先を教えてもらった。今は地元の大学の教育学部に通っているらしい。いつも教室ではないどこかに心を馳せていた彼女が教員になるというのは以外にも思えたけれど、もしかしたら、彼女は今も教室にいる「あの頃の自分」が少しでも居心地が良くなるように教員になるのかもしれない。
連絡帳から彼女の名前を開いて電話番号にカーソルを合わせたけれど、僕はその電話をかけることができなかった。
なんと言って電話を掛ければいいのだろう?花火の音を聞いていて、君を思い出したから?なんとなく声が聞きたくて?
どれも格好をつけ過ぎているような気がした。
あの日、花火の下で見た彼女の美しさすら言葉にできなかった僕に、今更そんなきざな言葉は言えないような気がした。
それに、あの日と違って花火が上がっているのは「僕らの」夜空ではなく、「僕の」夜空だ。
携帯電話を閉じて机の上に投げ出す。研究室に置いてあるオンボロのソファに寝転んで目を閉じる。
遠くの花火の音の下で、二人乗りをしたせいで汗まみれになった僕と涼しい顔をした美しい君が今も二人並んでいた。
今なら嫌いな相手を花火大会に誘うわけがないことも、僕が君に感じていたように、君も僕にシンパシーを感じてたことがわかる。
けれど、きっとあのころの僕らはお互いに臆病で、今となってはすべてが過ぎ去ってしまった。
僕らがくすんでいて、それでいて眩しい青春を過ごしたあの街にも今夜花火が上がっていて君も僕が恋しくなっていればいい。
どこか遠い場所で電話がなっている、そんな気がした。
『「君の話」の話』
「三秋縋」という人は,僕にとって神様の一人みたいな作家だった。
「三日間の幸福」を読んだのは高校生のころだったと思う。あのころ(高校生がよく感じる)どこにも行けない・何者にもなることのできない閉塞感にとらわれていた僕はあの作品を読んで,「あぁ,世界をこんな風に見ても許されるんだ」と確かに救われたのだ。
それはあの日の僕にとって,気が付かないうちに落ちてしまった深い深い井戸の底から見上げた遥かな青空と同じくらい特別な意味を持つ小さくも確かな道標だった。
「行き詰まりの不幸のどん底で,心から幸せになる二人の話」という彼の物語に共通するストーリーの大枠は今回の「君の話」でも用いられている。
この物語は「7月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」の物語であり「10月のよく晴れた朝に100パーセントの女の子を失うことについて」の物語だ。
僕らは誰だってほかの誰かのためだけの<ヒーロー/ヒロイン>になって,自分の生きていることの意味を噛み締めたいし,あなたがいてくれるだけで十分だよ,と言ってもらいたい。
この物語はそんな<ヒーロー/ヒロイン>になれなかった,正しい<ボーイミーツガール>を味わえなかった人に向けに調整された一つの作られた記憶,すなわち作中の表現を借りるならば「君の話」という<義憶>なのだと思う。(メタ的な視点でいえば,今までの彼の物語も全てある種の義憶であるといえる)
僕はそれこそ物語の持つ本質的な役割のひとつなのだと思う。救われなかった誰かを,出会えなかった女の子を,手に入らなかった青春を,すべてが終わってしまった後で救おうと,出会おうと,手に入れようと足掻くこと。それが僕が彼らから教えてもらった物語の意味だ。
「君の話」という<義憶>を入れられた後で僕らは,もしかしたら7歳の時に出会えたかもしれない,存在もしない幼馴染の姿を夏の小さな陽だまりの中に,遠くの花火の音の響きに,ふと耳にした「蛍の光」の旋律に探してしまうだろう。これは彼が僕らに仕掛けた一つの(「マトリックス」を見た後に,世界のリアリティを信じられなくなったのと同様の)呪いなのだ。
僕は今までも,これからも彼の世界で一番優しい嘘に騙され続けていたい。
*
たった312ページのことだけれど,僕には幼馴染がいた
紫陽花
ここ数日雨が続いていて、僕はとても嬉しい。
いつだったか雨宿りを兼ねてたまたま入ったこの古びた小さな隠れ家のような喫茶店が気に入って、僕は空が泣いたときにだけここに来ている。
「雨の日にしかここに来ない」と行ったが、それは正確ではない。ここは「雨の日でなければ来られない」場所なのだ。
今まで何度か、晴れの日や曇りの日に訪れようとしたのだけれど、その度、どうしても入り口の重いダークブラウンの木の扉へと続く小道を見つけることができず、断念していた。
最近はもう、諦めて雨の日だけの楽しみと割り切っている。
優しそうな目と大きな口のどこかカエルを思わせるマスターが一杯一杯手挽きで入れてくれるコーヒーは酸味と雑味が少なく、とても飲みやすい。
カウンターで読みかけの文庫本を片手にコーヒーを飲んでいると隣に誰かが座る気配がした。
「また、お会いしましたね」
そう言ってスカイブルーのワンピースを着た、僕と同じか、もう少し年下の女の子が微笑みかけてくる。この前来ていた赤紫のグラデーションのかかったドレスのような服も少し背伸びをしたお嬢様といった様子で、よく似合ってあっていたが、このワンピースも少女の持つあどけなさを十分に引き出しているように思えた。
「やぁ、今来たところ?」
「そうです、雨強くなってきましたよ。」
彼女と出会ったのは三ヶ月ほど前だったろうか。その日は珍しく客が多く入っていた。(こう言うと失礼に聞こえるかもしれないが、僕はこの店のそういうところが気に入っている。)いつものこの席でコーヒーを飲んでいると「お隣、いいですか?」と彼女に声をかけられた。空いている席は僕の隣だけだった。
「あぁ、いいよ。全然、どうぞ」
高校生だろうか?平日の昼間だけれど、まぁ、学校なんてものは適当な頻度でサボる方がもしかすると健全なのかもしれない。現にその日、僕も大学をサボっていた。
「ありがとうございます、びっくりしちゃいました。こんなに混んでること、いつもは無いから」
「そうだね、僕もおんなじことを考えていたよ」
店内では静かなジャズが流れていた。僕はジャズには詳しくないけれど、ウイスキーとコーヒーにはジャズがよく似合うと思う。
「ここのコーヒー、すごく美味しいですよね。雨の日にしか飲めないですけど」
「そうだね。憂鬱な雨の日の数少ない楽しみだ」
「雨、お嫌いなんですか?」
「あんまり好きじゃないな。君は好きなの?」
「好きですね。もしかしたら私が雨の日に生まれたからなのかもしれません」
なるほど、関係があるのかもしれない。僕が生まれた日は晴れていたのだろうか?
そんなことを考えていると彼女の頼んだコーヒーが運ばれてきた。彼女はその芳ばしい香りを楽しむように飲んだ。若いのに珈琲の飲み方がわかっているな、そう感じた。
もちろん、僕も全然若いのだけれど。
その後もこの店のチーズケーキが実は隠れた名品であることや、お互いこの店を気に入っているが、一緒に来るような友だちはいないというようなことを話した。
「でも」
僕はその頃にはすっかり彼女の丁寧な話し方と柔らかな微笑み方が気に入っていたので、こう言った。
「君みたいな魅力的な女の子とだったら、同級の男の子はデートしたいと思うものじゃないかな」
すると彼女は一瞬驚いたような顔をして微笑った。
「そんなことを言っても、奢りませんからね。それに、私って実は心変わりが激しいんですよ」
「そろそろ行きましょうか、雨も上がったみたいです」
雨上がりの街はなんだかいつもよりも美しく見えた。
そうして僕らは雨の日に会うようになった。
憂鬱だった雨の日がいつの間にか待ち遠しいものになっていた。
「私、『その人の色』ってどんな人たちと関わったかによると思うんです。遺伝子やそういうのも大きいんでしょうけど」
その通りだ、と思う。多分晴れた日に生まれた僕も今では雨の日の虜なのだから。
もうすぐ、梅雨が終わる。関東では数日前に梅雨明けが宣言された。夏になればきっと雨は夕立のような降り方をして、今までのように連日降り続けることは少ないだろう。
もし、たった一人の女の子のせいで雨が好きになったのなら、それはきっと恋なのだ。僕はそう思う。
夏が来ないまま、いつまでも息をしていられたらいい。いつの間にかコーヒーをアイスで頼むようになった彼女を横目に、そう思った。
サボテン
育て始めるまで、「サボテン」というのは英名だと思っていた。なんでも、サボテンの一種を「シャボン(石鹸)」の様に昔の人は使っていて、彼らを「シャボテン」と呼んでいたらしい。それが訛ってサボテンになったのだとか。
英名は…何だったかな、花屋の店員はそれを教えてくれたのだけれど、ちょうどすっぽりその名前が抜け落ちてしまっていて思い出せない。
僕がサボテンを育て始めたのは、君が出ていった次の日のことだった。荷物を小さなスーツケースといくつかのカバンに全部詰め込んで、君はきれいさっぱり僕の生活から出ていった。
一人で過ごすには広すぎる部屋の無駄に大きなダブルベッドで一晩を越した僕はその空隙の多さに耐えられなくなって、なんでもいいから詰め込んでおきたくて、だから仕事帰りにいつもは通り過ぎるだけで気にも止めていなかった小さな花屋に寄ったのだと思う。
花屋というのは、基本的に優しく、幸せな場所なんじゃないかと僕は思っている。ここに来る人は皆、誰かのことを(あるいは自分のことを)想っている。それが愛を伝えるための花であろうと、誰かを見舞うための花であろうと、居なくなった人に捧ぐ花であろうと。
そんな場所だからこそ、棚の隅にぽつんと佇む小さなサボテンに目が行った。彼は薔薇のように美しくもないのに、身を守るための棘を持っていることを恥じているように、僕には思えた。その行き場のない感じになにか、惹かれるものがあって、僕はその小さなサボテンを買って帰った。
「何かを好きで居続けるためにはね」と彼女は別れ話をしている時に言った。「適切な距離ってものがあるのよ、きっと。私達は少し―ほんの少しよ、近づきすぎたんじゃないかしら」僕も同じことを考えていたよ。それが僕らの最後の会話になった。僕らは最後まで結構気が合っていたのだ、それはきっとすごく喜ばしいことなんだと思う。
6月の湿った風が開け放った窓から吹き込んでくる。明日はもしかしたら雨が降るかもしれない。二人で入るために買った傘はどうにも一人で使うには大きすぎる。そのうち、もう少し小さめの傘を買おうと思う。でも、壊れてからで構わない。
ーおそらく、僕らの恋はサボテンのように育てるべきだったのだ。日を浴びて棘を伸ばす(サボテンの葉はあの棘なのだ。これも僕はサボテンを育て始めてから知った。)自然な量の水と程々の肥料で永く育てるべきだったのだ。愛情を注ぎすぎた僕らの恋は根腐れを起こして、気がつけば取り返しのつかないところまで転がり落ちていってしまった。
今僕のサボテンは元気に育っている。きっといつか、薔薇にも負けない美しい花を咲かせることだろう。そうしたら僕は、街で偶然君に出会っても、上手に笑える気がする。本当に、こころの底から。
それまでは、どうか寂しい夜に君を思い出す格好悪い僕を許してほしい。
恋人の日
「え?」
気になるクラスメイトの女の子の言葉を聞き逃すような男はロクな男じゃないんだけど、僕は彼女の口から出た「放課後私とデートしない?」という言葉が、僕のあまりに都合のいい聞き間違いに思えて思わず聞き返してしまった。
「見たい映画があるの。あそこの映画館、カップルで行くと今日半額になんだって。」
なるほど、個人的好意から誘われなかったのはいささか残念だったけれど、もちろん断る理由はなくて僕は二つ返事でオーケーをした。
外に出ると、朝から振り続ける雨は激しさを増していた。傘をさして二人並んで歩く。
「『雨の匂い』って言ったらわかる?」
彼女の水色の声の後ろからは紫陽花の大きな葉がぱたぱたと水滴を弾く音が聞こえてくる。
「わかるよ。雨が降る前と降ったあとの湿った空気のにおいだろ。」
「そう、私あの匂いが好きなんだ。でも、この街は私の地元ほど雨の匂いがしない気がして残念。」
彼女は僕らの大学があるこの街からは遠く遠く離れた街の出身だった。
「僕はこの街で生まれ育ったから他の街の雨の匂いについてはよくわからないけれど、いつか君の街に遊びに行くことがあったら、ぜひ雨が降ってほしいな。」
「そうだね、その時は私が好きだった雨の似合う喫茶店、連れて行ってあげる。」
ビルとビルの間にひっそりと佇む映画館はカップルデーとは行っても、いつものように閑散としていた。
僕が物心ついた頃からこの映画館はここにあったけれど、いつも大きな映画館では上映しないけれどセンスの良い映画を上映している。僕も時々、どうしても「映画館で見たい映画」がある時お世話になっている。
世の中には確かに「映画館で見るべき映画」が存在していると思う。それは大作アクションだったり、音響に拘った映画だったり、あるいはもっと言語化しにくい微妙な特徴を持った映画だ。そういう映画がある限り、いくらレンタルサービスが発展したって映画館という場所は消えたりはしないだろう。
その日彼女が見たいと言っていたのは、女の子がある朝目覚めたらペンギンへと変身してしまっていた。という映画だった。
ラブストーリーは別に僕は特段「映画館で見るべき映画」だとは思わなかった。この時までは。
受付でチケットを二枚買う。彼女の言うとおり、二枚でいつもと同じ値段だった。せっかくだから格好つけたくて、財布を開こうとする彼女を横目にさっさとお金を払ってしまう。
受付を離れたあとで、彼女はチケットを受け取りながら、自分が誘ったのだから、半分払うということを主張した。
僕はきっと舞い上がっていたのだろう。
「いいよ、僕は今日君の彼氏役だから。奢らせてよ。」といやに芝居がかった事を口にしてしまった。
「…格好つけちゃって。あとから請求されても払わないからね」そう言ったあと小さく「ありがとう」と言って彼女はそっぽを向いてしまった。
スクリーンはがら空きで僕らの他に二組カップルがいるだけだった。彼らは本当のカップルなのだろうか?僕から見たら本当のカップルも偽装カップルも見分けはつかなくて、それは誰かから見た僕らもそうなのだと思い当たって少し嬉しくなる。
真ん中から少し前の席に座ってしばらくするとあたりが暗くなって様々な映画の予告が流れ始める。僕はこの予告が好きだ。予告で面白そうだと感じて見た映画に何度騙されたって、このワクワク感を僕はどうしたって嫌いになれない。
◇
映画の内容は、よく覚えていない。つまらなくはなかったけれど、何となくよくある話のような気もした。それでも、僕は映画館で見るラブストーリーに対しての認識を改める必要があった。
おそらく、ラブストーリーの正しい楽しみ方の一つは、好きな女の子と一緒に見ることなのだ。映画のヒロインがいくら可愛らしくたって、どれほど感動的なストーリーであったって、一時間とそこら、すぐ隣に自分の好きな女の子が座っていることと比べたら些細なことなのだ。
たぶん僕が映画の内容を覚えていないことの八割くらいはそれが原因だと思う。
外に出るとすっかり暗くなっていて、雨は激しさを増していた。
「うわ、寒いね」と彼女が自分の肩を抱く。
僕が差し出した学生服の上着も「格好つけ」と笑いながらだが、本当に寒かったのだろう、素直に受け取って羽織っていた。
傘をさして帰ろうとすると、彼女は自分の傘を広げずに僕の傘に潜り込んできた。
驚いて彼女を見ると
「私は今日あなたの彼女なんでしょう?」
と悪戯に笑っていた。
雨にぼやける街灯りを駅に向かって歩く。このまま駅に付かなければいいと思うけれど、映画館から駅まではせいぜい15分くらいだ。
一つになった二人の影が車のライトを浴びて伸びていく。湿った空気の中を泳ぐ彼女は、さっきの映画のヒロインなんかよりずっと可愛らしく見えた。
駅のホームにつくと彼女は傘からするりと抜け出して行った。
僕はさっきまでそこにあった暖かさを永遠にしたいと思う。彼女と過ごす全ての日々が『恋人の日』になればいい。
そのために、僕はほんの少し勇敢にならなきゃいけないだろう。僕が大好きな映画の主人公達のように。
水色の街
この世界は夏が来る前のまま、立ち止まっている。
静かな銀の湖面を臨む街で雨の降らない水彩絵の具で描いたような空がいつまでも続いていることに気がついているのはたぶん、僕一人だ。
毎朝同じ時間に目を覚まして、同じ服に着替える。着替え終わる頃には母が朝食を食べるよう呼ぶ声が階下から聞こえてくる。
無言で新聞を捲りながらコーヒーをすする父を横目に、これ以上ないくらい上手い具合に半熟の目玉焼きと狐色に焦げたトーストを囓る。
きっと僕は昨日も「これ」を食べたのだろう。覚えていないけれど、きっとそうだ。
朝食を終えて自室で寝転がっていた僕は気が付かないうちに微睡んでしまう。開けておいた窓から爽やかな風が吹き込む。父は今日も仕事に出かけていったし、母は昨日と同じスーパーに昨日と同じ買い物をしに出かけた。
僕は昨日と同じ時間に出かけるかどうか一瞬、迷ったけれど深く考えるのをやめて起き上がってお気に入りのスニーカーに手を伸ばして玄関を出た。
パステルカラーのポストの上で眠る猫があくびをして挨拶をしてくれる。僕はその頭をなでて彼の首元で小さくチリンチリンとなる鈴の音に耳を澄ませる。彼はきっと世界が前に進んでも、毎日あそこで眠っているのだろう。そんな気がした。
丘の麓にある、半分木々に埋もれたような市立図書館の扉を開ける。
「こんにちは」とカウンターの中に向かって声をかける。
「図書館ではお静かに」そんなルールはあるけれど、この図書館に来て誰かにあったことなんて昨日も今日も、きっと明日も無い。
「あら、いらっしゃい。今日も来たの?」
焦げ茶色の少しだけ大人な瞳が僕を見つめる。彼女こそがこの世界を立ち止まらせる原因、夏の一歩手前の季節の女神だ。
「他に行くところも無いからね」そう答えると、「友達、いないの?」と哀れまれた。
余計なお世話だと思ったけれど、彼女を見ると嬉しそうに微笑んでいたのであえて言わなかった。
どうして彼女がこの世界に引きこもってしまったのか、僕にはわからない。なぜ、僕にだけ世界の真実が見えるようにしたのかも、僕にはわからない。
おそらくは彼女自身、その理由は忘れてしまっているのだろう。もうどれくらい前か覚えていないがある時彼女を問い詰めたけれど、ぽかんとした顔で「何かのゲームの設定?面白そうだね」とはにかむばかりだった。
カウンターを離れて書棚の間をぶらぶら歩く。図書館の中は外とは違ってひんやりとしていた。きっと本を守るために最適な温度や湿度というものがあって、それを保つように作られているのだろう。僕はここに来るたびに、図書館はなんだか知識のための大きな棺のようだと思う。
昨日、僕が読んだ本が何だったのか僕は知らない。もしかしたら僕は毎日同じ本を読んでいるのかもしれない。「バベルの図書館」と言うタイトルに目を引かれてホルヘ・ルイスの作品集を手元にカウンターの向かいのテーブルへと戻る。彼女が仕事を終える午後二時半まで僕は毎日ここで何かを読んでいる。
すべてが収められた図書館の中で生まれ、その中で死ぬ司書の物語を読んでいる途中で僕は眠ってしまっていたらしい。いたずらに笑う彼女に起こされたときには午後三時前で、頬には机の模様が刻まれていた。
「寝顔が可愛くて、思わず見てたら三時になっちゃった」という彼女のからかいにも慣れたもので、初めて出会った十五歳の頃ならまだしも、それくらいで僕が照れることはもうない。二人で図書館を出ると今までの過ごしやすい気温と湿度はどこかへ吹き飛んで、少し傾いたものの、まだまだ暑い日差しが僕らを照らした。
「ねえ、今年の夏はどこへ行こうか」ぼんやりと蜃気楼を眺めていると彼女がそう問いかける。「そうだな、とりあえず海には行きたいかな」「痩せなきゃなぁ…私」そんなやり取りをしながらも僕だけは知っている。この世界に永遠に夏など訪れないことを。僕らが昨日も一昨日もその前も、何十回も何百回も海に行く約束をしたことを。
それでも、「痩せるから海に行こうね、絶対だよ」と約束をしてくる彼女はどうしようもなく可愛らしくて。進まない街でたった一人の生きた舞台装置の僕はいつだって幸せな気持ちになる。
それが巻き戻しすぎて擦り切れたフィルムでも、僕はその映像を愛している。
ーいつか、いつの日かほんの少しだけ台本が狂って僕らが海に行けたらとても嬉しい。
ナイフ
僕が好きだった彼女は死んだ。僕がその白い首を締めて殺した。段々と細くなる呼気をひゅーひゅーと洩らしながら彼女は恍惚とした表情をしていた。
彼女は不死の呪いに掛かっている。へそ曲がりの神様が「ずっとこのまま居られますように」という彼女の祈りを歪んだ形で叶えてくれた。大きな代償と引き換えに。
その異変に気がついたのは古びた神社を詣でた三日後のことだった。原因は僕が調理中にちょっかいをかけたことだけれど、今となってはどうだっていい。
晩御飯を作っている最中に彼女は指を切った。赤い血が数滴薄い切傷のあるまな板に飛んだ。
水気に滲んで花の咲くまな板を横目に僕は彼女の指先から目が離せなかった。休日の午後、ピアノの鍵盤の上を踊る彼女の指先にできた切り傷からは赤黒い泡が吹き出て瞬きの間にふさがり、まるで何も無かったかのように綺麗につながった。
驚いて彼女を見ると彼女は青ざめた顔で泡立った指先を見つめていた。回る換気扇を通して夜が部屋の中に忍び込んで来ていた。
その夜、彼女は夢を見たという。顔のない全身が白い、つるりとした肌の男に首を絞められる夢だったらしい。夢の中で彼女は死んだけれど、体中が泡立つような感覚がして目覚めた、と。そしてそれは、今まで味わったことがないほど気持ちが良かった、と。
彼女は毎晩、その夢を見た。僕はある日、彼女がカッターナイフで腕に切り込みを入れて滴る血にまみれた腕を掲げて踊っているのを見た。雨上がりの日差しが窓から彼女に差し込んでいた。彼女はとても優しい笑顔で笑っていた。まるで宗教画に出てくる天使のようで、僕は彼女が踊るさまをずっと見ていた。
彼女の自己破壊欲求は段々と強くなった。行為中にも首を絞めることを求めたり、切り傷では飽き足らず身体に刺し傷を作るようになった。
ある日彼女はこういった。
「私のこと、壊してほしいの。こんな事あなたにしか頼めないから」
僕は躊躇った。彼女のことは好きだったけれど、彼女を壊したあと、もし直らなかったらどうしよう?
「大丈夫。一回壊してみたの。自分で」
その言葉を合図に僕は彼女の柔らかい首に指を埋める。潰れた蛙のような声を出して彼女の息が詰まる。口元から唾液を垂らしながら彼女は天使の微笑みで僕を見る。その表情を崩したくて僕は指先に力を込める。骨が軋むほどに。爪が肌に食い込むほどに。
生き返ったあとで彼女は「やっぱり好きな人にしてもらうのは自分でするのと全然違うね」と恥ずかしげに僕の腕の中で呟いた。
何度も縊り殺すうちに、彼女はそれでは満足できなくなったらしく、解体用のナイフをどこからか買ってきて僕の手に握らせた。ベッドが汚れないようにブルーシートを引いて、僕は彼女にまたがって柔らかな2つの乳房の間に何度も何度もそれを深く突き立てた。溢れる血は温かくてそれに手を浸していると世界と自分の輪郭が滲んで一つになっていくような高揚感を得ることができた。
彼女の心を取り出して眺める。生き返りつつあるそれはぴゅっぴゅっとまだ塞がっていない血管から血を吹き出しながら心は拍動をしていた。何かの漫画で見たように握りつぶそうとしたけれどそれは存外ぶにぶにと柔らかく所詮内臓の一つなのだと思った。
「私は毎日生き返るよ。それって普通の人が夜眠って朝目覚めることと同じような話じゃないかな」
と彼女は言う。何度も死んで生き返った彼女は元の彼女と同じなのだろうか?彼女の肚の中には呪われた赤黒い泡しか詰まっていないのではないだろうか?
そんな考えが頭をよぎるが僕は彼女にナイフを突き立てる手を止められない。刺して壊して犯して奪う。それが今の僕らの愛の形だ。